墨  田  川 4
両国橋~永代橋
水茎の 跡かきながす 墨田川 言伝やらん 人も問ひこす                建保3年名所百首御歌 従二位家隆興
涼みとる 舟のたゆたふ墨田川 夕波の上に 月いでにけり                     賀茂公家集   賀茂真淵
君が代に 千とせをかねて すみだ川 かりにもあだの 影はうつさず          続拾遺和歌集 二条天皇太后宮大弐
すみた河 故郷思ふ 夕暮れに 涙をそふる 都とりかな                   新拾遺和歌集 皇太后みや大弐俊成
限りなく 遠くにきけり すみだ河 こととふ鳥の 名をしたひつつ                     新拾遺和歌集 御製
 
左 ドイツケルンの眺め 江東区常盤1丁目  手前小名木川に架かる萬年橋から向こう墨田川  ケルンのライン川に架けられてるヒンデンブルグ橋に似せて作った清州橋(國重要文化財 第一回土木学会推薦土木遺産) ここからの眺めが墨田川では一番美しいとされる所    同じ地点からの墨田川上流をみる 新大橋スカイツリー
 
左端 旧新大橋跡の碑と芭蕉句碑(小名木川と記念館の中間辺り)  江東区常盤1-6-9   碑の側面には 初雪や 懸けかかりたる 橋の上 ・ 皆出でて 橋を戴く 霜路かな と彫られている  芭蕉  元禄6年冬この頃深川大橋が建設中だったが完成しその渡り初めを見た芭蕉はその喜びを詠んだ 墨田川で3番目の木造橋で両国橋と千住大橋の間にあり日本橋と発展途上の本所・深川を結ぶ庶民の待ちにまった新橋で当初深川大橋の意に反して幕府は新大橋と宣言した 左中 江東区登録史蹟 2代目中村芝翫居宅跡 芝翫は天保のころこの辺り住んでいたので小名木川に面した河岸は芝翫河岸とも呼ばれた  天保2年の中村座の演技では喜撰法師の歌ひねり 我が庵は 芝居の辰巳 常盤町 而も浮世を 放れ里 と付近の様子を詠じた(わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む 世を宇治山と 人はいふなり) 右端 芭蕉記念館 江東区常盤1-6-3
 
 左端 歌碑 草の戸も 住み替わる代ぞ 雛の家 芭蕉記念館内 江東区常盤1丁目6-3 左中 古池 芭蕉記念館内  右中 歌碑 古池や かわづ飛び込む 水の音 と 芭蕉庵のミニチュア 芭蕉記念館内 右端 正木稲荷神社 江東区常盤1丁目1-2 芭蕉稲荷神社(芭蕉庵)の近く 往時ここに征木の大木があり隅田川から小名木川に入る目安となっていた
   
  清洲大橋                                             新大橋
 
左端 芭蕉庵史蹟展望庭園 江東区常盤1-1-3 この芭蕉像 昼は上流を夜は下流の方を眺める動く像なのです 墨田川で一番の絶景 左中 芭蕉稲荷公園(芭蕉居住庵跡) 江東区常盤1-6-3 芭蕉がここ日本橋からここ深川に移り住んだのは延宝8年(1680)から元禄7年(1694)まで門人杉山杉風の生簀を借りて芭蕉庵とした所  庵は芭蕉没後その行方は不明であったが大正6年(1917)の大津波で元々あった稲荷神社跡から芭蕉遺愛の物と思われる石の蛙が見つかった このことからここが芭蕉庵と推定され石蛙を祀り芭蕉稲荷とした かの有名な『古池の句』は貞享3年(1685)この地で詠まれた   右中 芭蕉庵跡の碑  右端 古池や 蛙とびこむ 水の音 の句碑   深川の芭蕉庵は蕉風俳諧誕生・発展の故地 
 
芭蕉庵史蹟展望庭園  江東区常盤1-1-3 墨田川と小名木川が交わる所にあり四季折々の隅田川の絶景が楽しめる  左端は入口にある芭蕉句碑  川上と この川下や  月の友 おくの細道の旅を終えた芭蕉は元禄6年(1693)50歳の秋小名木川の五本松の畔に舟を浮かべ『深川の水 五本松といふところに舟をさして』の前書きでこの句を詠んだ 
 
