伊豆の山・伊豆の海古古比の森

 吉田東伍の大日本地名辞書(富山房)には伊豆地名の由来が載っているので少し細かく載せましょう  『伊豆の名義湯出の義なるべし 伊豆山走湯の条を按ふべし』 又『伊豆出也 南海に突出づ故に以て州に名づく』とか『伊豆の御山に出湯あり 出湯の国なるべし』と 更に『伊豆山とは本走り湯神を伊豆山権現称するに起こり伊豆伊伝由の略にして出湯より起こると云ふ』と続く 最後に『伊豆とは湯出の転訛にやと説く者あり この説に拠れば伊豆は走湯の湯を本として山名と為り遂に国名にもなれるものとす』 『伊豆海は三面海あり 西浦・東浦の名あり 西浦は駿河湾の東側を成し東浦は今相模湾の西側を成すも是なり』とある  
 走湯とは馳水・走井など云へる古語と同く水の激奔するに名付けたるなり 此の地の温泉天成の岩洞に涌出したるを以て古人夙に之を見て霊異となし所謂伊豆の神の業に成る思惟しけん 後世に湯滝と云う  即走湯と同義とす 滝の湯は走り湯権現の二町計り山下に在り 岩洞より涌出し海岸へ流れ落ちる其の疾きこと矢の如し 故に走湯の名あり 走り湯は古に直に海に奔流せり 走り湯の名是に因む 涌流の際激湍奔波を成すもの 之を走り湯と名づくるのみ

伊豆の海 たつ白波の ありつつも つぎなむものを みだれしめめや          万葉集 巻14-3360
伊豆の海や 沖の波路の 朝凪に 遠島きえて たつかすみかな            夫木和歌集 藤原為路
重なれる 雪わきかえり 伊豆の海の 山より浮かぶ 夕立の空              北国紀行 尭恵
箱根路を 我が越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ          金槐和歌集  源実朝
伊豆の海 波路はるかに 霧晴れて 島々見ゆる 秋の夜の月            歌枕名寄 中務卿親王
箱根山 明けぬと舟の いづの海 横雲かけて 漕ぎ渡る見ゆ         伊豆山奉納二十首 宗長法師 
思ふ事 ひらくる方を 頼むには 伊豆の御山の 花をこそ見め                   相模集
千早振 伊豆のお山の 玉椿 八百万代も.色はかはらじ               撰和歌集 鎌倉右大臣
まがなしみ ぬらくしまらく さならくは 伊豆の高嶺の なるさはなすよ              万葉集
伊豆の国 山の南に 出づる湯の 速きは神の しるしなりけり               玉葉集 源実朝
走り湯の 神とはむべよ 云ひけらし 速き驗の あればなりけり             金槐和歌集 源実朝
わたつみの 中に向ひて 出づる湯の 伊豆のお山と むべも云ひけり           金塊和歌集 源実朝
すべらぎも 荒人神も 和む迄 啼きける森の 子規かな                      素性法師
跡たたる 山のかひより 世とともに 絶ゆる時なく 走り湯の神               宗長法師奉納
都より 巽にあたり 出湯あり 名はあづま路の 熱海といふ                 金塊和歌集 源実朝

ここいの森・古古比の森・恋の森等の文言は清少納言の枕草子の中の『もりの項』の中にも記述されている 今伊豆山火牟須比神(伊豆山神社)の森則ち之なりとある ここいとはかがいの訛ったもので万葉集や常陸風土記に記載されている『かがい』と同じである かがいとは男女が集団でデートすることで歌ったり踊ったり食べたりする集会のこと

