山吹の里

 七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに 無きぞ悲しき      太田道灌

山吹の里は次の伝説に基づいている 後に江戸城を造る太田道灌(1432~86)が鷹狩りに出かけた際にわか雨にあってしまう 付近のみすぼらしい民家に立ち寄ってを借りようとしたところ出てきた少女は山吹の花一輪を差し出した 道灌は意味がわからず怒ってしまったが後に「後拾遺和歌集」中務卿兼明親王(914~87)が詠んだという和歌を踏まえ「実の」「蓑」を掛けていたことを知らされる 古歌を知らなかったことを恥じた道灌はそれ以後和歌の道に励んだという故事にちなむ 江戸城富士見櫓から富士山や隅田川・武蔵野の雑木林を眺めたのでしょうか?以下の歌などもあります

我が庵は 松原つづく 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る    露おかぬ かたもありけり 夕立の 空よりひろき 武蔵野の空  
見るたびに 面白ければ 富士の嶺の 雪は浮世の 姿なりけり    
年ふれど まだしらざりし 都鳥 すみだ河原に 宿はあれども

尚 東京都豊島区高田1-18-1 都電荒川線面影橋駅近くにも碑があり山吹の里公園も在るという 
 山吹の里   埼玉県入間郡越生(おごせ)町如意25
上中左 山吹の里歌碑  上中右 水戸偕楽園と共に関東の梅の名所越生の梅林  上右端 県指定史跡太田道真(道灌の父)退隠之地碑  建康寺 入間郡越生町小杉641
上左端 道灌親子菩提寺 龍隱寺山門 入間郡越生町龍ヶ谷452-1 天保2年(1842)太田道真・道灌親子によって文明4年(1472)再興され徳川家康により関東三刹の筆頭に任命される 上中 太田道灌像 上右端 太田道灌(右)・道真(左)の墓碑  他に神奈川県伊勢原市洞昌院・大慈寺に墓がある 道灌は文明18年7月26に主家扇谷定正宅で暗殺された
 山吹の里の入間郡越生町の隣町の比企郡嵐山町に悲劇の源氏三代縁の地があり驚きました  悲劇と記したのは 比企郡大蔵館居住の源義賢兄義朝の子 即ち甥の悪源太義平に殺された 義賢の嫡男後の木曽義仲(旭将軍)は頼朝が送った範頼・義経によって近江国粟津で討たれ 義仲の子義高源頼朝の娘大姫と結婚して婿入りしていたが父義仲が頼朝に殺されたため大姫の援助で鎌倉を脱出したが武蔵野国入間河原(現狭山市入間川)で殺されたのです 平家と違い源氏は親戚・姻戚同士の仲が悪く結果的に頼朝の死後2代将軍頼家・3代将軍実朝だが実朝も兄頼家の遺児公暁により暗殺され源氏の鎌倉幕府は僅か3代で終了した 上 帯刀先生源義賢公御廟堂 比企郡嵐山町大蔵66 帯刀先生はたちはきせんじょうと読む ネットによると天皇の東宮を警護する帯刀の長とある
 上 源氏縁の鎌形八幡神社 比企郡嵐山町鎌形1993 縁起によると坂上田村麻呂に始まり源頼朝・尼御前の信仰厚く義賢・義仲・義高の源氏三代の伝説も多数あり源氏の氏神として仰がれている 特に木曽義仲がここの湧き水で産湯にした碑(上中)がある 
上 威徳山班渓寺 比企郡嵐山町鎌形1907  源義高の母妙虎大姉(山吹姫)が我子義高が11歳の時入間河原で頼朝の命を受けた堀藤次によって斬られその菩提を弔うために建てた 門前の碑には木曽義仲公生誕之地の碑が立ってる 梵鐘には『木曽義仲 長男 清水冠者源義高為 阿母威徳院伝班渓妙虎大姉 創建スル所也』と彫られている 境内には妙虎大姉の墓もある
源氏三代供養塔の地 源氏の末裔が建てた石碑が立ち並ぶ 上左端 御廟堂の奥に上中左の碑がある 手前左五輪塔は源義高 右は木曽義仲 奥左石碑は義賢公 右は不明 妻か? 上中右 大蔵館跡 比企郡嵐山町大字大蔵522 仁平3年(1153)に木曽義仲の父源義賢が秩父重隆の娘をめとり移り住んだ館跡 当時武蔵国内で大きな力を持っていた秩父氏と義賢が結んだことによって関東で義賢の力が増大することを恐れた兄義朝は自分の息子義平に館を攻め込ませて義賢を討った大蔵合戦があった このとき駒王丸(後の木曽義仲)は畠山重能や斎藤実盛によって木曽へと逃れている 畠山氏や河越氏は秩父平氏の一族 そのせいかこの大蔵館跡碑には南無観世音大菩薩を挟んで右に源氏一族一門 左に平氏一族一門とある 上右端 大蔵館跡前にある鎌倉街道
 上 史跡笛吹峠と古戦場鎌倉街道 比企郡鳩山町628-11 南北朝時代新田義貞討ち死後の正平7年(1352)義貞3男義宗・義興・脇屋義治・北条時行等は南朝宗良親王を奉じて挙兵し鎌倉街道を南して武蔵野合戦にて鎌倉の足利基氏・畠山国清・結城直光・宇都宮氏綱・河越直重等足利尊氏軍と戦った 南朝勢は押されて笛吹峠まで撤退し上杉憲顕と合流して体勢回復に努めたが2万対8万の劣勢に大敗を喫した 関東での南朝勢力は一掃され尊氏は関東を完全に制圧した地だ  上中・右端 入間路の・・・万葉歌碑  左越生町図書館  入間郡越生町越生925-1  右個人の墓地 入間郡越生町大谷 入間路(いりまじ)の  大家が原の  いはゐ蔓(いはゐつら)  引かばぬるぬる  吾(わ)にな絶えそね 万葉集』 巻14-3378 共に越生町にあったので掲載した