芭蕉庵史蹟展望庭園 の下にある墨田川大川端遊歩道には上の様な芭蕉ゆかりの句碑が多数あり心地よい川風と風景が堪能できる  左から 芭蕉野分して 盥に雨の 聞夜哉・名月や 池をめぐりて 夜もすがら・芭蕉葉を 柱にかけん 庵の月・郭公 声横たふや 水の上・花の雲 鐘は上野か 浅くさか 等多数の句碑がある
 
 左端 陸奥宗光居宅跡 江東区清澄1-5 政治家・外交官・外務大臣・日英通商航海条約締結 彼がここに住んだのは明治5年から同10年 この邸宅は墨田川・小名木川に面していて眺望がよく三叉水壁楼と呼ばれた ご覧の様に清洲橋の近くだ  左中 大鵬道場 大嶽部屋 江東区清澄2-8-3 相撲部屋の一つで旧二所ノ関一門 元関脇貴闘力の大嶽親方が大鵬親方(元横綱大鵬)から部屋を引継いでできた部屋 2010年の野球賭博問題で大嶽親方が除籍 部屋付きの二子山親方(元十両大竜)が急きょ大嶽を襲名して現在に至る  右中 北の湖部屋 江東区清澄2丁目10−11 一代年寄北の湖の急逝により元前頭巌雄が山響部屋に名称変更し所在地は江東区東砂6-6-3に移動してここは北の湖部屋の看板は無く遺族の方のお住まいとか  
右端 錣山部屋 江東区清澄3-6-2 元関脇寺尾
が2004年に設立 何の変哲もないこの通りは相撲部屋が多く横綱通りと呼ばれる  
   墨直しの碑 芭蕉の門人支考が師の17回忌の宝永7年(1710)京の雙林寺に建立した石碑を写したもの  雙林寺は師が敬愛する西行法師縁の寺で毎年3月墨直会(碑を洗い浄めて彫字通りに墨を入れ直し然る後に法会を営み句会を催す)が行われた事から墨直しの碑と呼ばれる 

芭蕉由緒の碑 墨直しの碑と梅花仏碑が臨川寺に建立された由来を記したもの

梅花仏碑 梅花仏とは蕉門十哲の一人支孝の諡号 京の雙林寺にある鏡塔を写して建てられた 支孝を鏡に擬して円形をしている  
 芭蕉縁の臨川寺 江東区清澄3-4-6 延宝8年(1680)深川に住んだ芭蕉は2歳年上で芭蕉庵とは500mしか離れていない臨川寺住職仏頂和尚の人柄に感服して足繁く通い親交を深めた このころ号を桃青から芭蕉に改めた 玄武仏碑 墨直しの碑を臨川寺に建立した神谷玄武坊を記念する碑   更に当寺には木造の芭蕉像がある
 
左 松平定信墓地 江東区白河1-3-32 霊巌寺内 定信(1758~1829)は8代将軍吉宗の孫 田安宗武の子 陸奥白川藩藩主で白河楽翁と号す 天明7年(1787)老中となり寛政の改革を断行 右 長専院出世不動尊 江東区三好1丁目6-3 長専院は徳川四天王のひとり榊原忠次が開基 命誉圓壽が開祖となり霊巌島(現在の茅場町辺り)に創建された 門の様な鳥居とは不似合な石門に赤色で出世不動尊と彫られている 朱色が多使用され長専院不動寺と神社の折衷のような特異な寺院  定年後早14年遅すぎたお参りをした 
   都指定名勝白河清澄公園
 江東区清澄三丁目3−10
この地に元禄期には豪商紀伊国屋文左衛門屋敷跡ともいわれ享保年間には下総国関宿藩主の下屋敷跡となる 明治11年(1878)荒廃した邸地跡を三菱財閥の祖岩崎弥太郎が買い取り三菱社員の慰安と賓客接待を目的とし深川親睦園と称した その後岩崎弥之助が墨田川の水を引き込む大きなど手を加え回遊式築山林泉庭園として完成したもの その後一部都に寄贈された  東京砂漠のオアシスです