五月やみ 古古比の森の 杜鵑 人知れずのみ 啼くいたる哉                  兼房朝臣
子規 ここひの森に 鳴く声は 聞くよそ人の 袖も濡れけり                   大弐三位
思ひやる 古古比の森の 雫には よそなる人の 袖も濡れけり             拾遺和歌集 清原元輔
左・中左・中右 関八州総鎮守 伊豆山神社 熱海市伊豆山708-1   ご存知源頼朝が源氏再興を祈願した神社で妻政子との逢瀬の場所とも云われ二人の腰掛石(中右)もある 平家打倒の挙兵した際にはは政子を含む妹や父時政の妻などと共に身を隠するため非難した所でもある 源氏姓を名乗る家康も強運の神として深く尊崇した 箱根神社と共に二所権現と呼ばれる  右 伊豆山神社への特異な参道の説明板 伊豆山神社の参道は熱海の海(伊豆山浜)から下画像の走り湯神社を通り892段の総て階段になってるのです 伊豆山神社を勧請したのはこの走り湯神社なのです
 走り湯神社 日本地名辞書には 『走り湯とは馳水・走井などと云える古語と同じく水の激奔するに名付けたり 此の地の温泉天成の岩洞に涌出したるを以て古人夙に之を見て霊異となし所謂伊豆の神の業になると思惟しけん』 とあり走湯神社が創建されたという  ここから伊豆山神社までの参道892段の階段が始ります  中 温泉涌出口 往古にはここから熱海の海(伊豆山浜)に温泉が噴出・激奔して海に流れ出していたと云うのです 奥まで入れますが中は蒸気で一杯です 走り湯神社の真下にあります  走り湯入り口 海に面したホテルの裏に在り中々分かり難かった  日本三大古湯の一つ 走り湯の 神とはむべよ 言ひけらし 速き驗の あればなりけり 源 実朝  伊豆の国 山の南に 出る湯の 速きは神の 驗なりけり  源 実朝
上 湯前神社 熱海市上宿町4-12 下調べをしていたにもかかわらず熱海で一番肝心な神社を見逃していていた ので上記画像3点はトラベルJPより拝借したもの 江戸時代までは熱海温泉の中心的温泉源で1日6回の大間歇泉があったが現在は人工的間歇泉として整備された 手水も温泉の湧き湯はここだけでしょう 徳川家康も殊に熱海の湯を愛したのは有名な話  出る湯の 山くにかかれる 白糸は くる人たへぬ ものにぞありける 玉葉和歌集 源重之
 
 左 上記境内にある源 実朝の歌碑 都より 巽にあたり 出湯あり 名はあづま路の 熱海といふ  ご存知 熱海と言えば丹那トンネルの開通と尾崎紅葉の未完の小説金色夜叉で一湯治場から現在は国際観光文化都市に指定され知らない人はいない 最近はレジャーの多様化で漸減傾向にあるとは云え日本一のリゾート観光地である 中 初代お宮の松の切り株モニュメント 右 お宮の松 右側の石碑には 紅葉山人記念 金色夜叉の碑  宮に似た  うしろ姿や  春の月 風葉 と彫られている   この句は紅葉の門人で小栗風葉の作 未完のまま36才で亡くなった紅葉の金色夜叉を彼は『続編の金色夜叉』として執筆し完成させた その後も続編・続々編が出来たようだ  この句も名句として「お宮の松」とともに広く熱海の名を知らしめた  川端康成はその著書の中で『石そのものも可憐な女の後姿に似ている この海岸での貫一お宮の悲劇的な別れが最早架空の物語とは思えない』と書いている 
熱海の海岸 お馴染みの 貫一・お宮の像  左 像の隣の碑は尾崎紅葉の肖像と小説の説明が彫られている   右 ネットより拝借したもの 夜間スポットライトを浴びた像  金色夜叉
 
 熱海市から伊東市へ行く途中の伊豆の海・海岸
 
左 伊東祐親像 伊東市大原2-1  伊東市役所の隣にある遠見塚公園内にある ここは伊東祐親館があったと伝わる所 東国における親平家方として平治の乱で敗れた源頼朝の監視役に当たる が祐親が上洛して留守の間に三女八重姫が頼朝と深い仲になり千鶴丸をもうけてしまった  激怒した祐親は千鶴丸を松川に沈めて殺してしまった 中左 遠見塚公園伝伊東祐親館跡の碑  中左 芭蕉句碑 けふばかり 人もとしよれ 初しぐれ 右 最誓寺(西成寺) 伊東市音無町2-3 この寺は八重姫が父祐親によって松川に沈められた千鶴丸を弔うために音無の森に建立したもの 紆余曲折があったようだが門を入ると直ぐ左手に伊東家一族の墓碑群があった(下左)
中・右 音無神社 伊東市音無町1-13  この森で源氏の頭領源頼朝と親平家の伊豆の領主伊東祐親の娘八重姫とのロマンスが繰り広げられ千鶴丸を身ごもった(最誓寺隣) 
上 伊東温泉 古くから別府・湯布院・伊東で三大温泉と言われるここ伊東温泉 源泉数750本で静岡一の総湯量を誇り多くの文人・歌人が訪れた   伊豆の海 青く温泉 露白し 柑子実り 椿花咲く柑子はコウジと読みウスカワミカン) 与謝野晶子 ほととぎす 伊豆の伊東の いでゆこれ 高浜虚子  尚 野村俊夫作曲・古賀政男作曲で昭和23年にリリースされた近江俊郎の湯の町エレジーはここ伊東温泉が舞台で何もない時代にもかかわらず売り上げ40万枚の大ヒット曲となり映画化もされた  伊東温泉を象徴する東海館 昭和3年に開業した 当時の職人が腕をふるい檜や杉の鷹級木材や変形木材を使用した純和風の旅館で大いに賑わった旅館 現在は文化施設や記念館で旅館の営業はしていない 手前の流れは松川
 
