相模路・相模の海 
更級日記は平安時代後期に菅原孝標女によって書かれた日記で少女時代からの約40年間の人生を回想しながら書いた自叙伝的な日記である 其の中に『東路の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人・・と言う文言がある 相模路は足柄峠から小田原・平塚・鎌倉から三浦半島をへる旧古東海道と思われる 東路とは相模路を含む東海道でもあるので東路の歌も載せました

 相模路の  余綾の浜の 真砂なす児らは 愛しく思はるるかも          万葉集巻14-3372

  東路や あひの中山 ほどせばみ 心の奥の 見ばえこそあらめ         山家集 西行法師

布さらす これや相模の 布ならむ 笹分け衣 ぬぎも替へばや              四条宮下野集

相模嶺の 雄嶺見過ごし 忘れ来る 妹が名呼びて 吾を哭し泣くな            万葉集 東歌

大魚つる 相模の海の 夕凪に みだれえいづら 海小舟かも           賀茂真淵翁歌集

神無月 たちにし日より 雲のゐる 阿夫利の山ぞ 先ず時雨れける     賀茂真淵翁歌集
阿夫利山=大山=相模嶺
大山は厚木市・秦野市・伊勢原市の境界にあり雲がわき雨が降りやすいので雨降り山・阿夫利山とも言い古来雨乞いの山として農民の信仰を集めた 山頂に阿夫利神社山麓に大山寺あある

卯の花の 咲ける垣根は 布のさらす 相模の市の 心ちこそすれ             基俊集 藤原基俊

相模なる たちのの山の たちまちに 君にあはむと 思はざりしか         夫木和歌集 読み人知らず

 さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも          古事記 弟橘比売命
父景行天皇の命でまつろわぬ東国の民の征伐のための東征に日本武尊は相模国に着いたときその国造に騙され火攻めに遭う 『その燃えさかる野原の中でさえ私のことを心配してくれた貴方よ』と 彼女は詠んだのです  彼は倭比売命から賜った神劍天叢雲剣(草薙の剣)で燃えさかる野火を払いのけ一命をとりとめた その地が現在の焼津の地名となった  さねさしは相模にかかる枕詞 剣は名古屋の熱田神宮に祀られている

