足 羽 手白香皇女(たしろかのひめみこ) 日本の第26代継体天皇の皇后仁賢皇后の両足が腫れ上がり傷口から黒い羽が生えた このいわれから足羽の宮と呼ぶ 足に鶴の羽ねが生えていたので皇后に間違いないと言う事になり・・・中略・・・今の足羽の宮がそれである と伝える(若越民話の世界・足羽の母宮より) 足羽とは古代以来越前国の地名である 継体天皇(450~531年)の時阿須波神からとも言われる 旧足羽郡は福井県足羽郡深山町(現福井市)と福井市のそれぞれ一部に当る 郡名以外にも足羽川・足羽御厨・足羽県(廃藩置県の時一時的に)などの地名がある 古代の足羽郡は越前国のやや北に位置し鎌倉時代までは分地された吉田郡を含んでいた その主要部分は福井平野で郡名は731年の越前国正税帳に見えるのが早い 和名類聚抄には安須波と訓じてる 早くから開け足羽山には足羽山古墳群があり平野部は東大寺領の道守荘・糞置荘などが成立した 中世には北郡の北西部を足羽北部郡・南東部を足羽南郡と称していたが1664年にもとに復した 足羽御厨は伊勢神宮領で近世の福井城か一帯に比定されている 神鳳鈔には内宮足羽御厨上分絹七疋・口入二十疋、百八十丁とある(ネットより) 庭中の 足羽の神に 小柴さし あれは齋はむ 帰り来までに 万葉集 巻-4374 いまさらに いもかへさめや いちしろき 足羽の宮に 小柴さすとも 夫木和歌集 源 俊頼 頼むぞよ 足羽の宮に さす柴の しばしが程も 見ねば恋しき 新千載和歌集 藤原定為 |
左端 足羽宮の碑 文政13年(1830)に継体天皇崩御1300年を記念し石場町の富商等が建立したもの 正面に「足羽宮之碑」と題し左側面から裏面右側面にかけてこの時の由来が刻まれている 中 足羽神社 越前租神 創建から約1500年を誇る福井最古の神社足羽神社 福井県福井市中心の足羽山に鎮座し主祭神に継体天皇を祀る式内社 応神天皇五世皇孫で越前の治水事業を行ない平野を開き諸産業を興された男大迹王(おおとのみこ)がこの越前から第26代天皇として即位をされるため大和へ旅発たれる時に「末永くこの国の守り神とならん」と自ら建立した宮に自身の生き御霊(いきみたま)を鎮めて行かれた それ以来継体天皇が主祭神として祀られている 右端 継体天皇御丗系碑 応神天皇から継体天皇までの系図が彫り込まれている これには「玉穂宮天皇大御世系 ...先代の武烈天皇には子供はなく後嗣がないので応神天皇の五世の皇孫男大迹三国より迎え入れたといわれている 福井市足羽上町1-8-25 継体天皇は越前の出身とは驚きです |
上 継体天皇御像 足羽川・九頭龍川の治水や笏谷石の採掘をすすめるなど福井の礎を築いた第26代継体天皇の功績を称えて三段広場頂上に建てられた 明治17年に笏谷石の石工によって造られた石像 |
柴田勝家・お市の墓 西光寺 福井市左内町8-21 天正三年越前の国主として北ノ庄に赴任した勝家公は岡の庄(岡保)天台宗西光寺に帰依して自らの菩提所と定め民生安定の根本道場とするため当地に移し保護した 柴田勝家・お市の方と言えば歴史上知らぬ人は居ないはずの有名な人物 さぞかしその墓地も立派だろうとの先入観との落差に唖然とした 例え歴史上の知名度は高くとも敗者の墓地はこんなものなのでしょうし墓碑あるだけ未だ増しなのかも知れない 寂しい限りです 墓所中央の蔦の絡まったのが勝家公愛用の梅の木 空襲で焼失した後焼けあとの木の根から新しく芽が出たと言うもの |
左 辞世 夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす 勝家 さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ 郭公(不如帰)かな お市 右 里程元標 元々勝家公が築いた九十九橋は半分木造で半分石造りの奇矯であった その橋を明治42年鉄筋の橋に立て替えられるときにこの袂に里程元標が建てられたが後に彼の遺徳を顕彰するため菩提寺西光寺の墓碑の前に移築されたもの 墓碑の右手前の石の角柱が里程元標 福井郡 坪江村午ノ谷六里三十五町五十一間 三国町湊四里二十町33 丸岡町三里九町四十三町 などと彫られている |