左 竹灯籠イルミ浪漫 松川遊歩道に700本と音無神社に400本の計1100本の竹灯籠のイルミネーションが毎日点灯されています(ネットより拝借)  右 伊東市有形文化財東海館の正面 伊東市東松原町12-10 なまこ壁と純和風の木造建築が如何にも戦前の旅館のノスタルージーをよみがえらせてくれます  湯の町エレジーの作詞・作曲家もここからイメージが涌いたことでしょう
 左 みかんの花咲く丘の碑 戦後最大のヒット曲 作詞 加藤省吾 作曲 海沼寛 歌 川田正子  この歌碑は伊東市宇佐美から三島・沼津に向かう亀石峠に石碑にある 1946年8月25日に発表され戦後生まれの童謡の中では最大のヒット曲 NHKのラジオ番組『空の劇場』で東京・内幸町の本局と伊東市立西国民学校を結ぶラジオの二元放送で発表された童謡  ゆかりの地である伊東市に歌碑を建立(ネットより拝借)  中 稲荷山東林寺 伊東市馬場町2-2-19 東林寺は伊東祐親が息子・祐泰の死を悼んで菩提寺にしたと言われる伊東家累代の菩提所  河津三郎祐泰と曽我兄弟親子の墓があるが祐親の墓は市役所近くの伊東市11の高台にある 右 河津三郎祐泰の墓 伊東庄の争いから同族の工藤祐経が鷹狩りに来ていた伊東祐親を狙った矢が嫡男祐泰に当り落命した
左  曾我十郎祐成の墓碑 辞世 けふ出でて 廻りあわずは おぐるまの このわのうちに なしとれしれき  中 曾我五郎時致の墓碑 ちちぶやま 降ろす嵐の 激しさに 枝散り果てて 如何にやせんそが 父祐泰と共に東林寺にある  右 伝 伊東祐親墓所 伊東市大原11  頼朝挙兵に際し平氏側に味方した伊東祐親は補われの身となり寿永元年(1182年)2月14日相模三浦郡に在った娘婿三浦義澄の邸内で自害したとされている その祐親の墓所とされているのがこの五輪塔です
左・中左 伊東祐親の墓碑   中右 祐親の辞世の碑   三笠山 さしてまもれる めぐみをば 行く末までも 猶たのまなん   右 旧下田街道(東浦路) 伊東市から下田市へ 途中河津三郎祐泰暗殺の地 血塚を通る  この伊豆東浦路(小田原から下田への道)は江戸時代以来昭和8年まで伊豆半島の東海岸を通る重要な街道で現在のR135号線に当たる この街道と半島の中央山中を天城峠を越えて縦断する三島から下田えの道の天城路の二本が下田街道と言われる
 河津三郎祐泰の血塚 上3点  伊東市八幡野1741-263  同族の工藤祐経大庭祐親の所領争いから巻き狩りの帰途祐親を狙った祐経のスナイパーが誤って長男の祐泰にヒットした
上左2点 河津三郎祐泰の血塚 日本三大仇討ちの一つ曾我兄弟敵討ちの遠因となった祐泰死亡の地          右 国立公園伊豆ジオパーク半島 城ヶ崎ピクニカルコース   伊東市富戸     
富士箱根伊豆国立公園指定 城ヶ崎海岸   左 城ヶ崎海岸 門脇吊り橋   中 吊り橋を下から眺めた風景     右 駐車場から吊りは市を眺めた風景 全長48m・高さ23m
 
左  国立公園 城ヶ崎の碑   約4000年前に伊東市にある標高580mの大室山の噴火により流れ出した溶岩によってできた凡そ9kmの絶景海
 
 左 国立公園城ヶ崎の碑 中2点 城ヶ崎ブルース歌碑  作曲 星野哲朗 作曲 関野幾生 昭和43年 黒澤明とロス・プリモス  右 雨の城ヶ崎の歌碑 作詞 星野哲朗 作曲 関野幾生
 