庭園内ある芭蕉句碑
古池や 蛙飛び込む 水の音
  
 左 都指定重要有形文化財永代橋  右 永代橋からの隅田川  千葉県道10号東京浦安線を通す 西側中央区 東側江東区 曇天だったのが残念
 
 左端 花魁高尾太夫縁の神社  中央区日本橋箱崎町10−7 実在の人物で然も花魁の頭骸骨が御神体という珍しい神社 仙台藩主伊達綱宗によりその体重と同じ目方の金を積まれても見受けを断ったため船上で吊るし切りされたという吉原随一の花魁の首級が流れ着いた所 日本橋川が墨田川に注ぐ所 ここは江戸時代永代橋西詰所があった それ以降仙台には美人がいないとかの噂 左中 日本銀行発祥の地碑 中央区日本橋箱崎町1番地  高尾稲荷神社と隣り合わせです 明治15年10月10日この地に創業 明治29年現在地に移転  右中 江東区側永代橋 元禄11年(1698)に永代橋は上野寛永寺本堂の材木を使い深川と日本橋を結ぶ橋として架けられた  又赤穂浪士が討ち入りの帰りに渡った橋としても有名 橋の近くには赤穂義士休息地碑が立ってる  また文化4年(1807)には富岡八幡祭礼の多くの見物人のため橋が崩落1400人の死者の大惨事を起こす 右端 赤穂義士休息の地碑と乳熊ビル 江東区佐賀一丁目1番15号 元禄15年(1702)12月14日に本所松坂町の吉良邸に討ち入って本懐を遂げた赤穂浪士の一行が一ツ目通りを引き上げる途中乳熊(ちくま)屋味噌店に立ち寄り甘酒の接待を受けて休息したのちに永代橋を渡って高輪泉岳寺へ向かった所 碑は永代橋の近くにあり現在工場は長野県にある 乳熊(ちくま)の名は伊勢国乳熊郷の出身に由来する
 
 江東区登録史蹟 渋沢栄一居宅跡 江東区永代2-37  栄一は明治9年(18776)に深川福住町(現永代2)に屋敷を購入し本邸とした 同21年(1888)に兜町(日本橋)に本邸を移し深川は別邸として利用した 栄一と江東区との関係は深く明治22年から同37年まで区会議委員及び区会議長を務め明治30年には渋沢倉庫部を創設し江東区の発展に貢献した  中 佐久間象山砲術塾跡 江東区永代1-14付近 ここは信濃国松代藩下屋敷跡地 渋沢栄一居宅跡の隣  右端 伊能忠敬旧居跡 江東区門前仲町1-18-2地先 葛西橋通りに面している
 
 富岡八幡神社 江東区富岡1-20-3  通称深川八幡宮 江戸最大の八幡宮  8月の祭礼深川八幡祭りは江戸三大祭りの一つ 又江戸勧進相撲発祥神社 創建は比較的新しく寛永4年(1627)菅原道真公の末裔永盛法印が当時永代島と呼ばれていた小島に創祀したと伝える そして次第に周辺の砂州を埋め立て境内と氏子の居住地を開き深川発展の基礎となった 姉弟による相続殺人事件があったが深川密着の重厚さを感じる神社だ  右端 昭和天皇御製 身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおおもひて
     左端 伊能忠敬測量開始出発の地 
忠敬は千葉佐原の事業の成功の50歳の時江戸に出て富岡八幡近くの黒江町(現門前仲町1丁目)に居を構えた 寛政12年4月19日(1800年6月11日)の早朝に当宮に参拝して蝦夷地測量の旅に出た 彼はこの時を含め10回の測量を企画して遠国に出かけ8回までは出発の都度内弟子・従者を含めて富岡八幡を参詣して無事を祈念した後に千住宿や品川宿など測量開始地点に向かって歩き出した 忠敬とにって縁の深い場所なのです
   三等三角点 測量の父忠敬の足元には測量開始200年を記念して日本GPSの起点となる三等三角点が設置された 世界測地系の採用を記念して 全世界共通の地球上の位置を表す測量及び水路測量の基準を世界測地系という わが国は平成13年(2001年)6月の測量法の改正により日本独自の測地系から世界共通の世界測地系に変更することになった この世界測地系を採用した記念として測量技術が21世紀のグローバルで豊かな社会に貢献できることを願って社団法人 全国測量設計業協会連合会の創立40周年にあたりこのモニュメンを建立したものです  平成13年(2001年)10月吉日建立社団法人 全国測量設計業協会連合会』とある
 
