隅 田 川  5 
永大橋~勝鬨橋
すみだ川 今も流れは ありながら また都鳥 あとだにもなし         
教長集   藤原 教長
我が思ふ 人に見せばや もろともに すみだ川原の 夕暮れの空         新勅撰和歌集  藤原 俊成
春風や 鼠のなめる 角(すみ)田川                          七番日記  一茶
逢瀬なき うき名をいかに 隅田川 舟こぞりても 岸やわたらん           永享9年正徹詠草  正徹 
  
東京名所名物言問団子 墨田区向島5-5-22  隅田川といへば言問橋 言問橋といへば言問団子 栞の由来には『業平の有名な和歌の故事に感じ入った弊店の祖先が現在の地に業平神社建て業平朝臣を祀りこの辺り言問ヶ岡称えるに至った元禄の頃より江戸郊外の風光明媚な向島に四季折々にくる文人墨客の風雅な人々の求めに手作りの団子と渋茶を呈したのに始まる』とある 
   
 上左 八丁堀 与力・同心組織屋敷跡  中央区八丁堀1~2丁目から日本橋茅場町1~3丁目一帯 八丁堀といえば時代劇の捕物帖でおなじみの『八丁堀の旦那』と呼ばれた江戸町奉行配下の与力・同心の町 与力は徳川家の直臣・同心はその配下侍衆 帯に差した十手の朱房も粋な庶民の味方として信頼を集めた 上中 堀部安兵衛武庸の碑 中央区八丁堀1-14-7 亀島川にある亀島橋の西詰(東京駅に近い側)の北側にある 赤穂浪士の1人であった堀部安兵衛の屋敷がこのあ辺りにあったのでこの碑があるようです 上右 戦災遭難死者慰霊碑 中央区日本橋茅場町3丁目13-6  新亀島橋袂にある 二つの石碑はそれぞれ向かって左側が『戦災遭難死者慰霊碑』(太平洋戦争での空襲)右側が『大震火災遭難追悼碑』(関東大地震)です 昭和20年(1945年)3月10日夜半の東京大空襲により全町焼失の際に遭難された霊を慰むる碑 
 
左端 新亀島橋 橋詰に安兵衛武庸の碑がある この辺りは江戸時代は町奉行所配下の与力の屋敷が多数あった所 中左 亀島川 江戸時代亀島川に臨む亀島町は水運を利用する米問屋が多かった 中右 幕末御用商人河村瑞賢居住跡 中央区新川町1-8 航路開拓と治水事業で東北でも知名度が高い 特に東北奥州・出羽の幕領米を廻漕する廻米航路を開削して後年旗本となり広大な屋敷を誇った 右端 新川の碑 中央区新川1-14-7 亀島川から分離していた新川はこの付近で隅田川に合流していた 昭和23年に埋め立てられた新川運河は江戸時代豪商河村瑞賢が船で諸国から江戸へ運ばれてくる物資の陸揚げの為に万治3年(1660)開削された  
   
左 新川之跡からの隅田川と佃島のタワーマンション群   右 中央大橋のメッセンジャーの碑 中央区新川2-32-4 上流永大橋とスカイツリーを見る  隅田川とセーヌ川を繋ぐ友好を記念してパリ市(シャーク・シラク)から東京都へオシップ・ザッキン『「メッセンジャー像』が寄贈された パリ市の紋章である帆船を抱いた像はフランスの船の守護神を表している
               隅田川 昔はきかず 今こそは 身を浮橋の あるよなりけり      夫木和歌集  藤原 光俊朝臣
   
左端 霊岩島水位観測所 中央区新川2丁目31 1873年(明治6年)6月から1879年(明治12年)12月までの6年間にわたる東京湾の潮位データを基に計算された平均海面が海抜0.000mと定められました それに基づき1891年(明治24年)5月に日本水準原点が設置され水準原点建物内部の水晶板のゼロ目盛りの高さが標高24.500mと決定されました その後関東大震災による地殻変動で標高24.4140mと改定されました 当時は隅田川河口だったこの場所も現在は隅田川の中になってしまった  中 江戸湊発祥の地の碑 中央区新川2-31 慶長年間江戸幕府はこの地に江戸湊を築港してより水運の中心地として江戸の経済を支えてきた 昭和11年まで伊豆の七島など諸国への航路の出発点として賑わった 右端 江戸湊の碑からの隅田川 江戸時代当然ここは一面太平洋でしたが今その面影もありません 
   
