延槻河 (早月川)
 
富山県中新川郡上市町の南東に位置する剱岳を源とする白萩川と立山川の合流し早月川となる 北西に流れ滑川市と魚津市の境界から日本海に注ぐ 平均勾配8.3%の急流で富山県七大河川の一つ  家持が下の歌を詠んだことから延槻の名の由来となる 尚七大河川とは黒部川・片貝川・早月川・常願寺川・神通川・庄川・小矢部川である

立山の 雪し消らしも 延槻の 河の渡り瀬 鐙濡かすも   万葉集 巻17-4024 大伴家持
 
 上左は自作の画像  富山県魚津市吉野  曇天で霞んでるため 右の富山石川万葉故地探訪ネットより拝借したものも掲載
 
 左端 魚津市指定文化財 万灯台  魚津市角川1-1-8  角川河口にあった江戸時代の魚津港に出入りする船舶の安全のために設置された灯台 中 米騒動発祥の地 魚津の米騒動の碑 魚津市本町1-2-23 魚津の名を全国に知らしめた米騒動の貴重な遺跡  明治時代近代化とともに貧富の格差増大や都市の人口増による米不足、大商人による米価の吊りあげが起こった その頃北海道への米の輸送船・伊吹丸が魚津町に寄港した時、米価高騰に苦しんでいた漁師の主婦ら数十人が米の積み出しを行っていた大町海岸の十二銀行の米倉庫前に押しかけ移出阻止を求めた この事件が新聞に報じられ米騒動は近隣の村や町1道3府32県に及ぶ全国的な米騒動に発展し、その後内閣を総辞職に追い込む事態に発展した 日本の近代史を語る上で大きな事件である米騒動の遺跡は少なく当時の建物が現存するケースは旧十二銀行米倉の他にはない 魚津では米騒動が起きた7月23日を魚津米騒動の日として後世に伝えるべくこの地を発祥の地として顕彰している 右端 旧十二銀行米倉
 
左端 魚津城の上杉謙信 歌碑 魚津市本町1-10-39 武士の 鎧ノ袖を かたしきて 枕に近き はつかりの声 永禄12(1569)年上杉謙信が椎名氏を破り魚津城を支配  魚津城は越中・越後を結ぶ北陸道の押さえで角川河口にあり陸海の交通の要衝 上杉氏にとって魚津城や松倉城を含む魚津は越中進出のための侵攻の拠点であり敵の越後進入を防ぐ防衛の拠点でもあった 然し魚津城は越中制圧をもくろむ織田方の軍勢に包囲され80日間に及ぶ篭城戦で善戦むなしく落城した 右端 大伴家持県内最大の歌碑 魚津水族館園内 魚津市三ケ1390   県内に106ヶ所ある万葉歌碑の中でもここ魚津総合公園内の水族館横にある万葉歌碑は高さ4.5m県内最大のもの 奈良時代の貴族・歌人越中国司として有名な大伴家持が魚津を詠んだものとしては早月川の歌と片貝川の歌がありますが馬で早月川を渡ったときに詠んだものとされてる 立山の 雪し来らしも 延槻の 河の渡り瀬 鎧浸かすも 
 
左端 越の海信濃の浜 家持万葉歌碑  魚津市村木定坊割2500-2 越の海の 信濃の浜を 行き暮らし 長き春日も 忘れて思へや  万葉集 巻17-4020 中 ここからは条件が整えば蜃気楼が見えますが6月中旬で霧では最悪でした 右端 春の長い一日をここ信濃の浜を歩きながら遠い都への恋しさ・憧れの心情を詠んだのだろうと 歌碑の裏面にある
 
 左端 富山湾の蜃気楼 富山県ネット富山湾より拝借  中 櫟原神社  滑川市神明町540 滑川市の大社 人皇十三代成務天皇の勧請で後に大宝元年に再興された 本殿、拝殿、鳥居は国登録有形文化財に認定 右端 芭蕉句碑 しばらくは 花の上なる 月夜かな 境内にあるこの句は松尾芭蕉が元禄4年(1691)に詠んだ句 碑の裏面には「安政二乙卯年初冬 発起 孤松庵如青・迎月亭東邱・閑時庵呉橋 時雨斉六窓・石工当初久兵衛」と刻まれて安政2年(1855)に4名が発起人となり建立した 
 
 左端 芭蕉句碑 旧碑は明和元年(1764)に川瀬知十ら地元の俳人たちが芭蕉の七十回忌に建立した碑でアクリル樹脂のケースに収められている 左下の6角形の石碑は建立者である知十塚   中 徳城寺  滑川市四間町598 右端 新しい芭蕉句碑  わせの香や 分け入る右ハ ありそ海 平成元年に建立