     初汐や 旭の中に 伊豆相模                            与謝蕪村         
相模国一之宮 相模国唯一の明神大社  寒川神社 神奈川県高座郡寒川町3916 関八州の守り神 江戸の正裏鬼門を守る社 全国唯一の八方除・方位除の守護神 地相・家相・方位・日柄・交通厄年等に由来するすべての禍事・災難を取り除く霊験あらたかなる神様としてご祈祷人数日本一を誇る神社  早朝見て驚いたのは2001年から始ったという迎春山門ねぶた 多発する自然災害や感染症の収束を願う厄難消除をテーマに毎年年末年始に夜は点灯される 幅9m・高さ3m奥行き2mで神社が年毎にデザインを考え青森ねぶた師が制作・取り付けをする 右はネットより拝借 神奈川県では鎌倉の鶴ヶ岡八幡に次ぐ参拝者
上左 寒川神社拝殿 年間200万の参拝者を誇る 上中 鶴嶺八幡宮 茅ヶ崎市浜之郷440 源氏縁の神社で関東進出最初の地  平安時代後期源頼義が平忠常の乱を平定した折 このあたり懐島郷の風光明媚な小丘に源氏の守り神石清水八幡を勧請したのに始る その後前9年の役で奥州に向うとき頼義・義家親子が戦勝を祈願して植えたのが始まりという その後源氏の崇敬を受け頼朝の鎌倉幕府へとつながる源氏の日本統一の歴史の中で関東武士の心のよりどころとなる 右の大銀杏は神奈川銘木100選にも選ばれている鶴峯の大銀杏で樹齢1030年以上あり源頼義お手植えの銀杏で八幡太郎と呼ばれる 上右 国道1号線から鶴峯八幡宮の参道入り口にある大鳥居と松並木が続く
上 南湖の左富士の碑 茅ヶ崎市南湖1(鶴見八幡宮参道入り口大鳥井の向いにある)  江戸と京都結ぶ東海道 江戸から京都へ向って歩くと富士山は進行方向に向って常に右側に見えます 所がここ茅ヶ崎の鳥井戸橋付近では道路が右に湾曲してるため進行方向左側に見えます 但しこの日は曇りで見えず これを南湖の左富士と呼ばれ国土交通省関東整備局は関東の富士見百景(富士山が美しく見える地点233カ所)に選定している  左は安藤広重の浮世絵 但しこの絵は静岡県吉原の左富士 左に見えるのはこの2カ所のみ
左2つ 国指定天然記念物相模川橋脚跡 大正12年の関東大震災と翌年の余震によって水田に埋もれていた橋杭が出現した全国的に希な遺蹟 鎌倉時代建久9年(1198)に頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証された  3.11大震災以降平成24年には天然記念物に指定され一カ所に2つの国指定があるのは極めて珍しい  右端 懐島平権守大庭景義(義)公と懐島館跡の碑 茅ヶ崎市矢畑142 鎌倉4兄弟の大庭(懐島)景義・大庭景親・大庭(豊田)景俊・大庭(俣野)景久 桓武平氏良文流の鎌倉権五郎景政が開発して伊勢神宮に寄進することにより成立した大庭御厨を支配していた 高座郡・茅ヶ崎・藤沢を含む相模国に最大の御厨 頼朝挙兵に大庭景親は平氏側について石橋山合戦で頼朝軍破ったが他の3人は頼朝軍についた 
上 大岡越前守歴代菩提寺 浄見寺 茅ヶ崎市堤4317  南町奉行所の大岡越前守忠相は江戸時代中期の官僚 庶民の暮らしを考え江戸町民のために様々な施策した人物 テレビの時代劇でご存知大岡裁きで有名 町民によるいろは47組の火消し組・困窮者のための小石川療養所開設・永代橋や両国橋等の改修修繕・目安箱の設置・通貨改修・各種商業組合の3設置・吉原以外の売春禁止等8代将軍徳川吉宗の享保の改革を支えた 上左の石柱の側面にはいろは48組の紋章が彫られている 上中 早朝で中には入れず 右端が初代忠勝から忠正・忠世・忠眞等13代の墓碑があると言う 左端の四角い墓碑が5代目忠相の墓 上右 忠相顕彰碑
上左 山田耕筰赤とんぼ作曲の地  茅ヶ崎市南湖3-17作曲  作詞 三木露風 大正15年東京よりトラック3台分の楽器をもって家族共々この地に移り住む 『晴朗な茅ヶ崎湘南の大気その晴朗な大気と愛児らの素純それこそは私の胸底に徒らなる永き眠りを強いられていた歌に朗らかな暁の光を点したのであります』とある(昭和2年4月3日 南湖の居で 耕筰の手記より) 中左 『私は今 此の曲集を祖国の父と母に 姉と妹に そして愛するコドモに贈る』 茅ヶ崎南湖の居にて 手記にある家はこの奥の2階家の位置にありました と書いてある 中右 耕筰下宿の家です 建物は新しくなりましたが大家さんは同じだそうです 上右 高砂緑地公園  茅ヶ崎市東海岸北1-4-50 オッペケペー節で明治初期9一世を風靡した興行師 芸術家 新派劇創始者 明治30年代川上音二郎・貞奴の別荘→大正8年日本化薬や北陸電力等の実業家原安三郎の別荘松籟庵とす 昭和59年茅ヶ崎市が買い取り高砂緑地とす 尚貞奴は日本初の女優としてマダム貞奴と呼ばれロダン・ピカソ・ジイド・プッチーニ等の世界の芸術家も魅了した人物  音二郎亡き後は福沢桃介の電力事業を支えた
左端 高砂緑地園 松籟庵    中 庵内一茶句碑  竹にいざ 梅にいざとや 親雀 右端 庵内芭蕉句碑 名月や 池をめぐりて 夜もすが  
上左2つは 平塚らいてうの石碑 高砂緑地園内 左側石碑 『元始女性は太陽であった 真正の人であった 今女性は月である  他に依って生き 他の光に依って輝く病人のような蒼白い顔の月である』 青鞜創刊の巻頭文が彫られている 右側石碑 平塚らいてう顕彰の碑 東京に生まれ日本女子大に学ぶ 1911年青鞜創刊の辞「元始女性は太陽であった」は日本女性初の人間宣言として後世に残る 大正期に新婦人会を興し女性に禁じられていた政治への一歩を開く 第二次大戦後も女性解放・世界平和の初心を貫く 生涯の伴侶奥村博史と南湖の地で巡り会い茅ヶ崎を「愛の故郷」と想っていたらいてふを偲んで建立す とある 蛇足ながら女性より年下の若い男の恋人のことを若いツバメと言ったのは彼女である  右2つは デビュー60周年記念 加山雄三モニュメントと雄三通り交差点 茅ヶ崎市東海岸南1-1-1 茅ヶ崎駅から250mの所に在り以前はこの通りは美男スターとして有名な父親の名の上原謙通りと言われた この先の海に近い所に父親の旧居があった 雄三も茅ヶ崎育ちで2代にわたり通り名になるのは珍しい
上左 団十郎の山碑 茅ヶ崎市平和町7-1 歌舞伎界で名優と言われた9代目市川団十郎は明治29年この地に別荘弧松庵を構えていた 18,900平方メートルで敷地内に稽古場も造り将来の若手の育成もした 今でも団十郎山呼んで親しんでいる  右2つモニュメントchigasaki southern beach 茅ヶ崎市の定番名物スポッ 茅ヶ崎サザンC 茅ヶ崎市中海岸3丁目12986 材質総チタン 直径3.5m 厚さ50cm 重さ400kg 平成14年3月3日建立 勿論茅ヶ崎市の頭文字C
 

