今市小倉にある特別史跡・特別天然記念物の例幣使街道杉並木寄進碑
これら3基の寄進の碑は日光神領域と俗域との境に建ててあるので境石とも呼ばれてる
下左 例幣使街道の杉並木    下右 今市から日光途中の杉並木
これらの杉並木の中を行くと芭蕉の奥の細道の句
あらたふと 青葉若葉の 日の光  が実感できる
左2つ 報徳二宮尊徳神社と墓碑 今市
天明二年(1787)神奈川県小田原の生まれだが酒匂川の再三の氾濫で田畑財産を失いさらに両親とも死別して一家離散の貧窮をけい経験した 然し独力で一家の再興はたした 薪を背負い本を読む少年金次郎像のイメージはこの時代のものでしょう この経験を元に小田原藩家老服部家の財政再建を成功させ武士として登用された その後下野国を始め烏山・下館・相馬等約600の村や藩の経済復興開発に一生をささげた 晩年の嘉永6年(1853)徳川幕府の命を受けて旧日光神領89ヶ村の復興に尽力し安政3年(1856)報徳役所で70歳亡くなった 今市は二宮尊徳終焉の地である(説明板)   瀧尾神社 
1200年前勝勝道上人の開基 神社には 凱旋 征清紀念 今市出身軍士 9名の名前明治廿八年11月と凱旋奉納 世界連合戦争 西比利亜出征紀念 今市軍士8名大正八年4月の偏額が掲げられていた➡ 
➡天応2年(782)勝道上人が男体山二荒山神社開基と同時に里宮として祀られた由緒ある神社





二荒の山
其のⅥ
 










➡見慣れぬ異国人に大歓迎をしたという 寛永13年の正使(仁絖)はここを「材木を江戸より運び万両余の費用で新築の板屋が百軒近く」「「人馬が多く麦畑を平坦にして特別にこの舘舎を設けた」と書いている
 
 朝鮮通信使今市客舘跡 江戸時代信(よしみ)を通す為善隣友好の朝鮮通信使は12回来日したうち寛永13(1636)、同20年(1643)、明暦元年(1655)の3回で 正使・副使・従事官の3使の他200名が日光を訪れた 寛永の通信使は遊覧だが次の2回は東照宮・大猶院で朝鮮式参拝をした一行は春日部・小山・宇都宮に泊まり四日目の夕方ここ今市客舘に着いた 翌日日光へ発ち再びここに宿し同じ道を辿り帰った➡