左 河津川渓流  天城山水源の森を源流としていて天城山の北斜面が狩野川源流 南斜面が河津川源流となる 右 河津温泉郷湯ヶ野温泉 川端康成の宿 伊豆の踊子執筆の宿 福田や 賀茂郡河津町湯ヶ野236 明治12年創業 伊豆の踊子の舞台となった宿 川端康成が一高生の時天城峠を越えて宿を取ったのが福田屋で橋の正面の二階の部屋が青年川端康成が泊まった部屋と言う 「この部屋から対岸の共同浴場で踊子が真っ裸で立た姿に学生の私が驚いた名場面」の執筆の部屋だ 又1940年(昭和15年)7月3日太宰は「大判の東京明細地図」を携え東京駅を出発し熱海まで行き、熱海で伊東線に乗り換えて伊東から東海自動車東海岸線下田行きの路線バスに乗り河津沿いにある小さな温泉地静岡県賀茂郡上河津村の湯ケ野温泉に着いて「福田屋」に宿をとりその2階の六畳間で『東京八景』の稿を起こしました  当時の福田屋の宿帳には万年筆書きの太宰の自筆で「七月三日(前夜宿泊地)自宅 (住所)東京府下三鷹町下連雀一一三 (職業)文筆 (氏名)太宰治 男三十二」と書いてあるそうです(ネットより
 左 福田屋前からの河津川の流れ  中 日本秘湯を守る会福田屋の正面玄関   右 玄関前にある伊豆の踊子の像 美空ひばり・吉永小百合・山口百恵等蒼々たる女優が訪れ
 
 左 太宰治東京八景執筆の部屋      中 川端康成伊豆の踊子執筆の部屋 (早朝のため2点ネットより拝借) 「私は、太鼓の音が聞こえると胸が明るくなり、止むと沈み込む どうにもならない切ない気持で夜を更かすのである」ここで踊り子達が流してくる太鼓の音に胸をときめかせ対岸に見える共同湯の前に立った踊り子の裸姿にびっくりした部屋である     河津川
 
 左 伊豆の踊子文学碑 福田屋旅館の隣にある 伊豆の踊子の主要な舞台である湯ケ野温泉 「私」が泊った宿、福田家に隣接する場所に建碑されたのは昭和40(1965)年 福田家には川端の書や資料が多く残っている 太宰の宿としても知られるが彼らの泊った部屋もほぼ昔どおり残っている   碑文には 『湯ケ野までは河津川の渓谷に沿うて三里余りの下りだった 峠を越えてからは 山や空の色まで南国らしく感じられた 私と男とは絶えず話し続けてすっかり親しくなった 荻乗や梨本なぞの小さい村里を過ぎて 湯ケ野の藁屋根が麓に見えるようになった頃私は下田まで一緒に旅をしたいと思い切って言った 彼は大変喜んだ』 と彫られている  右 対岸からの福田屋
左 河津八幡神社 賀茂郡河津町谷津373 ここが河津三郎祐康泰の館跡だったという  中左 河津神社の由来や河津掛け・曾我兄弟その後などがかいてある  中右  河津三郎祐康の力石像 重い石を抱えている像だが当時は巻き狩りなどでの打ち上げ宴会での席では武士同士の相撲の余興があり河津三郎祐泰の得意技が相手の足を殺し体毎倒すと言う技が得意技でこれが現在も相撲四十八手の河津掛けとして現存している 右 曾我兄弟仇討ち之像 河津三郎の二人の息子の五郎・十郎は父が工藤祐経に射殺された後母の実家のある小田原の曾我の地に引き取られた
 左 箱王丸(五郎)の梅・一萬丸(十郎)の桜 河津八幡神社の前にある  中・右 有名な河津櫻 5月下旬の撮影なので葉桜なのでネットより拝借したものが右 2月中旬からが見頃
お吉が淵 下田市河内  明治24年3月27日の豪雨の夜一人の女性が下田街道沿いの稲生沢川の淵に身投げした その女性の名は斎藤きち 唐人お吉と呼ばれた人です 初代総領事タウンゼント・ハリスに仕えたことが原因で悲劇的生涯を送った女性  中 お吉地蔵 先ずこの地に新渡戸稲造の足跡があるのに驚いた 当時敬虔なクリスチャンで国際連盟事務局次長の新渡戸は始めは単にお吉を物語ぐらいにしか受け止めていなかったらしい 日本が連盟を脱退した後彼は日本各地を訪問しながら昭和8年7月16日下田に来て菩提寺の過去帳や古老の話を聞いて実在の女性であると悟り日米開国の犠牲になった一人の女国策に翻弄された悲劇の人物としてお吉を供養したいと考えお吉が入水した淵に慰霊のためのお吉地蔵の建立を依頼した そしてその8月には日米和平の最後の望みを託し 我太平洋の架け橋にならん と第5回太平洋会議に出席したが現地で病に倒れカナダのビクトリアでお吉地蔵の完成を見ずして71才の生涯を閉じた 自らも時代に翻弄された体験から新渡戸は開国の歴史の中で日米の狭間で泣いたお吉の心情を己に重ねたのである  右 お吉が淵の稲生沢川  から艸の 浮名の下に 枯れはてし 君が心は 大和魂  新渡戸稲造
 