上左 国木田独歩追憶碑 茅ヶ崎市中海岸3-3 鎌倉夫人 武蔵野などの明治時代の小説家 結核の為当時東洋一言われた茅ヶ崎の南湖院結核療養所で36才の若さで没す 碑には自筆の以下の三行詩と似顔絵が彫られている 永劫の海に落ちてゆく 世世代代の人の流れが 僕の前に横たわっている  独歩  上右 湘南道路の碑 昭和の初期 今の藤沢市片瀬町から大磯までの海岸沿いに湘南遊歩道路を造る計画が立てられた 湘南海岸一帯の観光地・住宅地として開発するためと当時の不況からの失業対策もあったようだ 昭和6年から工事が始り10年には完成した 現在は片道2車線の見事な道路となっている

大山は標高1254m 丹沢山系の山々と丹沢大山国定j公園を形成している神奈川県有数の観光地  勿論の時間が無いのでネットから拝借した 登山口は多数あるようだが左端大山道の道案内標識は小田原曾我からのもの 右端の梅に富士山は大山同入り口近くからの絶景 江戸時代の相模風土記稿には『大山は雨降山・阿部利山・大福山・如意山の名あり 当国諸山の中最も高嶺なれば大山と称せるないり』とある  時により 過ぎれば民の 嘆きなり 八大竜王 雨やめたまえ  八大竜王=大山の神  源実朝  阿夫利山 わけい累道に 志おり置く 津由の言の葉 志累遍登もなれ    
 浄土宗塩海山花月院知足寺  中郡二宮町二宮1091 曾我兄弟縁のお寺  開基の花月法尼は曾我兄弟の姉に当たる 仇討ち後兄弟を弔うために建立した 相模路には曾我兄弟縁の地が沢山ある 右端 曾我兄弟と花月尼・二宮弥太郎朝定夫妻の墓 奥にある丸っこい自然石がそれで左二つが花月尼・二宮の墓碑 右側ふたつが十郎五郎兄弟の墓 文字が読めなく手前の加工石も含めて撮影した 尚兄弟の墓は各地にありあります  仇討ち前に母に送った遺書の歌 十郎  たらちねは 斯れとてしも 育てけん 露けき野辺の 土となる身を  五郎  思はれよ 花の姿を 引替へて あらぬ形見を 残すべしとは 更に二人の相思の女性の歌もある 虎御前 露とのみ 消えにし跡を 来て見れば 尾花がすえに 秋風ぞ吹く 化粧坂少将 捨つる身に なほ思い出と なるものは 問ふにとはれぬ 情けなりけり
上 相模国二之宮 延喜式内社 川匂神社 中郡二宮町山西2122 小田原城の北の鬼門守護神に位置し源頼朝と北条政子も安産祈願に参拝した由緒ある神社 明治時代に神社発展の立役者は伊達時 医師でもあり神奈川県医師会長でもあったが福沢諭吉や伊藤博文ら政治家とも交友があり政友会立ち上げにも尽力した人物  左の石碑の川匂神社の文字は伊藤博文の揮毫による  右端 馬入の渡しの碑 平塚市馬入 江戸時代幕府は警護上大きな川に端を架けることを禁止した 大道脈の東海道を横切る相模川は当然架橋は禁止され多くは渡しである 馬入の渡しである
上左 平塚 広重の相模川馬入の渡しの図                                 上右 国道1号線の現在の馬入橋と相模川
東海道馬入の渡し 
いささかは 心うれしく 馬入川 越えて来ぬれど この悲しさは  田波御白   

