須磨の浦
旅人は 袖涼しく なりにけり 関吹き越ゆる 須磨の浦風 続古今和歌集 在原 行平
いくたびか おなじ寝覚めに なれぬらむ 苫屋にかかる 須磨の浦波 玉葉和歌集 在原 行平
わくらばに とふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶとこたへよ 古今和歌集 在原 行平
須磨の浦とは明石海峡の東口にあたる海岸線一帯を指し白砂青松の景勝地として名高い 古来より『枕草子』『万葉集』『古今和歌集』などで多くの歌に詠まれている 在原行平が須磨に流されたあとの恋物語やそれを題材としたと思われる『源氏物語』12帖「須磨」など数々の恋愛劇の舞台となった 江戸時代の須磨は風光明媚な土地柄に加えて古代以来の名所旧跡が多いことから観光地となっていたようである 西須磨村には一ノ谷・敦盛塚・関屋之跡・松風村雨堂・須磨寺・行平古跡・安徳帝内裏跡などがある 他に『源氏物語』の光源氏の屋敷も建てられていたがこれは明らかに観光目的の建造物だと思われる 下 須磨浦山遊園公園のHPより借用
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上 須磨の浦は今の兵庫県神戸市須磨区の一部 『須磨の海・須磨の関』の形でも詠まれる 『須磨の浦』は沖に淡路島を望む白砂青松の海岸で月の名所であり海人(あま)・塩焼き・衣・塩焼く煙などの言葉が共に詠み込まれ『さびしさ・悲しい恋』などをテーマとした歌が多い 『須磨の関』は古代の関所 上 兵庫県の歴史HPより借用
秋風の 関吹き越ゆる たびごとに 聲うち添ふる 須磨の浦なみ 新古今和歌集 壬生忠見 |
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上左 山陽電気鉄道須磨浦公園駅 神戸市須磨区一ノ谷町五丁目 上右 須磨浦公園駅前から鉢伏山を望む ロープエイはあいにく休みで登れずここからは上に載せた景色や淡路島が見える筈だった 駅はご覧の様に鉢伏山の急峻な中腹にある 義経鵯越の坂の逸話を実感した
藻塩焼く 須磨の浦人 うち絶えて いとひやすらむ 五月雨の空 詞花和歌集 藤原 通俊
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上左 須磨浦公園駅前の敦盛塚道標 須磨一の谷とある 上右 一の谷敦盛興之墓 神戸市須磨区一の谷町5-4 敦盛塚石造五輪塔 この付近一帯は源平一の谷合戦場として知られ寿永3年(1184)2月7日当時16歳の平敦盛が熊谷次郎直実によって首を討たれそれを供養するためにこの塔を建立した 伝承から敦盛塚と呼ばれる 他に北条貞時が平家一門の冥福を祈り弘安年間(1278~1288)に建立したなどの諸説あり たかさ4mで中世の五輪塔としては京都岩清水八幡に次ぎ全国2位の規模を誇る 室町末期から桃山時代の作と思われる(説明板)
須磨の浦に 塩焼く釜の けむりこそ 春にし知られぬ 霞なりけり 金葉和歌集 源俊頼 |
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上左 源平史蹟 戦の濱碑 一の谷から西一帯の海岸は源平の戦いにおける一の谷の戦いの舞台となった所から戦の濱と呼ばれている 須磨浦公園内 国道2号線沿い
上中 須磨のうら 波の音あはれ 吹きたへし 青葉の笛の 昔おもへば 草野藤次歌碑 上右 春の海 終日のたり のたりかな 蕪村が須磨の浦で詠んだ句碑
松島の 海士の苫屋も 如何ならむ 須磨の浦人 塩垂るる頃 源氏物語 |
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上左 蝸牛 角ふりわけよ 須磨明石 芭蕉句碑 この付近は昔から摂津と播磨の国境で太閤検地以降境川によって分けられている 上中 珍しい子規・虚子子弟の句碑 『虚子の東帰に ことづてよ 須磨の浦わに 晝寝すと 子規』『子規50年忌 月を思ひ 人を思ひて 須磨にあり 虚子』 上右 歌碑のある中腹への途中陸橋からの須磨浦公園駅