左 大関力士碑  表参道大鳥居をくぐってすぐ右手に 歴代大関を顕彰するために建立された 「大関力士碑」がある この碑は明治の頃に9代目市川団十郎と5代目尾上菊五郎により寄進された2基の仙台石で初代大関雪見山から最近では小錦八十吉・琴欧州勝紀まで114人の歴代大関の四股名が彫り込まれている またその傍らには巨人力士碑巨人力士手形足形碑・ 強豪関脇碑 釈迦ヶ嶽等身碑等一群の顕彰碑が立ち並んでおり横綱力士碑とあわせて相撲名所として相撲ファン垂涎の地  中 最高身長関取の等身大の巨人力士身長石碑 立ってるおじさんは175cm 1番 生月鯨大左衛門 明和7年 東大関 身長7尺6寸 2m27cm(172kg) 体重45貫8百目 2番 大空武左衛門 7尺5寸 3番 釈迦嶽雲右衛門 7尺4寸8分等十数人の巨人力士が彫られてる  右 強豪関脇力士碑 力道山の名がありました  
  区指定有形文化財横綱力士碑
明治33年幕末の名横綱第12代横綱陣幕久五郎を発起人に歴代横綱を顕彰する碑が建立されました この碑には初代明石志賀之助から67代武蔵丸関までの四股名が刻まれていますがその大きさは高さ3.5メートル・幅3メートル・重量は20トン・奥行51cmに及び横綱を顕彰するにふさわしい堂々たる石碑です 新横綱誕生時には相撲協会立会いのもと刻名式がおこなわれ新横綱の土俵入りが奉納されます また両側には伊藤博文・山県有朋・大隈重信といった賛同者の名が刻まれており広く各界から協賛を得て建立されたことを物語ってる
両脇日月石像碑
右 12代陣幕久五郎
正面に安政4年正月場所の陣幕の取り組み姿 裏面に陣幕72歳の肖像画 側面に陣幕の略歴と協賛者名 
左 11代不知火光右衛門 
正面に安政4年正月場所の不知火の取り組み姿側面に相撲横綱由来記 側面に不知火の略歴と協賛者名
他に月石前の50連勝以上の記録を顕彰する超五十連勝力士碑や日石前の出羽海一門友愛之碑 後ろには横綱力士碑が満杯のために新たに奉納され46代横綱朝潮太郎以降の横綱の四股名が刻まれた新横綱力士碑・地固め寄附石・力石(区登録有形民俗文化財)等の石碑がある その巨大さは一見の価値ある石碑群だ 
 
左端 日月石碑 安政四年正月 両国回向院ニ於テ大角力二日目興行ノ取り組ナリ 肥後 不知火光右衛門  左中 日月石碑 安政四年正月 両国回向院ニ於テ大角力興行二日目ノ取り組ナリ 出雲 陣幕久五郎 二人の取り組みに江戸町民の熱狂が目に浮かびます 右中 木場木遣の碑 江戸材木置場は寛永18年(1641)明暦3年(1657)の大火以後永代島に集中移転し木場と称した 元禄14年(1701)現在の木場に移転以来270年間木場は繁栄を続けた 昭和51年夏までに大半の材木業者が夢の島の新木場に移転した 『木場の木遣り』の発祥は古く現存の文献によれば既に慶長初期の昔に行れている 当時幕府のお船手の指図で伊勢神宮の改築用材を五十鈴川より木遣りの掛け声で水揚げをした とある 元来 神社仏閣の鳥居や大柄な用材を納める場合には木場木遣り特有の『納め木遣り』が用いられ保存会により今日に伝えられている 右端 木場の角乗の碑 江東区木場の地名はかつて材木業関連の倉庫や貯木場が多かったことに由来しています『木場の角乗』はそんな木場ならではの江東区の民俗芸能です 木場で働く筏師が鳶口一つで材木を自由に操り筏を組む仕事の中から生まれたといいます 地名の由来を後世に伝え伝統文化をのこすために江東区民祭りでは毎年木場公園の専用池で『木場の角乗』を行っています