トラスコ湘南大橋 相模川河口                             平塚八景の碑 湘南潮来と河口  平塚市須賀 相模川下流河口一帯は湘南潮来と呼ばれる水郷地帯 マリンスポーツや釣り花火大会等で賑わう所 湘南大橋は国道134号線に架かる橋で全長700m   トラスコとは機械工具卸会社トラスコ中山の命名権で珍しいネーミング橋だ

 
左端  相州須賀湊之碑 湘南潮来の河口 平安時代空海の来航から江戸時代千石船の商業地としての湊之隆盛と河口の変化に富む雄大な眺望景観の名勝となったことが記されているようだ 昭和41年建立   中・右端 夏の定番怪談番町皿屋敷のお菊の塚がここ平塚市にあるのです 平塚市紅谷町15-22  番町とは 東京都千代田区の外濠の内側市ヶ谷御門内(市ヶ谷見附内)で将軍の警備にあたる大番組・旗本が土地を与えられ屋敷を構えていたところで一番町から六番町の区画割の武家屋敷 この五番町に屋敷のあった青山主膳宅のお菊という下女が主膳お気に入りの10枚一組の内の一枚を割ってしまったことに話が始る・・・・のは 皆さんご存知の通りです

上左2つ お菊塚  お菊は平塚宿の宿役人眞壁源右衛門の娘 江戸で旗本青山主膳屋敷行儀見習奉公に出ていた ある日屋敷内で主人愛玩の十枚一組の南京絵皿の内一枚を無くした そのため主膳の怒りをかい屋敷内の井戸に投げ込まれた  お菊の遺体は引き揚げられ罪人の例にならい長持ちに詰められ江戸から平塚まで送り返された 馬入の渡しで娘の遺体と対面した源右衛門(4代目)は悲しみをこ下の句を詠む

             もの言わぬ 晴れ着姿や 菫(すみれ)草   頂いた説明用紙       あるほどの 花投げ入れよ 菫草   塚の説明板        真相は奉公先で言い寄ってきた家来を突っぱねたところこの男に皿一枚を隠されたとのこと 冤罪で悲しい最後となった それがモチーフとなり怪談番町皿屋敷が生まれた と言う 上右2つ 眞壁家の墓地とお菊の墓碑(貞室菊香信女) 源右衛門は刑死人の例にならい墓は造らず栴檀の木を植え塚とした 昭和27年に市の区画整理のため初めて眞壁家の墓地に埋葬されたという  尚兵庫県の姫路城には播州皿屋敷の伝承があると言う

上 平塚市 平塚の名の由来の碑 平塚の塚緑地 平塚市4丁目10  由来は上記の通りでしょう 確かに高見王は平氏の祖でありその子平良文が板東に下り有名な平将門など板東平氏の基になる 後に千葉の庄の開拓の千葉氏へと発展する 孫娘政子(真砂子)が板東の親戚筋を遊びに行っても不自然ではないね 経年変化で墳墓塚が平になったから平塚とは・・・・  平氏筋の塚だから平塚では無かったのですね 
 
