曝(さらしい)

三栗の 那賀(なか)に向へる 曝井の 絶えず通はむ そこに妻もが     万葉集巻9-1745 高橋虫麻呂

曝井とはその湧水で織布を洗いさらした所を指すようだ 古代税制の祖・庸・調の庸布・調布として都へ送られた 歌の意味は 『中(那賀)に向って流れてゆく「曝井」の泉のように絶えることなく通って行こう そこに愛しい妻がいてくれたらもっと良いのになぁ』となるらしい ところがこの万葉の歌が詠まれた地が二箇所ある ここ埼玉県児玉郡美里町広木茨城県水戸市愛宕町である  左が埼玉県 右が茨城県の各案内板である 当たり前だが同じような内容だ 所で三栗の意味は栗のいがの中には実が三つ入っているので中=那珂=那賀を引き出す枕詞の様なものらしい  常陸風土記の那賀(珂)郡の項の一説に『・・・郡より東北に粟河を挟みて駅家を置く 其(そこ)より南に当たりて 坂の中に出(い)づ 多(さは)に流れて尤(いと)清く曝井と謂う 泉に縁(よ)りて居(す)める村落の婦女夏の月に会集(つど)ひて布を洗い曝し乾(ほ)せり』 とあり風土記作成に関わった虫麻呂を考えると常陸国の曝井を詠んだものか?
 下  左二つが埼玉県の曝し井の歌碑と井戸      右二つが茨城県の曝し井の歌碑と井戸
 
上左端 曝井 古代この井戸の廻りに村の女たちが集まって布を曝しながら亭主をだしにしておしゃべりしていたのだろうか 児玉郡美里町広木1407 上左中  曝井を歌に読み込んだ江戸時代の5首の歌碑 平成12年如月建立 その内の一つ橘 守部の歌『遠き世に 流れて絶へぬ 曝井に 昔を汲めば 袖ぞ濡れける』 上右中 曝井碑 万葉仮名の曝井の歌が彫られている 残りは漢字のみ    上右端 曝井由来記 昭和2年4月建立 埼玉県児玉郡松久村史蹟保存会  
 県指定史跡 伝大伴部真足女の遺跡  児玉郡美里町広木1579 曝し井の近くここ一帯は御所之内と呼ばれていて防人 檜前舎人石前(さきもりひのくまのとねりいわさき)の館跡と言われる 真足女は彼の妻で防人に赴く事になった夫にこの悲しい別離に惜別の情を詠んだもの  上左端 真足女の万葉歌碑 枕太刀 腰にとりはき 真憐しき 背ろがまきこむ 月の知らなく  万葉集二十巻 4413  その意味は『枕太刀を腰に差して、私のいとしい夫が晴れて帰って来るのは、いつの月かはわからないが、早く無事に戻って来てほしい』
上右端 松久山高台院 児玉郡美里町大字猪俣1579 猪俣氏代々の墓 上中左 県指定文化財 猪俣小平六範綱と代々の墓 武蔵武士の武蔵七党の一つ猪俣党として勇猛をはせたが小野篁の末裔と知って驚いた 6代前の時資の時代に猪俣村住んで以来猪俣と称す 保元の乱では源義朝に仕え平治の乱源義平の下で軍功をあげ義朝16騎の勇将として知られる 又一ノ谷の合戦では平盛俊を騙し討ちにしたという 又頼朝に仕え功績を挙げた 上右 鎌倉街道と碑
上左端 深谷駅(正面が工事中のため側面) 深谷駅のこのデザインは1996年の改築時に東京駅の赤レンガ駅舎をモチーフにつくられた 深谷駅が東京駅に似ている理由は大正時代に竣工した東京駅の駅舎の建築時に深谷にある日本煉瓦製造で製造された煉瓦が70キロ以上離れた東京駅まで鉄道輸送されて使われたのだ つまり東京駅のレンガは深谷市のレンガだった なので深谷市にはレンガでつくられた建物が非常に多い  そしてこの日本煉瓦製造の設立に携わった人こそ深谷市出身の日本資本主義の父 渋沢栄一です 上中 渋沢栄一像 深谷駅前 上右端・市指定文化財深谷宿東常夜燈 深谷市田所町 天保11年(1840) 高さ4m 中山道の中でも最大規模の宿場であり熊谷宿と本庄宿の間に位置し西と東の入口に旅人のための目印の2つの常夜燈 下左端 同西常夜灯 田所町天保11年(1840)建立 街道一の常夜灯で天下泰平・国土安民・五穀成就の銘文がある  深谷宿には1,7kmの間に80軒もの旅籠がある街道一賑わった 
上中 県指定史蹟渋沢栄一生家(中の家) 深谷市血洗島247-1 渋沢家は名字帯刀を許された農業・養蚕・藍玉製造を生業としていた 上右 若き日の渋沢栄一銅像(敷地庭) 
 上左 渋沢栄一記念館 深谷市下手計1204 見学無料    上右 国重文本煉瓦製造(株)旧煉瓦製造施設 創立明治21年 深谷市上敷免
上 平薩摩守忠度公墓碑 12世紀源平一ノ谷の合戦で武蔵国の武将岡部小弥太忠澄によって討たれた平氏の知将平薩摩守忠度の墓が清心寺(深谷市萱場441) にある 六弥太は忠度の箙(えびら)に結びつけられた文に『行きき暮れて 木の下かげを 宿とせば 花やこよひの 主ならまし 忠度』 とあるのを見つけ一の谷の西ノ手の大将軍平忠度であることを知った いかに武士の習いとはいえ忠度をあやめた忠澄は死の直前まで風雅な武者であった名将の死を心から惜しんだという 板碑には忠度最期の時極楽往生を願い西に向かって唱えた『感無量寿経』による『光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨(せっしゅふしゃ)』が刻まれています(阿弥陀如来の光明は世界の隅々まで照らし阿弥陀仏を信じ念仏を唱える衆生を必ず極楽浄土に迎えて下さり決してお捨てになることはない) 五輪塔には忠度の毛髪が納められている
上左端 忠度桜歌碑 訪ね来て 思いの枝に 菊の前 夫婦咲きする 忠度桜 伝説では菊の前(忠度の妻 歌人藤原俊成の娘)は忠度の遺跡があると伝え聞き東国に下り杖にしてきた一枝の桜を墓前に献じて冥福を祈った その桜を挿すと桜は根つき花芯から二葉を出し紅白の二花が咲き契り深い夫婦の花忠度桜となったとされている 上中 平薩摩守忠度の歌碑 普斉寺 深谷市普済寺247-1 上右端 忠度を討った岡部小弥太忠澄の墓 深谷市普斉寺811-1 武蔵七党の一つ猪俣党の出身 源義朝の家人として保元・平治の乱で活躍 熊谷次郎直実・斎藤別当実盛・猪俣小平六等ら源氏17騎の一人として勇名をはせた その後頼朝挙兵とともに出陣木曽義仲・平氏を討つ  特に一ノ谷合戦では平氏の名将平薩摩守忠度を討ち一躍名を上げた 
上 県指定史跡畠山重忠公園と墓 深谷市畠山510-2 鎌倉時代の関東武士を代表する武将 源頼朝に仕え鎌倉武士の鑑として尊敬される 然し頼朝亡き後北条時政に謀られ元久2年(1205)二俣川にて一族共々討たれた 42歳 左端 一ノ谷の戦いにおける「鵯越の逆落とし」の場面  この時畠山は愛馬三日月を背負って鵯越の崖を降りたという 『源平盛衰記』によれば義経軍の搦手(からめて)に属していた畠山は馬をけがさせてはいけないからと三日月を背中に乗せたと言う 後世さまざまな錦絵にも描かれる名シーンの像 上中左 畠山重忠公墓並館跡 重忠公と家臣6基の五輪塔がある 上中右 重忠公五輪塔  他に重忠節 『国は武蔵野畠山 武者と生まれて描く虹 剛勇かおる重忠に いざ鎌倉のときいたる 作詞 埼玉県知事』や 芭蕉句碑 『むかし聞け 秩父殿さへ すまふとり 芭蕉 畠山重忠が関東で名高い「長居」という相撲取りをうち負かした話に因む碑がある  右端 重忠公廟碑 畠山重忠公菩提寺 満福寺 深谷市畠山八幡520
 