左 福井藩士 正四位橋本左内の墓 左内公園 福井市左内町7-7 あの西郷隆盛を心服させた橋本左内 安政の大獄に座し小塚原の露と消え荒川区回向院埋葬されたが文久3年当地に埋葬された 幕末幕府は開国と13代家定死後の後継者問題に大揺れの状態 一橋派の左内は一橋慶喜を押すために奔走するも紀州藩徳川慶福を押す南紀派の井伊直弼が大老に就任すると一橋派は弾圧された江戸伝馬町の座敷牢で斬首された 中 左内の啓発録 15才の決意 一 稚心を去る 一 気を振る 一 志を立てる 一 学を務める 一 交友を選ぶ 右 橋本左内の墓 |
左端 橋本左内先生像 中 左内公園芭蕉宿泊地 等裁宅跡の碑 奥の細道には『福井は三里許りなれば夕飯したためて出づるにたそがれの路たどたどし爰に等裁と云ふ隠士有り いづれの年にか江戸に来たりて予を尋ぬ 遙か十とせ余り也 いかに老いさらばひて有るにや 将死にけるにやと人に尋ね侍ればいまだ存命してそこそこと教ゆ・・・』とある 右 芭蕉句碑 名月の 見所問わん 旅寝せん |
福井城 福井市大手3丁目17−1 福井駅の前200m位の所にある 福井城は福井市大手にあたる越前国足羽郡北ノ庄 のちの福井にあった城 本丸の石垣と堀が残るが二の丸・三の丸はほぼ消滅して市街地化している 形式は平城で 本丸と二の丸の縄張りは徳川家康によるものとされるが次男結城秀康が築城初代藩主となる 後年松平氏を名乗るのを許され 江戸時代には福井藩主越前松平家の居城で城下町として栄える |
左端 結城秀康像 江戸時代初期にかけての大名 越前国北ノ庄藩(福井藩)初代藩主 越前松平家の祖 結城氏第18代当主 徳川家康の次男 豊臣秀吉の養子となり羽柴 秀康を名乗るその後結城晴朝の養子となり結城の通称で呼ばれるようになった 通説では関ヶ原の戦いの後に越前国を領してから松平姓を名乗ったとされ 松平 秀康と呼ばれ越前68万石の大名となり柴田勝家に始る福井の大改造をし今日の福井市の原型となった 中・右端 福井駅前の恐竜造の一部 勝山市北谷町には日本最大の恐竜化石発掘現場があり福井県は恐竜王国とも呼ばれています 日本で発見された恐竜化石のうち約8割が福井県で見つかっています .なかには福井県で初めて発見された恐竜化石もあり「フクイサウルス」、「フクイラプトル」、「フクイベナートル」、「フクイティタン」など、「フクイ」の名を冠した恐竜も多数存在 |
柴田神社 福井市中央1-21 柴田勝家は織田信長から49万石を与えられ数年の歳月をかけて居城である北庄城築いた 城を訪れたスペインの宣教師ルイス・フロイスは九重の天守などを見てその壮大さに感嘆している 天正11年(1583)、対立した豊臣秀吉の軍に攻められた勝家は自ら城に火を放ち妻で織田信長の妹のお市や一族とともに壮絶な最後を遂げた 同時に城もわずか8年という短い命をとじた 現在北庄城の跡には柴田神社が建ち柴田勝家公とその妻お市の方を御祀りしている 境内には柴田勝家公・お市の方・そしてお市の娘三人の姫の像がある |
北ノ庄祉・柴田公園 、柴田勝家(1523?~1583)が築造した北庄城の一部が考古学的発掘により初めて検出された遺構の上にある 徳川期に結城秀康(1574~1607)がその遺構を大胆に改変し福井城を造営していった様子も地層の切り合いの中で確認することができる 北の庄城は天正3(1575)に築城がはじまり織田信長の安土城天守(7層)をしのぐ9層の天守閣をもつ日本最大級の城だったと記録にのこっている 北ノ庄城は徳川家康の次男結城秀康が築いた福井城の前身となった城 築城年は不明だが南北朝期には越前守護斯波高経が築いた足羽七城の一つだったと考えられている 高経は新田義貞を討ち取った武将 その後越前朝倉家の拠点となり朝倉氏滅亡後は織田信長の支配下となった 天正3年(1575)越前一向一揆を平定した功績によって越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が築城を開始 |
左端 北の城祉お市の方 殉職将士の慰霊碑 右2点 お市の方とお茶々・お初・お江の各像 茶々は秀吉の側室に お初は弱小大名京極高次正室 目立たないが内助の功発揮 数千石の弱小大名から6万石の大名へ 大坂冬の陣では豊臣型の姉茶々と妹お初のいる徳川方と交渉して和睦に奔走し大阪城の外堀を埋めさせた お江は初婚の夫は1年で離婚 2回めの夫は早世 3回目に家康嫡男秀忠と結婚した |