上 菅原神社と境内内石碑  小田原市国府津1752  上中左 童歌とうりゃんせ歌碑 ここの細道は箱根峠の関所を通る細い道だそうです 箱根の峠を越えて菅原神社にお参りに行くのは良いけどもしも帰りが遅くなったら関所が閉まってしまったら怖い と言う意味らしい 埼玉県川越の三芳野神社の解釈とは違うようだ 上中右 菅原道真歌碑 全国にある天神様には何処にもある有名な和 東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ  上右端  曾我兄弟隠れ石 勿論本物ではない 曾我兄弟が富士の裾野で工藤祐経討つために隠れたという石 東海道の大磯から小田原に架けては曾我兄弟の伝説が多数残っています 富士宮市の隠れ石が本物です 墓や供養塔はあちこちにある

上左端・右端 二宮尊徳遺髪塚 尊徳の母の実家は旧曽我別所村の川久保家  天保11年(1840)尊徳は家運が傾きかけていた川久保家を再興するため市太郎、民次郎、常次郎の三人の子息に無利子の報徳金を貸し付け復興の指導を行った   その結果もっとも成果を上げた民次郎が川久保家を継ぐこととなったという 民次郎は永らく尊徳に仕え尊徳が亡くなるとその遺髪を曽我へ持ち帰っていた この遺髪塚は民次郎の遺言により孫の奥三郎が昭和13年に建てたもの   曽我別所の曾我梅林 小田原市曽我別所  菅原神社から宗我・城前寺(曾我兄弟の墓碑)え向う途中に見えた富士と梅の枝の景色が素晴らしかった 名産の小田原梅干しは戦国大名北条早雲に依る薬功と防腐効果に着目し植樹を奨励したことに始る

上左 左側面には 宗我神社と彫られ右側面には曾我兄弟旧跡城前寺 と彫られている 小田原市曽我谷津420  宗我神社は曾我の人々が小澤大明神を崇拝して祀ったのが始り 長元元年(1028)大和国宗我都比古神社の神主だった宗我播磨神保慶が祖先の宗我都肥子巫女と武内宿禰を祀って創建したもので曾我兄弟とは直接は無縁  上中 曾我兄弟仇討ちの像 曾我寺 富士市久沢229 ネットより 曽我兄弟の仇討ちとは一族内の所領争いから工藤祐経に殺された河津祐泰の遺児十郎と五郎が苦難の末に源頼朝が催した富士の巻き狩りの宿泊地にて父の仇を討つも十郎も五郎も命を落とす史実をもとにした物語 河津祐泰の子なのになぜ曽我兄弟なのかというと祐泰の死後母親が兄弟を連れて曽我祐信と再婚したからです この物語は単純な勧善懲悪ものとして広く流布し工藤祐経は所領を横取りするために河津祐泰を殺した極悪人ということになっている話が多いが実際の事情はもっと複雑 若かった工藤祐経の後見人になった一族の長老の伊東祐親が工藤祐経を京都の平氏一門に出仕させる名目で追い払いその隙に祐経の所領を横取りし祐経の妻(祐親の娘)も取り上げて他家に嫁がせてしまったことが発端です 信頼していた伊東祐親に所領も妻も奪われてしまった工藤祐経はこれを怨み狩りに出た伊東祐親の暗殺を家臣たちに命じるのですが彼らの放った矢は誤って伊東祐親の子の河津祐泰に当たってしまい祐泰が死んでしまったのです 伊東、河津、工藤とそれぞれ苗字が違いますが彼らは全員同じ工藤一族です 当時の武士は自分の領地がある地名を苗字として名乗ることが多かったのでこういうわかりにくいことになっている さて父を殺された十郎と五郎の兄弟は工藤祐経を討つ機会をうかがっていた そしてある日 工藤祐経の一行が通ることを知り道端の大石の影に隠れて祐経を暗殺(曾我兄弟之隠れ石)しようとしました しかしこの暗殺は成功せず十郎と五郎は次の機会を狙うこととなったと伝わる 上右 曾我兄之弟遺蹟の碑 城前寺 小田原市曾我谷津592 城前寺は曾我兄弟之菩提寺です
 左端 曾我兄弟菩提寺 城前寺 曽我兄弟の実父河津祐泰が工藤祐経に伊東祐親と誤って討たれた 兄弟の母満江は伊東祐親のすすめで曽我祐信と再婚し兄弟も曽我家で育てられた 中左 曾我兄弟之遺蹟跡碑 上右 曾我兄弟遺頒碑 文字は小さく読めません 右端 曾我兄弟発願之像 兄9才 弟7才の時父を亡くして以来1193年 建久4年5月28日(旧暦6月28日)22才・20才で本懐を遂げるまで母親は平穏な生活を望んだにもかかわらず片時も復習を忘れず堅く心に誓った 