上左  国登録有形文化財 旧本庄商業銀行煉瓦倉庫  本庄市銀座1-5-6 明治29年建築 融資の担保となった大量の繭を保管した 深谷市の日本煉瓦製造の煉瓦 上中 本庄市指定小笠原掃部太夫信嶺公夫妻の墓 閑善寺 本庄市中央1丁目4 近くには息子小笠原信之の墓がある 本庄市中央2丁目8 元信州松尾城主 秀吉の侵攻で本庄氏滅亡後天正19年拝領し徳川家家臣となる 上右 本庄市指定史跡村田本陣門と後ろ旧本庄警察署 本庄市中央1-2-3
国指定史跡 塙保己一旧宅 本庄市児玉町保木野325 延享3年(1746)ここ武蔵国児玉郡保木野村に生まれる 7才で失明し15才で江戸に出て雨宮検校の弟子になり賀茂真淵らの学舎の指導を受け国学を研究 寛政5年(1793)幕府に申し出て和學講談所を創立す 安政8年(1779)から40年かけて群書類従編纂し学問上多大な貢献をし文政4年(1821)総検校となりこの年の9月76才で死去 上中 塙保己一墓碑 戒名 和學院殿心眼智光大居士 上右 塙保己一旧宅正面  
 
上 日本三大ねぎ 深谷ねぎとお土産 塙保己一旧宅前 京都九条ねぎ・群馬下仁田ねぎ・埼玉深谷ねぎ 上右端  伝 本庄市指定文化財 本三位中将平重衡首塚 本庄市児玉町蛭川214-3  この地は一の谷合戦の後捕らえられた重衡の首を児玉党の蛭河庄四郎高家がこの地へ持ち帰り供養した首塚であると伝える 一ノ谷合戦で生捕りにされ鎌倉に送られた後も高待遇だったと伝える 重衡は清盛の5男 源平合戦では大将 悪評高い南都焼き討ちで多数の僧侶・東大寺大仏殿・興福寺を焼失させた 才将は『武勇の器量湛ふる』・器量は『牡丹の花』とされ頼朝もその器量に感心し助命を考えたが南都衆徒の強い反対で衆徒に引き渡され京都木津川で斬首された