好い女 乱れて泣くか 明けがらす この意味は不明だが江戸浄瑠璃の一種の 新内の名作に「明烏」がある お吉はお座敷でよく「明烏」を謡っていたことから「明烏のお吉と評判になっていたとの事  下田の人間は死後もお吉に冷たくあたり川から引き上げられたお吉の水死体を下田の人々は白人と交じった汚らわしい女・触ると指が腐るなどと蔑み斎藤家の菩提寺も埋葬を拒否しため引き取り手もなく遺体は河川敷に3日間も放置された 哀れに思った宝福寺の住職が境内の一角に葬ってくれた   お国のために 人柱 となったお吉を村人達は、ラシャメン と呼んで蔑んだ  日米修好通商条約がなりハリスは帰国する ハリスと別れて後お吉は数奇な人生を辿る事となる 「なんでお前は私を棄てた」 晩年一人飲み屋の柱に不自由な身をもたせかけ初恋の相手(鶴松)を恨んで泣いたという  中 唐人お吉投身之跡の碑  右 お吉が淵
唐人お吉(斎藤きち)  行こか柿崎  帰ろか下田  思い惑うよ 間戸が浜 間戸が浜とは柿崎領事館(玉泉寺)と下田のちょうど中間点の地名 翌安政4年下田で一番の芸妓だったきちは17歳にしてアメリカ駐日総領事・タウンゼント=ハリスの相手(身の回りのお世話役)に抜擢される ハリス側が用意したのは支度金25両と1年の給金120両の大金 顔なじみの下田の役人たちに「国難を救うと思って身を捧げてくれ」と頼み込まれきちは泣く泣 参ります・・・ と了承しましたと言う 当時の日本人や役人はてっきりお妾の要求と思い込んでいたようだが実際はハリスは敬虔なクリスチャン(聖公会教徒)であり終身独身で日本に来て体調を崩し18kgも体に重を落している  きちは地元の住民の誤解と偏見によって犠牲になったのである 4ヵ各国語を話す彼は帰国後ニューヨーク州立大学を創立している 上の3点はきちの肖像画である 左端は墓地のあるお吉記念館に展示されていた物で他2点はネットより拝借 右端 お吉の許嫁であった鶴松の墓地 稲田寺
左 川井又五郎(鶴松)の墓地のある敷根山 稲田寺 下田市1-14-5  中左 鶴松の一生説明板 概略説明板には 納骨瓶には純誉法信士 俗名大工川井又五郎 明治9年6月6日没 とある 鶴丸の一生も余りにも哀れであった 領事ハリスの待妾として仕え終えた後旧情をを暖め同棲していたのもつかの間4年後の明治8年故あって離婚した翌年に心臓麻痺で亡くなったとの事こと   中右・右端 下田市黒船祭ポスターと 初代総領事タウンゼント・ハリス
左 国指定史蹟 日本最初の米国総領事館 瑞竜山玉泉寺  下田市柿崎31-6. 中左 安政年間 日本最初 米国総領事館の碑  中右 露艦ジアナ号水兵墓所 日露交渉の史跡  右 カーター元米国大統領サイン入り来日記念碑 1976年6月27日 カーター元米国大統領は婦人ロザリン・娘エミーさんを伴っておとずれペリー艦隊将兵墓地のお参りをした