五月雨は 炊く藻の煙 うち湿り 塩垂れまさる 須磨の浦人 千載和歌集 藤原俊成 |
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伝承安徳宮内裏跡 神戸市須磨区一ノ谷町2丁目6 安徳天皇は平清盛の娘の建礼門院徳子を母として生まれた悲劇の幼帝です 1180(治承4)年に2歳で即位したが1185(寿永4)年壇ノ浦の戦いで平家滅亡とともに祖母二位尼(清盛の妻)に抱かれて入水したと伝えられている この伝説地には一時内裏がおかれたとのいい伝えがあり安徳天皇の冥福を祈って安徳宮が祀られている 江戸時代には松尾芭蕉も訪れている 両脇の燈篭はモルガン燈篭 元祖玉の輿モルガン・ユキ 本名は加藤ユキ14歳で『雪香』として京都・祇園の芸妓にり21歳の時モルガン家の御曹司ジョージ・モルガン氏と出会い求婚されたが当時京都大学在学中の恋人と結婚を夢見ていたユキはモルガン氏の求婚を断っていた ところがその恋人は家族に芸子との結婚を反対され別の女性と結婚してしまった 失恋後モルガン氏の度重なるプロポーズを断っていたユキは3年越しの熱烈な求婚に負け結婚を決意しました ユキはその誘いを断るため身請け金を当時のお金で4万円 現在の金額では4億の大金をつきつけたがモルガン氏はそれをあっさりと払いその上10万円ともいう結婚費用をかけた結婚式をあげました 1年ほどこの須磨の地に住んでいたが信仰深いユキは安徳宮前に燈篭を献上し一基には『加藤コト モルガンユキ』と母子の名 もう一基には『明治44年9月10日』と刻まれている 1月20日』は玉の輿の日 ご存知でしたか(説明板) 当時この付近は異人山とも呼ばれていた
恋をのみ 須磨の浦人 藻塩を垂れ ほしあへぬ袖の はてを知らばや 新古今和歌集 九条良経
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上左 安徳帝内裡跡伝説地の碑 上中 真理胡弁財天(龍神) 平家物語にあるように安徳帝は『海にの下にも都はあります』と祖母二位の尼の言葉と共に千尋の海の底に鎮められた 海の底の都とは竜宮城の事で竜宮の王は龍神であり安徳帝の守護神と伝えられているために真理胡弁財天をお祀りした 水が流れている 上右 皇女和宮の像 婚約者有栖川熾仁親王がおりながら幕末の公武合体の犠牲となられた和宮は泣く泣く徳川幕府14代将軍徳川家茂と結婚させられた 惜しまじな 國と民との 為ならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも は有名だ この像は昭和3年外遊で西欧の女性の質素で勤勉あ姿に触れ日本女性の伝統ある美徳保持を何時までも願い昭和9年県一・県二・市一(現須磨高校)の3女学校に中村直吉氏が寄贈したもので戦時中の金属供出から免れた一つと思われる(説明板) 何故か人知れず300m先の山中にあったものをこの地に移されたもので帝とは無関係 神戸市須磨区一の谷町2-6
白浪は たてと衣に 重ならず 明石も須磨も おのがうらうら 拾遺和歌集 柿本人麻呂
須磨の浦を 今日過行くと 来し方へ 掛かる浪にや 事を伝まし 後拾遺和歌集 大中臣能宣 |
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上左 平重衡とらわれの松遺跡の碑 山陽電車須磨寺駅を出るとすぐ左手にある 勿論松はない 寿永三年(1148)二月七日源平合戦の時生田の森から副大将平重衡(清盛の5男)は須磨まで逃れて来たがここで源氏の捕虜となり松の根元に腰掛無念の涙を流した 土地の人が哀れに思い名物の濁酒をすすめたところ重衡はたいそう喜んで『ささほろや 波ここもとを 打ちすぎて 須磨で飲むこそ 濁酒なれ』の一首を詠んだ のちに鎌倉に送られ処刑された(現地駒札) ここから徒歩数分須磨寺商店街を歩くと源平ゆかりの須磨寺(福祥寺)である 上中 商店街にある須磨寺石碑 上左 須磨寺正面入り口 神戸市須磨区須磨寺4-6-8
思ひやれ 須磨の浦見て 寝たる夜の 片敷く袖に 掛かる涙を 金葉和歌集 藤原長実 |