左端 佃小橋  中央区佃1-7-1 佃小橋は隅田川からの入江となった水路に架かっている 水路は隅田川と接する箇所にある住吉水門によって水位調整が行われている  島の鎮守である住吉神社のそばに佃小橋はある  中 鰹塚 住吉神社境内  江戸時代から住吉大神を生業繁栄の守護神として奉賛してきた この神社の棟木の上には鰹節に似た飾り木『堅魚木』横に並んでいる 鰹節卸協同組合が建立 右端 佃まちかど展示館 中央区佃1丁目2 圧倒される大きな千貫神輿や文政年間の作といわれる二対の獅子頭「龍虎」と「黒駒」を収蔵 戦災を逃れいまだ江戸情緒を残すレトロな町に伝わる240年前の複製古地図や佃例祭盆祭り佃町並みの写真の展示あり ここが佃の渡しのあった所
   
左 佃島渡船場跡の碑 佃島は隅田川河口に出来た寄州でした 江戸初期摂津国佃村から家康に招かれた漁師が鉄砲州東の干潟を埋め立てて佃島を築いた そしてこの島と対岸船松町(現佃大橋西詰付近)を通したのが佃の渡し 明治時代は渡し賃が一人5厘であったことから五厘の渡しとも呼ばれた 中 その隣の劇作家北条秀司の句碑 雪降れば 佃は古き 江戸の島  佃の渡しは佃大橋が架設された昭和39年まで約300年続きその足跡を示す碑だ 右 佃島渡船場跡からの隅田川  
                      都鳥 あらばと思ひし 隅田川 きき渡りてや 人をとはまし    新選和歌六帖
 
 佃島といえば佃煮 左・中 天保8年創業 180有余年の老舗天安と佃煮 本能寺の変のおり徳川家康はわずかな手勢で堺にいた 脱出に魚船を貸し出したのが摂津国佃村(現大阪市淀川区佃町)の漁民だった この献身的な働きは家康にとり生涯忘れられぬ出来事になり慶長8年(1603)家康が江戸に幕府を開いたとき佃村の漁民33名を江戸に呼び石川島に近い島を居住地として与え故郷の佃村に因み佃島と命名したのに始まる 右 月島の渡し跡 明治25年(1892)土木業者鈴木由三郎が現築地7丁目からここ月島3丁目のあいだを手こぎの船で私設の有料渡し船開始したのに始まる その後動力船として東京市営となり昭和15年勝鬨橋が完成するまで続いた 天安から数百m下流にある 
 
 佃大橋から下流勝鬨橋方面を見る   佃大橋から上流中央大橋方面を見る 正面左ビル群の袂が江戸湊であった 隅田川にかかる橋で東京都道463号上野月島線中央大橋支線を通す橋である 左西岸は中央区新川二丁目 右東岸は中央区佃一丁 右 大震火災横死追悼の碑 中央区月島4-21  月島の月島川にかかる月島橋の際に古い供養塔がある 大震災は多くの被害を出したが隅田川を挟んでこの月島にも飛び火し大きな被害があり沢山の亡くなった方も出た 
                   都鳥 墨田川原に 船出しぬ さしてとふべき 人しなければ    夫木和歌集  僧正行意
  
  
上段 勝鬨橋 現在橋の開閉はありません   下段 勝鬨橋からの隅田川 左は上流 佃大橋   右は下流 築地大橋
水くきの 跡かきながす 隅田川 ことづてやらん 人もとひこず          夫木和歌集 前中納言藤原定家
 