左 新田塚公園 福井市新田塚町 60 中 国指定史跡 燈明寺綴新田義貞戦没伝説地の碑 右 新田塚由来の碑 太平記によると暦応元年(1338)新田義貞は藤島城の救援に向かおうとした際燈明寺畷付近で足利方の黒丸城の斯波高経軍と遭遇し乱戦の中戦死したとされてる 明暦2年(1656)この付近の水田から偶然農夫が兜(鉄製銀象眼冑)を掘り出し当時の藩軍学者井原番右エ門がこれを新田義貞のものであると鑑定したことからこの地が義貞の戦没地とされるようになった 万治3年(1660)福井藩四代藩主松平光通は「応元年閏七月二日新田義貞戦死此所と彫った石碑を建立した 掘り出されたは兜は『伝新田義貞公着用兜』として福井藩主松平家に献上されたのち現在は義貞を祀る藤島神社の宝物となってる 藤島神社 福井県福井市毛矢3-8-21 太平記では義貞戦死の報は直ぐに坂井市称念寺に伝えられ時宗の僧8人が遺骸を同寺に運んだという |
左端 贈 正一位新田義貞公戦没の地 中2点 燈明寺正面の丸に一両引きは新田家の家紋 丸に二両引きは足利氏家紋 供に源八幡太郎義家嫡男義国の兄弟 右端 丹羽長秀公墓所 総光寺(菩提所として長秀が創建) 福井市つくも2-18 織田信長から「友であり兄弟」と信頼され柴田勝家とともに織田家の双璧と呼ばれた重臣 長秀は勝家自決後の北庄城主となり越前・若狭、加賀2郡を領する大大名となった 秀吉が豊臣を名乗る以前に丹羽氏と柴田氏から一字づつ貰って羽柴秀吉と名乗ったのは如何にも人垂らしの性格そのもので有名 |
左2点 松柏山総光寺 正面には上の寺名の碑と丹羽秀長公墓地の碑はあるがは全くの住宅街でその上早朝でしたので人気も無く尋ねることが事も出来ず諦めてこの地を離れた 後日ネットで調べたらこの敷地の裏側に右にある墓地がありましたので拝借したもの 丹羽氏は長秀の時代越前・加賀・若狭123万石の大大名となった 長秀死後2代長重の代に秀吉とのとの間に謀反の嫌疑をかけられ一気に12万石まで減封 更に重臣まで秀吉に没収された 更に徳川について奥州上杉景勝討伐に歳してはかって不仲であった前田利長と戦となった これにより徳川家康より改易され一時浪人となった この時点で歴史から消されるところだったが秀忠の時代に常陸国古渡で1万石に復活できた その後福島県棚倉藩5万石 白河藩10万石 3代目光重の代に二本松藩10万石として続き廃藩置県に至っている |
近松門左衛門生誕 近松会館 鯖江市米岡町6-12 越前鯖江吉江藩の武士の息子として生まれ鯖江が有名な幸若舞発祥の地であったことから歌舞には親しんでいたようである 父が京都に移ったので彼も京へと移り後に浄瑠璃や歌舞伎の作家として転進を果たし曽根崎心中、冥途の飛脚、心中天の網島、 女殺油地獄等の不朽の名作を残した 意外な発見をしました |
左端 近松門左衛門贈 近松門左衛門記念館前 鯖江市杉本町70-2 中 近松門左衛門記念館 右端 近松門左衛門文学碑 左側の脇碑には次のように刻されている 近松門左衛門と吉江 近松門左衛門は公卿三條實次を祖とする武士 杉森信義の次男として生まれた 杉森信義は越前宰相 松平忠昌に仕え忠昌の没後はその子 吉品に仕え承応二年(一六五三)福井に在住中に近松門左衛門が生まれたのである 二年後の明暦元年近松は父母と共に吉品の封地吉江におもむきその地に定住する事になった その期間は十年余たまたま父が吉江藩士を辞し京都へ出るのに従い近松も吉江を後にしたのであった かくて近松の吉江在住は十五歳ころまでの事と考えられる その間、吉江藩扶持高三百石の武士 杉森信義の次男として近松は恵まれた幼少年時代を送り藩内に催される幸若舞などを観賞して後の浄瑠璃、歌舞伎作者として大成する素地がつくられたのである 吉江は近松にとって第一の故郷であった 大阪市立大学教授 森 修 右側の碑 近松辞世文 代々甲冑の家に生まれながら武林を離れ 三槐九卿につかへ咫尺し奉りて寸爵なく 市井に漂て商買知らず 隠に以って隠にあらず 賢に似て賢ならず ものしりに似て何も知らず 世のまがひもの からの大和の数ある道々 妓能 雑芸 滑稽の類までしらぬ事なげに口にまかせ 筆にはしらせ 一生を囀(さえず)りちらし 今ハの際にいふべく おもふべき真の一大事は一字半言もなき倒惑 こころに心の恥をおほひて 七十あまりの光陰 おもへばおぼつかなき 我世経畢 もし辞世はと問人あらば それぞ辞世 去ほどに 扠(さて)もそののちに 残る桜が 花しにほはば 享保九年中冬上旬 入寂名 阿耨院穆矣日一具足居士 不俟終焉期予自記春秋七十二歳 のこれとは おもふもおろか うづみ火の けぬまあだなる くい木かきして |