(さきたま)玉 の 津

佐吉多萬能 津尓乎流布祢乃 可是乎伊多美 都奈波多由登毛 許登奈多延曽祢 
埼玉の 津に居る舟の 風をいたみ 網は絶ゆとも 言な絶えそね           万葉集巻14-3380 

さし暮るる 洲埼に立てる 埼玉の 津に居る舟も 氷閉じつつ               藤原 定家 

前玉之  小埼乃沼尓  鴨曽翼霧  己尾尓  零置流霜乎  掃等尓有斯
埼玉の 小埼の沼に 鴨ぞ翼きる 己が尾に 降り置ける霜を 掃ふとにあらし    万葉集巻9-1744

埼玉県名発祥の地『行田市埼玉(さきたま)』は古代河川交通の要衝の地と言う この万葉集に登場する『埼玉(さきたま)の津』は河港でかつては埼玉古墳群を築いた一族の対外的交流拠点として古墳に使われた石をはじめ多くの物資や文化が行き交った地である 今想像すら出来ない地である 古墳群に近い『前玉(さきたま)神社』の石灯籠に刻まれた『埼玉の津』と『小埼の沼』の万葉歌は万葉歌碑としては全国的にも最古に属するという 
 
埼玉の津への途中羽生市になんと市指定史跡田舎教師の墓が在った 田山花袋の名作である 資料によるとここ羽生市が舞台の小説で実在の教師小林秀三がモデルなのだ 明治34年4月ここ弥勒小学校に赴任して明治37年9月に21歳の若さで亡くなった若き教師 小説の中での主人公の名は林清三である 上中 田舎教師の墓 上右 故小林秀三君之墓  
上左端 運命に従うものを勇者といふ 墓の前にあり田舎教師の一説の碑 上中左 建福寺 羽生市南1-3-21 小林秀三が下宿していた 上中右 田舎教師像 小説は「四里の道は長がかった」のフレーズで始る 上右端 文豪巡礼句碑 山門に 木瓜咲くあるる 羽生かな 横光利一の句碑 昭和13念4月横光利一 川端康成 片岡鐵兵3人が訪れた  
上左 県指定史跡八幡山古墳石室 行田市藤原町1-27-2  この古墳からかなりの位の権力者人物とされる前・中・後の3室からなる全長17mからなる巨大な石室で最高級の漆塗りの木棺が出土し聖徳太子伝歴に登場する武蔵国造物部連兄麿の墓の伝説がある 巨大な石室から関東の石舞台とも呼ばれこの付近の古墳群の中心的円墳だ 上中 万葉歌碑遺跡 防人藤原部等母麿遺跡 足柄の 御坂に立ちて 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも(巻20-4428) 埼玉郡上丁 夫 藤原部等母麿  色深く せなが衣は 染めましを 御坂たばらば まさやかに見む(巻20-4424) 妻 物部刀自売 万葉集に収録された武蔵国防人の夫婦の中で唯一夫婦唱和の歌 この夫婦の所在地は不明だが氏名と地名の藤原の同一性からこの付近で詠まれた歌では無いかと推定され県指定史跡とされた 古墳の前にある  上右端 埼玉県名発祥の地碑 行田市埼玉1-3-21 埼玉郡(さきたまのこおり)は古代律令制度による国郡制度発足当初から設置された郡で初め前玉(さきたま)郡と表示されていた 正倉院文書神亀3年(726)の山背国戸籍帳に武蔵国前玉郡の表記が見え延喜式神名帳にも埼玉郡の項に前玉神社二座とある さきたま・前玉・埼玉は正にここ行田市が発祥なのだ 
 
 上左端 前玉(さきたま)神社 行田市大字埼玉5450 埼玉古墳群に隣接する 高さ9m・周囲92mの古墳の上に在る  その両側に歌が刻まれた石灯籠がある 上中 左 巻9-1744 右 巻14-3380 それぞれ元禄10年(1697)当時の氏子蓮が建てた 文字は判明が困難 上右端 西行歌碑 やはらくる ひかりをはなに かさゝれて 名をあらはせる  さきたまの宮     
上左 国指定史跡埼玉村古墳群 前方後円墳8基・円墳1基の大型古墳群からなり他にかつては円墳35基・方墳1基があった 上中 稲荷山古墳 5世紀後半 長さ120m 高さ12m 2重の外堀があった 上右 国宝金錯銘鉄剣(稲荷山古墳出土 表面文字 辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比?、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比  裏面文字 其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也  稲荷山古墳出土の辛亥銘鉄剣はその銘文から辛亥年(471年)に作られたものと考えられている 鉄剣の表裏に金象嵌115文字を記したもので同年代の文献資料の全くない5世紀にあってはほぼ同時期の熊本県江田船山古墳出土の鉄刀銘とともに重要な同時代資料 ワカタケル大王(雄略天皇?)や作刀者の名オワケ等の文字がある
  県指定史跡 万葉遺跡 小崎の沼 行田市埼玉2636-3 江戸時代の武蔵国風土記には長さ3間幅1間とある小さな沼で現在も変わっていないが水はほとんだ無い 地元では古代は東京湾の入り江の名残と伝えられ万葉集の埼玉の津ではないか言われてきた(現代科学で関東ローム層の上に在るのでその可能性は無い) 上中 武蔵小崎沼碑 宝暦3年(1753)忍城主安部正知允が建立 この地が小埼沼に違いないとの講釈が記されている 右側面に巻9-1744 左側面に巻14-3380が万葉かなで刻まれてる 上右 小埼沼史跡保存碑 大正14年(1925)建立 碑文の文言   埼玉県知事從四位勲三等齋藤守圀題 小埼沼は著名の古沼にして往昔水波渺茫舟船の輻輳せしこと古人の詠歌に依りて明なり爾後千有餘年の閒陵谷幾多の變遷あり寶暦三年秋忍城主阿部侯此名蹟の湮滅せんことを憂へ碑石を建てゝ其跡を傳ふ爾来茲に百七十餘年遺跡益荒廢せんとするに方り本縣之か保存の要を師事せられ郷人亦意を此に致し胥謀りて保存會を組織し柵を繞らし?地を浚渫し樹木を植ゑて舊跡を昭にす縣村其資を補助し青年團員工を賛て工事成るに及び記念碑建設の企あり文を余に需む思ふに滄桑の變窮りなし史蹟保存の途は永久に之を繼承せさるへからず郷人此史跡を修理保存し永く懷古の資たらしむるもの實に愛郷の至情に廢せすんはあらす余大に此擧を美とし茲江來由を叙し古歌を録して以て後代に傳ふ
  
