射水川・雄神川 

の細道の曽良の旅日記には 『十四日 快晴 暑甚シ 滑川一リ程来 富山カカラズシテ東石瀬野 渡シ有 大川 渡テトヤマヘ別 氷見へ欲行 不行 高岡ヘ出ル 二リ也 ナゴ・二上山・イワセノ等ヲ見ル 高岡ニ申ノ上刻着テ宿ス 翁 気色不勝 暑極テ甚 小持同然』 とある この 渡シ有 大川 がこの画像の射水川・雄神川である

当時越中国庁は射水河々口ににほどちかい高台にありました  家持が暮らしていたと考えられている 現在の伏木測候所はその高台の端にあり明治時代まで真下を川が流れてた また現在は別々の河口を持つ小矢部川と庄川は大正時代まで伏木上流で合流し大きな流れとなって ひとつの河口へ流れ出ていた かつては氾濫を繰り返す暴れ川であった名残は二上山の城山跡に立つと 眺めることがでる 上流は深い谷を刻む白川郷や五箇山などの山村は隔絶された地であった

朝床に 聞けばはるけし 射水河 朝漕ぎしつつ 歌う船人    万葉集巻19-4150 大伴家持
射水河を家持は5首詠んでいるが他4首は長歌である

雄神川 紅にほふ 乙女らし 芦つきとると 瀬にたたすらし    万葉集巻17-4021 大伴家持

 
 国土交通省ネットより拝借       左 雄神川 現庄川 ・ 右 射水川 現小矢部川
 
小矢部川の如意の渡しの碑 ご存知如意の渡しはかつて源義経・弁慶主従が奥州落ちの途中乗船の際に怪しまれ弁慶が義経を扇で打ちのめす機転で無事対岸にわたることが出来たという伝説の地 源義経の生涯を描いた室町時代の軍記物語義経記に如意の渡しの場面が出てくる 歌舞伎の勧進帳で有名な安宅の関の舞台は江戸時代にこの伝説をモデルにして作られたと言われている  中 如意の渡し 小矢部川の伏木万葉大橋 奈良時代に大伴家持が越中国の国司として赴任していた当時に詠んだ歌4首の歌碑が設置されている『巻17-4001・巻17-4018・巻17-3987・巻19-4150』 橋は平成21年に完成しそれまであった渡し船は廃止になった 右端 義経を打ち据える弁慶の像 JR氷見線伏木駅前 高岡市伏木古国府1-1 かくて六だうじを越えて奈呉のはやしをさして歩み給いひける 義経記
 
左端 古国府の碑 JR氷見線伏木駅前か勝興寺へ向う直ぐの所にある  側面に加賀半領加越能三国が明治直前まで寺内町の形を保った唯一の町とある  中左 順得天皇勅願所の碑 古国府碑の道路の反対側にある 中右 越中国守館跡の碑 基本的に遺構が無い為、あくまでも推定地のようだ(発掘調査などで館跡が発見された訳ではない) 往時高台にあった国守館跡の下を射水河が流れていたので上記の万葉集巻19-4150の歌を自分の住まいから眺めた風景を詠ったとされている 右端 高岡市伏木気象資料館 高岡市伏木古国府12-5 国指定登録旧伏木測候所風速塔 国守館跡にある
 
左端 大伴家持像  高岡市伏木古国府17-1  しなざかる 越に五年 住み住みて 立ち別れまく 惜しき夕かも 巻19-4250 大伴家持 都を遠く離れた越中を「天離る鄙(あまざかるひな)」「しな離る越」と 詠んだ  「天」は都を「さ離る」は遠く離れていることを意味する 越中の風土はミヤコと異なるヒナつまり 異郷であり家持が都への思慕を募らせていたことがわかる 共に勝興寺総門の前にある  右端 越中国庁址の碑 勝興寺境内  大伴家持は746年(天平18年)に越中守に任じられ5年間越中国(現在の富山県・石川県能登地方)に在任しこの越中国庁で政事を行った
 
左端 国重要文化財 総門 他に同重要文化財唐門がある 中 勝興寺 勿論奈良時代に越中国庁祉として推定される地である 勝興寺は天明2年(1472)本願寺派8世蓮如上人が北陸での布教の拠点として現在の南砺市で営んだ土山御坊を起源とする 戦国時代には一向一揆の拠点として威勢を誇る 現本堂は寛政7年(1795)加賀前田家11代藩主により建立された 境内には国重要文化財12棟を誇る 右 大伴家持歌碑 あしひきの 山の木末の ほよ取りて かざしとりては 千歳寿くとそ  境内 万葉集 巻18-4136  
 

上左 うみゆかばの碑 表裏 興勝寺境内  大伴の 遠つ神祖の その名をば 大来目主(おおくめぬし)と 負(お)ひ持ちて 仕えし官(つかさ) 海行かば 水浸(みず)く屍 (かばね) 山行かば 草生(む)す屍(かばね) 大君の 辺(へ)にこそ死なめ 顧みはせじと 言立(ことだ)て 大夫(ますらお)の 清きその名を 古(いにしへ)よ 今の現(をつつ)に 流さへる 祖(おや)の子等(こども)そ・・・・・万葉集巻18-4094 本文は532文字の長文である 上右 歌碑のある全体像 

 
左端 大伴家持堅香子の歌碑 武士の 八十娘子らが 汲むみまがふ 寺井の上の 堅香子の花  巻19-4143 勝興寺境内  中左  歌中に詠まれている寺井の址 中右  武士の 八十娘子らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花 巻19-4143 伏木小学校万葉歌碑  高岡市伏木東一宮17-1 右端 大伴家持万葉歌碑 光暁寺 高岡市伏木東一宮17-4  春の園 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子 巻19-4139 
 