左 米国総領事旗掲揚之碑  中  碑の和訳 下段のハリスの日記文が面白い 『1856年 9月6日木曜日 興奮と蚊のため非常に僅かしか眠れなかった 蚊は大変大きい 午前7時に水兵達が旗棹たてに上陸した 荒い仕事 はかどらぬ作業 円材が倒れ横桁が折れる 幸いに誰も怪我はない とうとう艦から加勢を受ける 旗棹が立った 水兵達がそれを廻って輪形をつくる そしてこの日の午後2時半にこの帝国におけるこれまでの最初の領事館を私は掲揚する 厳粛な反省ー変化の前兆ー疑いもなく新しい時代がはじまる 敢えて問う・・・日本の真の幸福になるだろうか?・・・』  右  総洞宗瑞龍山玉泉寺  下田市柿崎31-6  玉泉寺を救ったのは日本資本主義の父の渋沢栄一であったのは余り知られていない  陸の孤島的な下田は明治5年の鉄道開業以来国の政策は鉄道の陸上に重きが置かれたため港下田は廃れていった  立ち上がったのが現住職の祖父が渋沢栄一を頼ったが渋澤は数百に及ぶ起業した会社の育成や東京大震災のために多忙を極め復興が遅れに遅れた 震災の4年後の1927年やっと御堂の復興が始まり引き続き米国総領事旗掲揚之碑の建設し現在に続くお寺の基礎を築く工事を行なった 渋沢栄一なしには今の玉泉寺はなかった  
左 牛乳の碑  彫られている内容は以下の通り 農林大臣 河野一郎 安政五年(1858年)二月米国総領事タウンゼントハリスは政務多忙を極め病床にありました 侍女お吉は ハリスが牛乳を欲するのを知り禁を犯して下田近在から和牛の乳を集めハリスに毎日与えたということです その時ハリスが十五日間に飲んだ九合八勺の牛乳の代価が一両三分八十八文之は米三俵分に相当したといいますから当時牛乳が如何に高価で貴重なものであったかが分かります このことが日本に於ける牛乳売買の初めといわれます 爾来百余年牛乳は現在重要な国民栄養食糧として年生産一千余万石に達し酪農事業は重要な国策となりました 乳業の発達は国富の充実と共に前途益々洋々たるものがあります  
 タウンゼント ハリスは一八〇四年米国ニューヨーク州に生れ 一八五六年来日し一八六二年帰国その間初代米国総領事として日米親交の基礎を築く 一八七九年二月七五才で没した 伊豆は当社創業の地であり且つ下田に工場をもつゆかりの地でありますので下田と牛乳とを記念して  一九六二年五月一七日 森永乳業株式会社 取締役社長大野 勇建之  下田が森永乳業操業の地だったのか・・・  中 牛乳発祥の辞の碑  柿崎村名主 与平治御用日記の抜粋が彫られている 2~3記す 安政5年2月3日今夕異人御掛り様より被仰候は牛の乳少々異人所望につき下役人二人白浜村へ願遣候   同月四日昨晩白浜村へ注文致置候牛の乳五~六勺程送り来候につき玉泉寺へ差上候 云々等あり初めての牛乳という代物に慌てふためく姿が生々しい  2点とも御堂の前にある   右端 ハリス記念館 各種展示物の他に米国・露国の水兵・将兵の日本における最初の外人墓地がある
 
