鴫 立 沢 

鴫立沢は神奈川県大磯町にある俳諧道場で京都市の落柿舎・滋賀県の無明庵と並び日本三大俳諧道場の一つとされます 敷地内に建てられた石碑にある銘文『著盡湘南清絶地(ああ しょうなんせいぜつのち)』から『湘南発祥の地』とされることになった  平安末期の歌人西行法師が大磯の海岸辺りの風景を吟遊して詠んだとされる下記和歌により江戸時代初期の崇雪という人物が昔の俤が残る沢のあるこの辺りに鴫立沢の石碑を建てた 裏面に『著盡湘南清絶地の文言が彫られえている 更に五智如来像を運び草庵を結んだ事に始るとされる その凡そ50年後に紀行家・俳諧師の大淀三千風が後継者として庵の修復・補修し初代庵主として入庵し庵内の円位堂に西行座像を安置し・法虎堂(虎御前)・観音堂等を建立したた いずれにしろ一級の歌枕の地である

  心なき 身にも哀れは しられけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ         山家集 西行法師

     夕まぐれ 鴫立つ沢の 忘れ水 思ひいづとも 袖は濡れなむ           続古今和歌集 慈鎮僧正      

   ながむれば 数かぎりなき あわれかな 鴫立沢の 有明のつき              拾玉集 慈円

     哀れしる 人の昔を 思ひ出でて 鴫立沢を 泣く泣くぞ問ふ              回国雑記  准后道興 

西行法師の歌と下の三首と併せて有名な
四夕の歌と呼ばれる

      寂しさは  その色としも  なかりけり  槙立つ山の  秋の夕暮れ       新古今和歌集 寂蓮法師   

 
        見渡せば  花も紅葉も  なかりけり  浦の苫屋の  秋の夕暮れ         新古今和歌集  藤原定家

        寂しさに 宿を立ち出で ながむれば 何処もおなじ 秋の夕暮れ       後拾遺和歌集   良遄法師

上左 鴫立庵 中郡大磯町大磯1289  石碑には旧跡鴫立澤と彫られている 上右 鴫立澤 庵の左側に流れてるのが小川が澤なのでしょうか 
 左端 旧跡鴫立澤石碑   左中 鴫立澤の小川   中右 鴫の井戸   右端 鴫立澤の小川
 左端 虎御前碑 石碑には 『東鑑曰(いわく)』 と彫られている 漢文なので読み切れないが恐らく曾我兄弟の伊東祐経敵討ちで亡くなった十郎弔いについて彫られているのでしょう 中左 法虎堂 有髪僧体の虎御前が19才の姿を写した木造を安置している  初代庵主三千風が在庵の頃堂も木造も江戸吉原から寄進されたと伝える  大磯町は虎御前の町である  中右 西行銀猫碑 文治二年西行が頼朝の召に応じて伺候しその帰途頼朝から贈られた銀の猫を惜気もなく門外の童児に与へたといふ有名な逸話が『東鑑』に載っている 曰く文治二年八月十六日午剋、西行上人退出、頻雖抑留、敢不拘之、二品(頼朝)以銀作猫被充贈物、上人乍拝領之、於門外与放遊嬰児、是請重源上人約諾東大寺料為勧進沙金赴奥州、以此便路巡礼鶴岳云々 恐らくそのことが彫られているのでしょう 右端 円位堂  三千風の建てた元禄そのままの建物 堂内には等身大の西行座像が安置されてる
上4碑 庵ないにある石碑  左端から  鴫立澤碑 中左  芭蕉句碑 芭蕉翁四時遺章 春たちて まだ九日の 野山哉  日のみちや 葵かたむく 皐月雨  蓑虫の 音を聞にきこよ 草の庵  箱根こす 人もあるらし 今朝の雪 中右 西行上人歌碑 心なき 身にも哀れは しられけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ 右端 第1世大淀三千風墓碑 鴫立ちし 沢辺の庵 ふきかえて こころなき身の 思い出にせん  鴫立って なきものを何 よぶことり
 左端 五智如来像 釈迦・阿弥陀・大日・阿閦・宝勝の五仏  中 大淀三智風居士遺章 鴫ききて 名月そなる なほあわれ  右端 鴫立澤の標石  この裏に『崇雪 著盡湘南 清絶地(そうせつ  あァ~あきらかにしょうなんは せいぜつをつくすのち)』ときざまれています 他にも沢山の歌碑・石碑があります
 
上左 大磯比翼塚(鴫立庵内) 坂田山心中事件の碑  詩人白居易の長恨歌の中の『在天願作比翼鳥在地願為連理枝』の文章で「天にあっては願わくば比翼の鳥となりにあっては願わくば連理の枝とならん」 これは唐の玄宗楊貴妃を詠んだもので『天なら比翼の鳥のように地なら連理の木のようにどこに居ても深い愛情約束』るといった意 男女の深いちぎり 夫婦仲睦まじ絆の例え 上右 坂田山 駅の跨線橋を渡り大磯駅裏 正式名称は八郎山だがこれではマスコミ受けをしないと報道各社が勝手にここの小字名の坂田を冠して坂田山心中事件として報道した それが図に当たりこの年だけで八郎山で20件3年間で全国で200件超もの心中事件が発生したと言う戦前の一大センセーショナル且つ猟奇的事件となった現場です(小余綾の濱参照