須恵(末・周准)の珠名
末の珠名姫子(すえのたまおとめ)は万葉歌人高橋虫麻呂の長歌に歌われた古代上総の美女
上総の周淮(すえ)という土地の女の事が高橋虫麻呂の「上総の末の珠名娘子を詠む一首」にみえる  珠名の容姿は胸が広く腰の細いスガル蜂のような美しい少女で花のように笑って立つと道を行く人は呼びもしないのに珠名の門にやってきたり隣人は妻と別れて家の鍵まで与えるほどであった それゆえ珠名は美貌を鼻にかけてみだらな行為にふけっていた と歌われている  反歌でも『金門に人がやって来て立つと珠名は夜中でもわが身をかえりみず出て逢ったことだ』 という このような珠名という女性は土地のよく知られた芸能者であったと思われよく歌いよく舞う芸をもっていた女性であろう その源は 巫女にあり その流れが遊行女婦と呼ばれる芸能者である 珠名は遊行せずに周淮の地に定着している遊芸の婦で人々はこの女性にあこがれ日々遊楽した 珠名は そうした婦女の中でも美しくまた芸にすぐれていた女性であったに違いない 
   國學院大学デジタルミュージアム 万葉神事語辞典より
 須恵の国(後の上総国周准郡)は小糸川流域の現在の千葉県君津市・木更津市・富津市の一部辺りとされている

上総の末の珠名娘子を詠む一首   万葉集巻9-1738 高橋虫麻呂
しなが鳥 安房に継ぎたる 梓弓 
周准(すゑ)の珠名は 胸別けの 広き我妹 腰細の すがる娘子の その姿(かほ)の 
きらきらしきに 花のごと 笑みて立てれば 玉鉾の 道行き人は 己が行く 道は行かずて 呼ばなくに 門に到りぬ さし並ぶ 隣の君は 
あらかじめ 己妻離(か)れて 乞はなくに 鍵さへ奉る 人皆の かく惑へれば うちしなひ 寄りてぞ妹は たはれてありける 
反歌
金門(かなと)にし 人の来立てば 夜中にも 身はたな知らず 出でてぞ逢ひける    
万葉集巻9-1739
  
 国指定史跡内裏塚古墳   千葉県富津市二間塚1980~1981 千葉県県下最大の古墳 全長144m・溝の外構188m・後円部直径80m・前方部幅78m 外に前方後円墳・円墳・方墳併せて47基が確認されている古墳群の一つで西暦450年頃の造築で古代須恵国の首長の墓か   下 内裏塚の碑 大正4年建立 奥に珠名塚碑がある 
  
 
上 珠名娘子の塚碑 古墳の頂上 内裏塚の隣 文字は私には読めないがおそらく高橋虫麻呂の万葉長歌が彫られている  奈良時代の生の美女を知る貴重な資料 江戸末期建立  
 
 上  源 頼朝上陸の地と上陸地からの富士山 安房郡鋸南町竜島165-1 伊豆蛭が小島に遠流の彼は治承4年(1180)挙兵したが8月相模国石橋山の合戦で平氏に敗北 土肥郷真鶴岬から安房国のこの地に逃れた 千葉上総介広常を始め房州の各武将を配下に源氏再興をめざし平氏打倒の第一歩の日本史上の転換となる地点となる 
 
上左二つ  菱川師宣生誕の地 安房郡鋸南町保田182    上右二つ 菱川師宣の墓 琳海山別願院  安房郡鋸南町保田127  頼朝上陸の地の近くに江戸初期に活躍した浮世絵師で浮世絵を確立した人物がいた すなわち最初の浮世絵師菱川師宣だ  ことに彼の美人画は『菱川様(よう)の吾妻おもかげ』ともてはやされ一世を風靡した その代表が切手にも採用されてご存じの見返り美人画である 外に好色一代男の挿絵や庶民の生活や遊楽や歌舞伎の流行の文化やファッションを描いた   代表作見返り美人画・その像(菱川師宣記念館庭園)彼の自画像 それぞれのサイトより拝借 左よりhttps://ja.wikipedia.org   https://ja.foursquare.com  安房郡鋸南町吉浜516  http://kyonan-info.jp
   
   
 上左 御宿 月の砂漠饅頭                   上中 笹川 澪つくし醤油                         上右 木更津 お富与三郎最中