ちはやぶる 神の誓ひの 違はずは 親の敵に 逢ふ瀬結ばん  曽我十郎祐成  天くだり 塵に交はる 甲斐あれば 明日は敵に 逢ふ瀬結ばん   曽我五郎時致

 上左端 曾我兄弟の墓碑 上中左 曾我兄弟と河津祐信夫妻の墓  小さいけど遠くに左側に2つ 右側に2つの墓碑が見えます 上中右 祐信満江の墓碑 上右端 何故か義仲と巴の墓がある 右 木曽義仲の墓 左 巴御前の墓 善栄寺 小田原市栢山868 伝承では健保3年(1215)巴御前が木曽義仲と和田義盛の菩提を弔うために創建したと言う 木曽義仲は寿永3年(1184)近江の粟津で討ち死にするが巴御前は落ち延び鎌倉の源頼朝に召され和田義盛の妻となって朝日奈三郎義秀生んだというが定かではない 
左端 二宮尊徳生誕の地 小田原市栢山2064 上中左 尊徳生誕の家 天明7年(1787)この家で誕生 建築年月日は明らかでないが恐らく二百数十年経過と思われる 現在でも主なる木材は手入れが不要の程堅固である 16才になるまで居住していた       上中右 二宮尊徳先生回村の像
            
何事も 事足りすぎて 事足らず 徳に報いる 道の見えねば    何事も 己が歩みに 異ならず 右足進めば 左とどまる 右端  尊徳貧富訓の碑

                  貧 遊楽進分外勤苦退 分内則貧賤在其中   遊楽分外に進み 勤苦分内に退けば 則ち貧賤其の中に在り

                  富 遊楽退分内勤苦進 分外則富貴在其中   遊楽分内に退き 勤苦分外に進めば 則ち富貴其の中に在り

遊び楽しむことが自分の分度を超えてしまい勤労の苦しみにより得られるものが分度に足りなければ自然と貧乏になる その反対に遊楽を分度内に押さえ勤苦によりえられるものが分度より多ければ自然と富貴となる

