本当に狭い狭き門 足利学校正門 入徳門 奥に築寛文8年のシンボル学校門がある

下左  征夷代将軍足利尊氏像 鑁阿寺前の通りに建つ
下中  国宝鑁阿寺正門前  足利氏宅跡鑁阿寺 本堂国宝登録決定
 
足利学校 創建については奈良時代の国学の遺制説・平安時代の小野篁説・鎌倉時代の足利義兼説等があるが歴史的に明らかなのは室町時代上杉憲実が現在国宝指定の書籍を寄進し学長制度を設けて再興した時期にはじまる 長享元年(1487)鎌倉建長寺の玉隠永誉はその詩の中で「足利の学校は諸国から学徒が集まり学問に励みそれに感化されて野山に働く人々も漢詩を口ずさみつつ仕事にいそしみ足利はまことに風雅の一都会である」と賛美してる  鑁阿寺(通称大日様) 平安時代末期の足利氏の邸宅跡で12300坪と周囲の堀と土塁から鎌倉時代の豪族の様子が偲ばれる本堂は建久2年足利2代目義兼が晩年剃髪して鑁阿上人と称して邸宅内に大日如来を安置した 国宝建造物3棟・什器類 国重文古文書615通・文化財8以上の建造物がある(鑁阿寺栞)

  孔子廟 学校門を潜り杏壇門を通ると正面にある 寛文8年(1668)徳川4代将軍家綱の時代に造営されたもので中国明朝時代の聖廟を模したもの
       
 安蘇山を西へ越えると少し離れているが足利市である 尊氏(北朝)は戦前までは隣町群馬県太田市の兄忠臣新田義貞(南朝)とは対照的に武家政権樹立をめざし建武の新制の後醍醐天皇を隠岐の島へ流した逆賊の臣として人気がなかった 忠臣楠正成は戦前のヒーローだっ




赤見山 Ⅲ






➡経糸・横糸の神様天八千代々姫命と天御鉾命が祭祀なのか縁結び神として有名だ(神社栞)
  国登録有形文化財織姫神社 綿織物の産地は近世足利藩制時代に始まりその技法の妙は魅力的足利織を生んだ 江戸中期には全国的に評判になり明治期の絹織物・戦前の足利本銘仙・戦後のトリコット生産では日本一生産額を誇った繊維の街である 然し昭和44年以降の日米繊維摩擦・ドルショック・円高に見舞われ輸出は完全に断たれた 229段の石段の途中には繊維産業功労者の銅像が幾体かある➡