 ハリス記念館内の展示物の一部
左 ディアナ号(露)乗組員の墓所の案内板 ロシア使節ブチャーチン提督座乗のディアナ号は1854年12月11日安政大地震による大津波で下田湾で大破 その修理のために戸田(西伊豆)に回航の途中沈没した 日露和親条約付則第三条により玉泉寺境内にロシア人墓地が設けられた として以下に3名アスコルド号乗組員1名の死亡の事情が記載されている 中左 国指定史跡 ロシア軍艦アスコルド号乗員機関士フィリップ・ユーディンの墓地 中右 フリゲート艦ディアナ号乗組員3人の墓地 右から下士官アレクセーイ・ボショーチキン 水兵アレクシ・ソボレフ 水兵ワシリフ・バケーエフ  右 アメリカ建国200年記念植樹碑 ハナミズキ アメリカ ヴァージニア州の花 1976/5/16  アメリカ建国200年記念にバージニア州の花ハナミズキを日米友好記念植樹したとある
 
  鎮魂 米国海軍を代表してここに眠るぺりー提督指揮艦隊乗組員の霊に捧ぐ 1987年5月16日 米国海軍横須賀基地司令官 海軍大佐 S・H.ハウエル 中 ペリー艦隊乗務員将兵5人の墓碑 軍医准将 ジェームス・ハミルトン 水兵 G・W・バリッシュ 海兵隊 ロバート・ウイリアムス 海兵隊 アレキサンダー・ディユナン 火夫 ジョン・D・ストーム  右 黒船祭2022年墓前祭の墓碑
左 米国5人将兵墓地の隣にある錨  中 下田市指定史蹟 吉田松陰渡海企て跡『吉田松陰七生説の碑』と『金子重之助顕彰碑』 弁天島  伊東市柿崎27  右 鷺島神社と下田竜宮陣神 ペリ-艦隊に乗船するため踏海の企てをした吉田松陰と鈴木重輔が身を隠していた所 弁天島は今は道路で陸続きとなってる
左 弁天島踏海の地公園からの下田湾  中 吉田松陰と鈴木重輔の踏海の像 公園 から下田湾のペリー艦隊を指さす  ペリー提督の日本人評価 彼らは教養のある人物であり、標準中国語を流暢かつ端麗に書き、物腰も丁重で非常に洗練されていた この事件は知識を増すためなら国の厳格な法律を無視することも、死の危険を冒すことも辞さなかった二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして、実に興味深かった 日本人は間違いなく探究心のある国民であり、道徳的、知識能力を広げる機会を歓迎するだろう (中略)この日本人の性向を見れば、この興味深い国の前途はなんと可能性を秘めていることか、そして付言すれば、なんと有望であることか!』 ふたりのことは気にしていたようで、幕府には今回のことはほんの些細なことなので大げさに考えないで欲しい(罪を軽くして欲しい)旨を伝えています 希望には応えられなかったものの、本書では若いふたりの勇気ある行動に対してこう賞賛しています(ネットより) 右 ハリスの小道 玉泉寺からの海沿い道の数百メートルにある
 左 八幡山宝福寺・唐人お吉の墓地と記念館  下田市1-26  中 お吉の墓の由来説明板 ハリスの身の回りの世話役としてのお吉だが当時の下田の人々はラシャメンとして村八分にし誰も手を付けず死後も放置されてままだったのをこの寺の住職竹岡大乗師が手厚く葬った 右 山内容堂・勝海舟謁見の寺と坂本龍馬飛翔の地の碑 1863年(文久3年)1月15日、勝海舟坂本龍馬らと共に順動丸で神戸から江戸に向かった 途中波が強く先に進むのが難しかった為、近くであった下田に入港し角谷に投宿していた 時を同じくして土佐藩主の山内容堂が大鵬丸に乗って江戸より京都への上洛途上、下田に立ち寄り宝福寺に投宿していた 幕府軍艦奉行勝海舟入港の知らせに山内容堂は勝海舟らを酒席に招いた 海舟はその席で龍馬の脱藩の罪を解きその身を自分に預けてほしいと容堂に懇願しました 容堂は海舟が酒を飲めないのを承知でこれを飲んだら坂本龍馬の脱藩の罪を許すと言うと勝海舟はこれを飲み干し脱藩の罪を許されたとされてる 土佐藩主にとって龍馬ら郷士の処遇など些末なことでしたが、勝にとってはかけがえのない門弟でした 勝は酔った上での話とされないようさらに証拠となるものを求めたところ容堂公は墨と筆を取り寄せ、扇子に「歳酔三百六十回」と書き「鯨海酔侯」」と署名した と言う(ネットより)
 
左 お馴染みのスタイルの坂本龍馬像  中 お吉の墓  右 不浄のお吉として最初の墓石は御覧のように貧弱な物でした お吉は身寄りもなく宝福寺の第15代竹岡大乗住職が慈愛の心で 法名「釈貞観尼(しゃくじょうかんに)」を贈り当時境内に手厚く葬りその後芸能人により新しく墓石も寄進され現在に至る
  
水谷八重子寄進のお吉の墓碑 実在の人物お吉の戯曲の新派の初演は昭和6年帝国劇場で水谷八重子が主演した その後お吉役を何度も演じた水谷はその墓参りに来て余りにみすぼらしいお吉の墓を哀れみ新しい墓石を寄進した  墓石の土台には水谷八重子の彫りが見える 
左 お吉墓碑全景  中 国交の 始めや鳩の 番いか 片水   神様が 物いうときに 成りぬれば 勲一等は 君に授かる 片水  墓碑の近くの句碑と歌碑
 記念会内部の展示物の一部 左から 水谷八重子・等身大のお吉造・新渡戸稲造の歌・お吉写真
 上 日米和親条約付属下田条約締結の地  国指定史跡 法順山了仙寺 下田市七軒町3-12-12 1854年3月31日アメリカ全権ペリーと日本幕府全権・林大学頭によって日米和親条約が結ばれ下田は鎖国以来日本で最初の開港場となりました 下田に入港したペリーは日本側と条約の細かい規定(日米下田条約)を定めました その話し合いの場所となったのが了仙寺です  中右 日米締交法燈下 右 和親友好萬丗?
左端 お吉塚 了仙寺境内 何故お吉塚があるのかは不明                上3点 ペリーロード 下田市三丁目 静岡県都市景観賞最優秀賞  
 