善栄寺境内 小田原市柏山868  左端 二宮金次郎少年勉学の像  積小為大 とある 又碑文には おともなく 香もなくつねに 天地は 書かざる経を くりかへしつつ  中・右端 二宮尊徳の墓地
左端 北条氏康夫人の墓 善栄寺境内 今川義元は氏康夫人の弟である 彼女は才色兼備で天文4年から元亀2年亡くなるまで35年間内助の功で氏康を助けた 子福者で男子七人女子五人を産み育てた 中2つ 新田義貞首塚 小田原市東町4-5 建武の中興の新田義貞は北陸を転戦中延元3年(1338)越前国(福井県)藤島で討死し足利尊氏によってその首級を晒されていた  義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は 主君義貞の晒首を奪い返して義貞の本国 上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った しかし酒匂川のほとりここ網一色村に達したとき病にかかり再起できなくなってしまった  そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して自身もこの地で歿したと伝える 丸に一つ引きは新田家の家紋 右端 山王原一里塚 江戸見付口  小田原市浜町4-25-2 ここは小田原から江戸に向う出入り口で東海道小田原宿の入り口で江戸日本橋からここ山王口まで約83kmである
上 北条氏政・氏照墓地 小田原市栄町2-7-8 御覧のように小田原駅前の繁華街の一部にある珍しい墓地 北条氏政は北条氏康の嫡男 4代目小田原城主 北条氏照は北条氏康の三男 武蔵国八王子城主 秀吉の小田原城攻めで兄氏政と共に切腹 北条五代とは早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直  右端の説明文には 五輪塔向って右の大きい塔が氏政夫人の墓 中央が氏政の墓 左が氏照の墓 墓の前にある生害石が二人がその上で自刃したと伝える 左端の傘型石塔婆墓誌には 慈雲院殿勝岩傑公大居士 北条相模守氏政 清雲院殿透岳公大居士 天正十八庚寅年七月十一日 北条陸奥守氏照 天正十八庚寅年七月十一日 と同日日付の自害日である
 右端は大正12年9月1日関東大震災で埋没して行方不明となった墓碑を翌年地元の有志によって発見され復興された旨の事が彫られている
左端 北条早雲生誕の地碑  高越城祉  岡山県井原氏神代町 ネットより拝借  鎌倉時代の伊豆の北條氏(元々伊勢氏)と戦国時代の小田原の北条氏(後北条氏)とは全く別系統です 中 北条早雲騎馬像 小田原駅前 右端 小田原城 枯るる木に また花の木を 植ゑそへて もとの都の なしてこそみめ 辞世?
 左 小田原城三の丸外郭 小田原城西端 新堀土塁跡 画像左の方 映っていないがにここは小田原北条氏時代の濠の名称として唯一確認できる所 眺望も素晴らしく相模湾 伊豆大島 真鶴半島も見え正面の丘陵が石垣山で秀吉の一夜城があったところ  右 北条早雲菩提寺 金湯山東雲寺惣門(薬医門) 足柄下郡箱根町湯本405 
左端 北条五大墓地入り口 中  北条五大の墓碑 右から 早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の順 右端 連歌師 宗祇の墓碑 和歌の西行 俳諧の芭蕉 等と共に連歌の宗祇として漂白の歌人
左端 外郎本店 中国元朝に仕えていた陳延祐と言う人物が中国での官職名礼部員外郎名から ういろう と命名した  戦国時代に北条早雲に招かれ京都からやってきた外郎家  1885年に建てられた蔵にある博物館ではその24代にわたる歴史と一子相伝の薬「透頂香」と接待用に作られていたお菓子のういろうについて紹介販売している  一見小田原城かと見まごう建物にはびっくり!! 中 菓子ういらう 室町時代から受け継ぐ食感と風味 とある 右 懐中必携之霊剤 透頂香ういらう 外郎藤右衛門 とある 小田原名物の薬とお菓子を販売している
 上 めだかの学校発祥の地 小田原市荻窪453-2 童話作家茶木滋が昭和25年NHKの依頼で終戦後の荻窪用水のこの辺りで息子義夫と買い出しに出かけた途中の会話からもとにして作られた と言う 今親水公園となっているこの用水付近で子どもがめだかを見付け大声で『めだかだ』だと叫んだ 滋が覗いたが見当たらない 『余り大声で叫ぶから逃げちゃったのだ』と言うと子供は『直ぐ来るよ ここはめだかの学校だから』と言ったという  作詩のヒントになったようだ 作曲は中田喜直
上二つ 赤い鳥小鳥 からたの花   北原白秋童謡碑 北原白秋は小田原市に縁が深く故郷福岡県柳川しの19年に次いで長く居住し始めて自宅を持ったのも小田原で大正7年33才の時でその後大正15年5月まで8年2ヶ月わたり居住し多くの作品を創作した 市内には北原白秋記念館や白秋の童謡歌碑を廻る散歩道も整備されて市内を巡りながら子供の頃歌った懐かしい歌詞の碑を見ることが出来る 生涯で1200ほどの作品中約半分は小田原時代に作成されたという 小田原は童謡の町づくりを進めている 右端 一夜城入り口にある小田原攻めに参加した 石垣山に散陣した武将たち 宇喜多秀家の説明板
左端 石垣山に参陣した武将たち 千利休 山頂までの途中に他に数人の武将の説明板がある  中 途中の小田原市内  右端 石垣山一夜城歴史公園の碑
豊臣秀𠮷 一夜城山頂からの北条氏(後北条)の小田原城下と相模湾を望む

一夜城の由来 この城が世に石垣山一夜城又は太閤一夜城と呼ばれるのは秀吉が築城にあたり山頂の林の中に塀や櫓(やぐら)の骨組みを造り白紙を貼って白壁のように見せかけ一夜のうちに周囲の樹木を切り倒しそれを見た小田原城中の将兵が驚愕し士気が低下した 然し実際はのべ4万人が動員され天正18年4月から6月まで約80日間を費やした

