羽 咋 の 海
珍しい羽咋の喰の古い文字でその起こりは遠く古墳時代まで遡るそうだ 第11代垂仁天皇のころこの地方に疫病や盗賊が横行する災難が続き更滝崎の森に大怪鳥が現れ大災難に見舞われました これを鎮めるために磐衝別命(いわつくわけのみこと)が3匹の犬と共に退治しその犬たちが怪鳥の羽を喰ったことから羽咋となったという (羽咋市役所の羽咋の由来より)  当時能登の国は未だ越中国に属していた頃で国守の大伴家持は天平20年(748)越中の国府を出発して之乎路峠を越えて羽咋にある気多神社にお参りする時に峠から見える羽咋の海を見て詠んだのでしょう 

気多の神宮に赴き参り海辺を行くときに作る歌一句
之乎路から 直越え来れば 羽咋の海 朝なぎしたり 船梶もがも   万葉集 巻17-4025 大伴家持

上 国重要文化財 能登一の宮 気多神社  羽咋市寺家町ク1-1 国重要文化財 神門  建立年代は社伝に天正12年(1584)としているが細部や全体のおおらかさからみて建立の年代の下限としてよい 江戸初期には少なくなる真反り・反り増し・板かえる股の曲線など伝統の本格的技術を忠実に駆使して建てられている建物である 社蔵の由緒書によると延宝8年(1680)に本殿以下の諸殿とともに修理を行う  重要文化財 拝殿 建立年代は小屋梁の墨書によって承応2年(1653)から同3年(1654)にかけて建立されたことが知られる 右端 後ろの森は国指定天然記念物 入らずの森 気多神社の社叢は神域「入らずの森」として神聖視され神官も年1回社叢内の奥宮の神事を勤めるために目かくしをして通行するのみといわれる 照葉樹林(暖地性常緑広葉樹林)としてはことに中心部において極めて良く原生相が維持されており常緑樹の枯死倒壊と交替したエノキの下にヤブニッケイ・タブノキなどの陰樹が生長しつつあるという遷移相も典型的に認められる 平安時代70才の高齢の源 順が能登の国守となって能登国に下向するときの惜別の歌に 神の座す 気多の深山木 繁くとも わきて祈らむ 君が千載を  尚和菓子の最中の語源となった彼の歌に 水の面に 照る月浪を かぞふれば 今宵ぞ秋の 最中なりけり 
 左 昭和天皇御製 昭和58年5月22日 斧入らぬ みやしろの森 めずらかに からたちばなの 生ふるを見たり  右 折口信夫父子の歌 気多のむら 若葉くろずむ 時に来て 遠海原の 音を聴くきをり  右 迢空(信夫) 信夫は国文学や民俗学で貴重な論文を残した 独特の学問は折口学とも称される  春畠に 菜の葉荒びし ほど過ぎて おもかげに師を さびしまむとす  左 春洋(旧姓藤井 折口信夫の養嗣子 硫黄島で戦死) 御製と共に境内内にある
上 国定公園能登半島 羽咋の海千里浜  羽咋市千里浜タ4-1 能登千里浜がある羽咋市は世界に3カ所しかない砂浜を車で走ることできる珍しい海岸「千里浜なぎさドライブウェイ(全長8km)」がある場所です バスやバイク自転車でもまさしく「なんでも走れる砂浜」です  何故車輪が砂にめり込まないのか? その秘密は「砂」にあります 一般の海岸の砂を顕微鏡で拡大すると大きさがバラバラでムラがあります 一方で千里浜海岸の砂は一つひとつの粒が小さくまた大きさが揃っていって角ばった形をしている特徴があります この砂に適度な水分が混ざると砂浜がギュッと固く締まり普通の道路や自転車などで走行できるような安定感が生まれます。
上左 サンドアート きめ細かい砂を水で押し固め削って整形される  上右 千里浜大伴家持万葉歌碑 碑ははやけに高いけれど家持の歌は黒い部分だけです 之乎路から 直越え来れば 羽咋の海 朝なぎしたり 船梶もがも  之乎路は氷見から羽咋に行く時に越える峠の名称 これは748(天平20)年、万葉の歌人大伴家持が越中の国司の身で能登をめぐった際、気多大社におもむく時に作った歌 この独特な形態は家持が詠んだ船梶を模した物で気多神社に向って建ててある 右端の碑文の文字は寛永伴万葉仮名  家持の文字は太政官符に記載されていた家持自身の署名の部分から模刻したものという
左端 万葉集研究の第一人者 令和の命名で有名な中西進先生の歌碑   大伴家持卿に和す 靺鞨の 凍風去りし 海原に 漲りわたる 大和の真春 靺鞨は7世紀の中国大陸に起きた渤海国の北方民族の名称  中 千里浜サンドアートの通年鑑賞出来る作品 私の時は見付けられなかったのでネットより拝借 右端 能登街道高松宿の碑 口銭場 かほく市高松甲 加賀藩と能登方面を結ぶ宿場で物流の盛んなところ 口銭とは物資にかけられた手数料・運送料・保管料等の事

左 西田幾太郎哲学記念館 かほく市内日角  明治3年5月19日石川県河北郡宇ノ気に生れる 金沢第四高等学校中退 東京帝国大学選科卒業 四高教授等を経て京都帝国 大学教授 明治44年刊の『善の研究』は有名で旧制高等学校学生の必読書となる 京都学派創設者  東洋的思想の地盤の上で西洋哲学を摂取し 「西田哲学」と呼ばれる独自の哲学を築き上げた その哲学は近代日本における最初の独創的な哲学と評される 1940年文化勲章 右 記念館からのかほく市市街の眺め