さし暮る 洲崎に立たる 埼玉之 津に居る船も 氷閉しつつ        藤原定家
  
山鳥之 小崎の池の 秋の月 さてや鏡を かけて澄むらん         橘 仲遠
  
埼玉之 崎の池にさし暮る 洲崎に咲く花は あやめにまさる杜若かな  讀人不知
                              皇紀二千五百八十五年大正十四歳七月       埼玉縣北埼玉郡長從七位黒澤秀雄撰并書  
 上 熊谷市指定文化財 日本最初の女医萩野吟子生誕の地 熊谷市俵瀬581-1 金子兜太句碑 萩野吟子の 生命とありぬ 冬の利根 後ろが利根川 松竹特別公演『命燃えて・女医1号・荻野吟子』として主演・三田佳子が新橋演舞場にて公演した時に着た鹿鳴館調のどドレス(萩野吟子記念館) 女性を描写したら天下一品の渡辺淳一の小説「花埋み」が萩野吟子の伝記小説で一躍世に出て舞台やテレビドラマになっている  尚埼玉の3偉人とは 萩野吟子 塙保己一 渋沢栄一  上右端 国宝妻沼聖天山・歓喜院聖天堂 熊谷市妻沼1627 
上 県内1号 国内5番目の国宝聖天山本堂 指定理由1 日光の流れを汲み高度な技術 2 多くの国宝が当時の権力者に依るに対して当時の庶民の浄財により44年の歳月をかけてた希有な建物 開山は斎藤別当実盛公の志である祖先伝来のご本尊聖天様を治承3年(1179)お祀りに始る 実盛公次男実長が出家して阿請坊良応となり建久8年(1197)に本坊の歓喜院を開創した 上右端 斎藤別当実盛公像 源平盛衰記や平家物語・謡曲実盛・歌舞伎そして芭蕉の句 むざんやな 甲のしたの きりぎりす に詠まれた実盛公は 加賀国篠原の木曽義仲軍との合戦で手塚太郎光盛によって討ち取られた 当時すでに71才 年寄りと侮られるのをきら嫌い白髪を黒く染めての奮戦だった 首事件に立ち会った義仲は2歳の時に命を救われた白髪の実盛と知り悲劇的対面に涙を流しその甲を多々神社に奉納した  この甲は源義朝からの拝領で彼と甲の数奇さに心打つ逸話である 曽良も 幾秋か 甲にきえぬ 鬢の霜 と詠んでいる   
 
上 大我井神社境内 熊谷市妻沼1480 妻沼聖天山一帯は古来「大我井の森」と称し聖天山神域を含めた広大な森林だった 鬱蒼とした森に白鬚神社と聖天宮の2神が祀られていた  明治の神仏分離令により聖天山に祀られていた神々を地名から名付けられ開創されたのが大我井神社  上左端  藤原光俊の歌碑 紅葉散る 大我井の杜の 夕たすき 又目にかかる 山のはもな  上中 芭蕉句碑 春の夜は 桜に明けて しまいけり稲妻や 闇のかた行 五位の声  上右端 蕪村句碑 菜の花や 月は東に 日は西に雨洗ふ 長井の衆の 早苗哉      
上左 熊谷次郎直実像 JR熊谷駅前 平安末期から鎌倉初期武蔵国熊ヶ谷郷出身 源平合戦一ノ谷の戦いで我が子ほどの平家の若武者平敦盛を討ち取る その空しさから出家し法力坊蓮生と改め法然上人の仏門に入る 上中 直実菩提寺 蓮生山熊谷寺 熊谷市仲町43 蓮生法師が有縁無縁の総ての衆生と共に蓮の台に生まれんと願いひたすら念仏を唱え続けた草庵が始り 中には入れません 上右 奴伊奈利神社 稲荷信仰心が厚かった直実は度々の危機に救われたのは熊谷弥三左衛門と言うお狐様のお陰であるとの信念から熊谷寺の隣に創建した