左端 かちどきの渡しの碑 明治25年(1892)銀座・築地方面と月島との間に月島の渡しが設置された 然し月島側の発展とともに渡しのみではさばききれず明治38年(1905)日露戦争の旅順陥落を祈念して京橋区民有志が『かちどきの渡し』と名付けて渡船場を開設しその後東京市に寄贈した そのときの碑である 側面には『明治38年1月京橋区祝捷會挙行之日建之京橋区同市會』 とある 橋は大正15年6月の開通である 左中 海軍経理学校之碑 中央区築地6-20-10 かちどき橋資料館前にある 右中 波除神社 中央区築地6丁目20-37 『災難を除き、波を乗り切る』波除稲荷様として災難除・厄除・商売繁盛・工事安全等の御神徳に崇敬が厚い 江戸時代の明暦の大火後当時はまだ江戸湾が入り込んでいた 築地の埋め立て工事が行われたが荒波の影響で工事は難航した その最中のある晩光を放ち海面を漂う御神体が見つかり万治2年(1659年)現在地に社殿を建て祀った その後波が収まり工事が順調に進んだ 右端 八紘一宇の碑 中央区築地4-14  晴海通り築地のこの辺りは海軍発祥の地でもあり海軍史跡巡りが出来るほど帝国海軍に関が深い 『八紘之基柱(あめつちのもとはしら)』が正式名称で日本書紀に記述がある 『八紘一宇』という言葉は神武天皇が橿原で即位された時の勅語の一節『八紘を掩いて宇と成さんこと亦可からずや』という建国の理想からきている。これらの碑は勝鬨橋から銀座への築地の晴海通りに並んでいる
 
左 築地本願寺 中央区築地3-15-1 本願寺は浄土真宗本願寺派の本山で龍谷山本願寺 始まりは親鸞聖人の廟堂(墓地)として京都東山大谷に建立された 築地本願寺は本山の直轄寺院で首都圏における布教活動を担う関東最大の念仏道場 発祥は元和3年(1617)西本願寺の別院として建立 この建物は古代インド仏教様式の外観で昭和9年(1934)落成したもの 中 赤穂義士 間 新六供養碑 築地本願寺境内 赤穂義士の墓は主君長矩の墓のある高輪泉岳寺にあるが新六は義兄中堂又助により築地本願寺に埋葬された 泉岳寺にも供養墓はある 右 森孫右衛門供養碑 築地本願寺境内 文久元年(1861)建立 江戸初期隅田川河口に佃島を築いた孫右衛門は幕府献上のご用魚の残りを日本橋で販売(日本橋魚市の始まり)したと伝える人物 右側面には摂津国佃村(現西淀川区佃)の孫右衛門が2代将軍秀忠の時漁猟の許可を得て33人の漁師が将軍の食膳に供する魚を献上したことが彫られている 又左側面には寛永年間(1624~44)百間四方の土地を賜り島を築き正保元年(1644)2月佃島と名付けたとあり森家が代々佃島の妙名主を務めてきたことも刻まれている 
 
  築地の鮨といえば つきじ喜代村 すしざんまい本店  中央区築地4丁目11−9  全国51店舗展開 年中無休 24時間営業  まぐろざんまい ¥3000 
 
左端  佃の渡し跡の碑 中央区湊3-18 300年超の歴史ある渡し 船松町(現築地明石町)と対岸佃島の間に正保2年(1645)に始まる 明治9年には渡し賃一人5厘となる 大正15年(1926)に東京市営となり翌昭和2年曳舟渡船となる その時の記念碑で佃大橋の完成で廃止となる 左中 史跡 東京都築地運上所跡の碑(東京税関発祥地の碑  中央区明石町13-10 通りとみ『ずたき割烹つきじ治作』との隙間にある 右中 電信創業発祥の地 中央区明石町7-19-13 明治2年10月23日横浜裁判所と東京築地運上所内に設けられた『電信機役所』とを結ぶ32kmの電信線架設工事が始まり同年12月25日業務開始となる これが我が国の公衆電気通信の最初である 昭和15年建立 右端 月島の渡しの案内板 電信創業の碑の近くにある この渡船場は月島1号地の埋め立てが完成した明治25年(1892)に土木業者鈴木山三郎が手こぎの私設有料渡船を始めた 明治23年無料の東京市営の曳舟渡船となる 昭和15年(1940年)勝鬨橋の完成で廃止となる    
 