一夜城の現在の石垣 当時は 石工(いしく)の穴太(あのう)衆による野面積みされていた石垣  穴太衆は織豊時代に活躍した滋賀県比叡山禄にある穴太の里 寺社・城郭の石組みに高い技術を持つ石工集団 滋賀県大津市坂本穴太と言う地名がある 右端には石垣に使われずに残された石の一部
 左端 源頼朝挙兵の地碑 石橋山古戦場       中 石橋山       右端 源頼朝挙兵の地 佐奈田霊社入り口 小田原市石橋420
ここは源頼朝が僅か300騎で打倒平氏に旗揚げした地 迎え撃つ平家方の大庭景親3000騎と激突 大敗した小田原の山岳地帯です
 
左 佐奈田霊社  小田原市石橋420 石橋山の合戦で頼朝方の佐奈田与一義忠敵将俣野景久(大庭景親の弟)を組み伏せたが与一の刀は血糊で抜けずその間に敵の長尾新六に討ち取られた 又与一の郎党文三家安が主人の死を聞き敵中に飛び込み討ち死にした その与一が討ち死にし遺骸を葬ったのが与一塚だ  その霊を祀るのが佐奈田神社 又100ほどの所に文三堂もある 建久元年源頼朝は伊豆山権現神社を参詣の帰りにここに立ち寄り涙を流したという 右 与一塚 佐奈田神社の前にある
 
ネットより拝借した土肥椙山のしとどの窟  足柄下郡湯河原町鍛冶屋 石橋山の合戦に敗れた頼朝主従が身を隠した洞窟
上左 源頼朝船出の濱 真鶴の濱  神奈川県足柄下郡真鶴町岩957-1 ここから船出した頼朝主従は房総半島の鋸南町に上陸した 此の浜から脱出した主従は湯河原の城願寺の七騎堂に祀られている木造によると土肥次郎実平、安達藤九郎盛長、源頼朝、岡崎四郎義実、土屋三郎宗遠、新開次郎忠氏、田代冠者信綱とされている 中 源頼朝開帆處處 誓復父讎挙義兵石橋山 上決輸贏佐公雖昔開帆 處謡曲長伝七騎名  石橋山の合戦に敗れた頼朝が再起を期して此の浜から房州に向けて船出したと事を記念した石碑  昭和12年11月建立 と彫られている  上右 源頼朝船出の浜の碑 石橋山の合戦治承4年(1180)に敗れた源頼朝は箱根山中やししど窟等に3難を逃れ謡坂を経てこの海岸から房州に向って船出し虎口を脱したと伝えられています 船出に協力した村民達の鮫追船2艘については税が免除されたといわれ小田原北条氏によるとそいの確かな文書が伝えられている と彫られている
 上左 土肥一族の墓地入り口 菩提寺城願寺 足柄郡湯河原町城堀252 左の手前の石柱には1816年12月19日伊能忠敬測量隊が土肥氏に墓参した事が彫られている 中 土肥一族の墓碑 上右 七賢堂 中には平家打倒立ち上がった石橋山に頼朝の手となり足となった土肥次郎実平、安達藤九郎盛長、源頼朝、岡崎四郎義実、土屋三郎宗遠、新開次郎忠氏、田代冠者信綱の木像が安置されている 神奈川県指定史跡
上左  土肥氏館跡の土肥実平夫妻の像 湯河原駅前 足柄下郡湯河原町土肥1丁目1 土肥実平と子の土肥遠平は1180年の頼朝旗揚時の有力な武将 合戦の前この館に2日間逗留したが敗れるとこの館に退却その後その奥にあるししどの窟へ逃れる 上中左 土肥実平夫妻の像の前にある乾坤一擲の石碑  頼朝も挙兵780年を記念して昭和35年8月建立 上中右 独歩の碑 湯河原万葉公園内 石碑には『湯河原の渓谷に向ったときはさながら雲深く分け入る思いであった』と彫られている 上右端 湯河原万葉公園 万葉歌碑 足柄下郡湯河原町宮上704  足柄の 土肥の河内に 出る湯の 世にもたよらに 子ろがいはなくに 巻14-3368 この歌は万葉集4500首の中でただ一首温泉を詠んだ歌で湯河原温泉を詠んだもの 万葉公園入り口