国指定重要文化財 気多神社  高岡市伏木一宮1-10-1 気多神社は高岡市伏木一宮にある式内社で越中国一宮  所在地の高岡市伏木はかつて国府や国分寺が存在した越中国の中心地で当神社境内にも越中国総社跡の伝承地がある 越中国内で一宮を称する4社のうちで唯一所在地名に「一宮」と言う銘号が入っている 右端 境内にある大伴家持万葉歌碑 馬並めて いざうち行かな 渋谿の 清き磯廻に 寄する波見に 巻17-3954 大伴家持が越中に赴任して最初に開いた宴の時に読まれた歌とされています 渋谿の磯とは現在の雨晴海岸のことです 宴も終わりにさしかかった頃家持が「みんなで海を見に行こう」と提案している歌です

 
 左端 大伴宿祢家持卿顕彰碑 気多神社境内 高岡市伏木一宮1-10-1 中 大伴神社 気多神社境内 大伴家持卿を顕彰して地元有志が昭和60年(1985)に氣多神社境内で創建した 毎年春と秋に大伴家持顕彰祭が執り行われる 伝承によればこの境内地の一角に越中総社(越中国内の有力諸社の神霊を国府城近くに集め祀った社) が建立されていたと伝える 家持は越中赴任中に何度もこの総社を訪れたのでしょう 右端 大伴家持と坂上大嬢の像 高岡市万葉歴史館前 高岡市伏木一宮1-11-11 坂上大嬢父は大伴宿奈麻呂 母はその異母妹で万葉歌人の坂上郎女 従兄弟(いとこ)の大伴家持の妻 家持と恋愛関係にあったころ彼に贈った短歌11首が『万葉集』に収められている 春日山 霞たなびき 心ぐく 照れる月夜に ひとりかも寝む 万葉集巻4-734 家持への一種甘くやるせない思いを誘う眼前の景を通してひとり寝のせつなさを訴えた佳作 だそうだ  背景の歌 春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出でたつ娘子 万葉集巻19-4139 家持も桃の花見に出てきた娘達を見ては遙か都の坂上大嬢を偲んだかも知れません
         うぐいすの 鳴き散らむ 春の花 いつしか君と 手折りかざさむ  万葉集 巻17-3966
 
左端 能町小学校内家持万葉歌碑 高岡市能町南2-110  朝床に 聞けば遙けし 射水河 朝漕ぎしつつ 歌ふ舟人 万葉集巻19-4150 中 歌の中の少女たちが採っている葦附苔の絵 右端 あしつき公園万葉歌碑  富山県高岡市中田葦附 雄神川 紅にほふ 娘子めらし 葦付取ると 瀬に立たすらし   大伴家持 巻17-4021 県指定天然記念物である「あしつき」の保護・増殖をはかるために造られた公園 これは海苔の一種らしい  昔は食用になっていたらしいが環境の変化から現在では殆ど見かけることができない  
 
 左端 日本三大大仏 高岡大仏  高岡市大手町11-29  日本三大仏に数えられる高岡大仏は地元の銅器製造技術の粋を集め1907年より26年の歳月をかけて完成した 出来栄えが素晴らしいことから日本一の美男とも呼ばれ銅器日本一の高岡の象徴的存在である 中左 大伴家持万葉歌碑 高岡市万葉歴史館 今日のためと 思ひて標し あしひきの 峰の上の桜 かく咲きにけり 巻19-4151  中右 家持親子の像 高岡駅北口前 高岡市下関町6 746年29歳で越中守に赴任し高岡で暮らした5年の間に223首の和歌を残す 女人が手にしているのは高岡市の花である「かたかご・かたくり」  台座には家持が詠んだもののふの 八十娘子(やそおとめ)らが 汲み乱(まが)ふ 寺井の上の 堅香子(かたかご)の花 が記載された情景が表現され筆を手に歌を詠む家持と少女二人堅香子の花が並ぶ 右端  国指定史跡高岡城跡 高岡古城公園 高岡市古城1-9  高岡城跡は慶長14年(1609)、前田利長の築城 6年後の廃城の後も長らく保存された 明治8年(1875)に公園として開放されて以来市民の憩いの場となる 桜名勝100選 日本名城100選
 
 右端 高山右近像 高岡古城公園内  高岡市の開祖 利長公が隠退後の慶長14年に築いた高岡城は築城の名手右近が縄張りをした 独創遠大な構成で江戸城・大阪城に比肩すると評される名城である クリスチャンの彼に徳川幕府の禁教令は厳しく慶長19年正月右近は国外追放となり11月ルソンにわたるも翌年正月疫病を患い没す 中左 富山藩初代藩主前田利長公像 同公園内 中右 瑞龍前田公遺徳碑 本丸広場の北側にある 高岡市開町の祖前田利長公を顕彰した大きな石碑 右端 国指定史跡前田利長公墓所 高岡市関町73 高岡の町を開いた加賀前田家2代当主前田利長の墓所 菩提寺である瑞龍寺から「八丁道」という石灯篭が続く道の先にあり墓地は大名個人の墓としては日本一と言われる規模(33,000㎡)を誇る 平成21年に石川県金沢市の「前田家墓所」と共に「加賀藩主前田家墓所」の名称で国の史跡として指定を受けた 巨大石塔郎は高さ6.3mもある