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上 須磨寺境内の歌碑・句碑 左 良寛句碑 すまでらの むかしを問えば 山桜 / よしやねむ すまのうらわの なみまくら 中 子規句碑 暁や 白帆過ぎ行く 蚊帳の外 右 山本周五郎文学碑碑 須磨寺付近から 表面には 須磨は秋であった---- ここが須磨寺だと康子が言った 池の水に白鳥が群を作っていた 雨がその上に静かにそそいでいた------池を廻って高い石段を登ると寺があった 「あなた生きている目的が分かりますか」
「目的ですか」 「生活の目的ではなく生きている目的よ」 裏面には 「・・・貧困と病気と絶望に 沈んでゐる人たちのために幸ひと安息の恵まれるように・・・」とある
人知れぬ 恋をし須磨の 浦人は 泣くしほたれて 過ぐす也けり 金葉和歌集 藤原 師時
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上 須磨の浦一の谷の名場面 源平の庭 熊谷次郎直実と平敦盛 左 正面から 右 背面から 陸上にいるのが呼び止める直実 海上にいるのが振り返る敦盛
もののふの おちゆく一の 谷の水 よわるも夢の 須磨のうら浪 正広 |
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上左 蕪村句碑 笛の音に 波もよりくる 須磨の秋 上右 敦盛首洗の池 その背後には合戦終了後義経が池の前に腰を掛けて平家の武将らの首実検をした名残という義経腰掛の松があります 然しそれから五年のちには今度は藤原泰衡の使者が平泉で敗れた義経の首を鎌倉の浜辺に持参し和田義盛・梶原景時が検分しているのは実に皮肉な事だ 右上の敦盛首洗いの池の淵に白崎 弘晧氏作の歌碑があります 公達の 血のりを秘めて 七百年 水静かなり 須磨寺の池 と書かれています。
須磨人の 海辺常去らず 焼く塩の 辛き恋をも 吾はするかも 万葉集巻3-17 平群女郎
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上左 芭蕉句碑 須磨寺や ふかぬ笛きく 木下(こした)闇 松尾芭蕉が源平古戦場を訪ねて平敦盛を偲んで詠んだ句 ふかぬ笛とは勿論敦盛愛用の小枝(さえだ)の笛の事 直実が泣く泣く打ち取った紅顔の美少年が持っていたが 『さては昨夜の夜陰嵐に聞こえし笛の音はこの方のものだったのか!』 と敵陣をも和ませ戦場にあっても風流を忘れぬ平家の若干16歳の公達に心うたれ涙し後日法然上人のもとに出家して敦盛を弔った と言う曰くのある笛の事である 明治39年作詞 大和田建樹 作曲 田村虎蔵によって青葉の笛の名曲が生まれた 上右 青葉の笛 須磨寺博物館内 このケースの中に2本の笛がある 右側の太い方が青葉の笛 左の細めの笛が高麗の笛である どちらも敦盛の遺品 『♪一の谷の戦やぶれ 討たれし平家の公達哀れ 暁寒き須磨の嵐に 聞こえしはこれか青葉の笛♪』 尚2番は薩摩守忠度の歌詞である |
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上左 敦盛釣燈篭 鎌倉時代建仁元年作 上中・上右 敦盛首塚 胴塚は須磨浦公園にある 直実は首実検の後許しを得て遺品(馬・甲冑・弓矢・青葉の笛)とともに戦死の有様を手紙書いて添え父経盛に送った 懇ろに弔われた敦盛首塚は今も人気が絶えない
心ありて 引き手の綱の たゆたはば うち過ぎましや 須磨の浦浪 源氏物語 |
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左 須磨寺蓮生院 蓮生とは熊谷次郎直実が出家して法力坊蓮生と名乗ったことに由来する 直実は一の谷で討ち取った自分の息子と同年の平家の若武者敦盛の菩提を弔う為に法然上人のもとで修業して諸国行脚の途中須磨寺を尋ねている
浄土にも ごうの者とや 沙汰すらん
西に向かいて 後ろ見せねば
蓮生
恋わびて 泣く音にまがふ 浦波は
思ふ方より 風は吹くらむ
源氏物語 |