 左 軍艦操練所跡の碑 中央区築地6-20 ペリーの黒船軍艦来抗後江戸幕府は西洋式海軍の必要性に迫られた 安政4年(1857)軍艦教授所(後の軍艦操練所)をこの地にあった築地講武所内に創設 万延元年(1860)以後は築地一帯は軍艦操練所占用地となる 当初長崎の海軍伝習所終業生が教授方にしその後向井将監・勝海舟等が教頭を務めた 海軍経理学校の近くにある  中 シーボルト像(あかつき公園内)  電信創業の地の碑の真向かいにある 文政6年7月オランダ商館医員として長崎に来日し鳴滝塾を開く 同年(1823)9月江戸に来た彼は江戸の蘭学者と面接し大きな影響を与えるが同11年しシーボルト事件の為12月日本を追放された 右 日本近代文化事始めの地碑 中央区明石町6-11 月島の渡しの碑の向いにある 左側が慶應義塾発祥の地碑 慶應義塾の起源は安政5年(1858)に福澤諭吉が中津藩中屋敷内の蘭学塾の教師に就任したことに始まる 彼は外遊により蘭学より英学が重要として私塾を開く 碑には『天は人の上に人を作らず 人の下に人を作らず』の名文句が彫られている  右側の蘭学の泉はここにの碑(蘭学事始・解体新書作成) このあたり一帯は豊前中津藩中屋敷跡である 前野良沢はその藩医であった 彼は杉田玄白・中川淳庵等と4年かけてターヘルアナトミアを読解して解体新書をこの地で著した 碑に女性の人体図と解体新書文字・由来等が彫られている
 
 
外国人築地居留地区 中央区明石町  江戸幕府は安政5年(1858)6月アメリカと修好通商条約に調印し同年オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも締結した(安政5カ国条約) 外国人居留地区はこれらの国々の居住や通商のための専用特区が設けられた 江戸(東京)の開市は明治元年11月19日現在地の明石町地区に築地外国人居留地が設定された 築地居留地は商館の多かった横浜・神戸と違い公使館・領事館を始め宣教師・医師・教師などの知識人居住したため教会・病院・学校などが数多く開かれ教育を行った所である この為この辺り一帯はキリスト系学校や病院の発祥の地として数多くの記念碑が残されている  アメイカ公使館跡女子聖学院・明治学院・・立教学院・雙葉学院・女子学院・暁星学園等発祥の地青山学院記念の地・立教女学院校舎跡記念碑等多数である 極めつきは慶應義塾発祥やこの一角を占める現聖路加(ロカ)国際大学病院である 上段左側は明石小学校まえにある築地外国人居留地跡の案内と左端は当時のガス灯と赤煉瓦のメモリアル 上段右端と下段左端は聖路加国際病院内にある建物と記念碑だ 建物は聖路加国際病院トイスラー記念館で昭和8年隅田川河畔の明石町19番地に国際病院の宣教師館として建設された由緒ある史跡 下段の記念碑は聖路加国際病院創設者 DR・R・Bトイスラー医師の建学の精神の碑である 下段中 以前この地は赤穂浪士討ち入りで有名な浅野内匠頭長矩邸跡地だった  下段右端 芥川龍之介生誕の地碑 当時この辺りは耕牧舎という牧場で父親新原敏三は牛乳の生産販売を経営していた所 竜之介は事情で7月目に母の実家芥川家に養子に出され この地は正に歴史が交錯する由緒ある地である 
 
  
上段  浜離宮恩賜公園 愈々隅田川の終りでその河口にあるのが国の特別名勝・特別史跡の浜離宮庭園である  園は江戸時代に発達した大名庭園の代表的なもので現存する汐入庭園の典型的な貴重な文化財 この地はもとは将軍家鷹狩りの場所であったが承応年間松平綱重の別邸となりそして後に6代将軍徳川家宣がこれを浜御殿として改修し景観を整えた 維新後は宮内庁管轄となり名も浜離宮と改めた 下段左は園を囲むお濠を築地大橋からの眺め 残念ながら1月10日のAM8時のためタワーマンションの陰で暗い 下段右は築地大橋からの隅田川 右側の暗い所が浜離宮 この先は東京湾である  
  
左 勝鬨橋から見た築地大橋 右側が旧築地市場  右 築地大橋  臨海部の開発により架けられた隅田川最下流・最新の橋で平成27年に完成 頭上に横繋ぎ材の無い開放的なアーチ橋 都心の新たな幹線道路・環状2号が隅田川の最下流部を横切る地点に架かる橋