左端 二荒山神社 祭神は十代崇神天皇の第一皇子の豊入城命で東国御定治の為毛野国(栃木・群馬)に下られ毛野氏(上毛野・下毛野氏)の租となった 宇都宮の語源はこの一ノ宮が訛ったとか征討宮説とか様々だ
左下 謎の2代将軍暗殺計画 宇都宮城釣天井事件現場
元和8年(1622)4月21日深夜家康7回忌法要の為5万の兵を従えて日光に赴いていたはずの秀忠が僅か2〜3人の共を連れて早馬駆けて突如江戸に帰還した 普段往路4日の路程を36時間ほどでで帰るというおよそ将軍の平時の行動としては空前絶後の強行軍であった(参考 NHK歴史への招待32 杉本苑子文) 『老中 本多上野介正純殿御反心ありて御宿所宇都宮城中怪しき構造を造れりとの御注進あり 上様はこれを聞かれるやただちに馬を召された由云々』これが宇都宮釣天井事件の発端である 家康とは一心同体であった忠臣本多正純が家康の死後その三男2代目将軍秀忠を殺す理由は見当たらない 正純の栄進を妬む者の謀か若しくは秀忠自身の正純を失脚させるための自作自演かいまだに謎なのである 一説によると贅をつくし最新の建築技術を駆使した御成御殿に要らぬ噂が立ったのではないかともある いずれにしろ割を食ったのは正純親子で秋田横手に流され死ぬまで窓のない一室に幽閉されて亡くなったのである
   野口雨情居宅跡野口雨情は明治15年現北茨木市の旧家に生まれ明治35年現早稲田大学文科に進学した その後坪内逍遥に師事して本格的に民謡創作の道に入り数多くの童謡を創作した 今でも多くの人々に愛唱されている『あの町この町・七つの子・こがね虫・雨降りお月さん・船頭小唄・波浮の港・青い目の人形』等西条八十とならんで童謡・民謡を全国に普及させた 昭和19年1月太平洋戦争が激しくなっためここ宇都宮鶴田町に疎開したが翌20年1月病に倒れ亡くなった(説明板)

上右 蒲生 君平の墓 彼は江戸時代後期の儒学者。尊王論者、海防論者 同時代の仙台藩の林子平・上野国の郷士高山彦九郎と共に「寛政の三奇人」の一人に数えられる 生涯を赤貧と波乱に満ちながら忠誠義烈の精神を貫いた姓は天明8年に祖先が会津藩主蒲生氏郷であるという家伝に倣い改めた(宇都宮桂林寺)
    野口雨情永眠の地  あの町この町 日が暮れる 日が暮れる 今来たこの道 帰りゃんせ 帰りゃんせ の歌碑 詩人 野口雨情永眠の地