左 ペリーロード 来航したペリー提督一行が了仙寺での日米和親条約付録下田条約締結のために通った道  右 下田湾のペリー提督上陸の地碑 下田市3-6  ペリー艦隊来航記念碑

左 ペリーロード  中 記念碑から見る下田湾 1854年の日米和親条約で函館港とともに日本最初の開港場  貿易港としての役割は江戸から遠く天城山を越えなければならない地理的条件からまもなく横浜港に移った  しかし江戸末期からの史跡や観光スポットも多くキンメダイの水揚げ日本一でも知られる漁業基地となっている 右 日米友好の灯 赤い炎がモニュメントの中で揺れている 点火してから消えることなく灯り続けている モニュメントの下部には建設の由来が、天板にはジョージ・ブッシュ大統領の「日米交流150周年に寄せるメッセージ」が記されている 「日米友好の灯 この灯は平成15年7月日米交流の発端となるペリー来航150周年の節目を祝う第20回ニューポート黒船祭のおり「NEW わかふじ国体」の炬火リレーに使用するため採火されたもの ニューポート黒船祭の祝砲の火種をはるばるアメリカロードアイランド州ニューポート市から空輸し、「日米友好の灯」と名付けられました 炬火リレーとして利用後平成16年3月31日、下田開港150周年の際にこのモニュメントに点火され日米友好のシンボルとして灯り続けている(英文略)」 「日米友好の灯宣言 下田市は日米友好の灯を灯し、日本、アメリカ合衆国両民の永久の友好と親善を願い両国民の交流に貢献することを宣言します。(英文略)」

 
左 下田名物金目鯛定食(食堂きんめ屋) ここは金目鯛漁獲量日本一  下田公園(城山公園) 下田市3-3-1174   カーター元米国大統領来日記念碑 当時のアメリカ合衆国カーター大統領が来日した記念碑もあります。東京サミットで来日中のカーター大統領が下田を訪れオープンカーで市内パレードが行われました 右 下田公園開国記念碑 米国との開国を記念する碑 ペリーとハリスの言葉とレリーフが刻まれています 下田開港100年を記念して建立されました
左 ハリスのレリーフ 「私の使命はあらゆる点て友好的なものであった ハリス 西暦1951年12月7日 ウイリアム・ジェー・シーボルト これを撰す」と英文、和文で記されていた  右 ペルリのレリーフ 「余は平和の使節として此の地に来れり ペルリ 西暦1950年8月14日 元帥ダクラス・マックァサー これを撰す」と英文、和文で記されていた  他に開国記念碑 内閣総理大臣 吉田茂書 のレリーフもあった
左 日米修好の基礎は下田によって築かれた と彫られている   中・左 開国記念碑  『開国記念碑』の下に『2012下田トモダチ宣言』碑が日本語と米語で並んでいた。「今から150年以上前、ここ下田の地にて日本とアメリカ合衆国の交流が始まりました それ以降、私たちはともに友情を深めてきました 2011年3月11日、東日本大震災が起こり 日本中が悲しみと嘆きの中にいたそのとき、「トモダチ作戦」でいち早く手を差し伸べてくれたのは アメリカ合衆国のみなさんでした 私たちはその気持ちと行動を決して忘れません 「本当にありがとうございました」今、日本は、復興への道を力強く歩み始めました 両国の「絆」をさらに強め光り輝く末来に向かい永遠の「トモダチ」であることを宣言します 2012年5月19日 第73回下田黒船祭」 とある 総て下田公園内にある
 
左 下田市指定史跡 大浦山長楽寺  下田市3-13-19  日露和親条約締結地 長楽寺は幕末の外交の舞台で安政元年(1854)には権筒井政憲(旗本:目付、長崎奉行、南町奉行、大目付を歴任)・川路聖謨(旗本:佐渡奉行、普請奉行、公事方勘定奉行を歴任)とプチャーチン(ロシア使節海軍中将)との間で日露和親条約(日露通好条約)が締結され、さらに安政2年(1855)には掛井戸対馬守等と米国使節アダムス中佐との間に日米和親条約批准書の交換が行われている  右 下田公園からの下田の湊町 
 
 史跡安直楼 下田市三丁目5-21 お吉が1882年小料理屋を営んだ建物 1857年許嫁鶴松との仲を裂かれお上から無理矢理米国領事館に出仕させられたお吉は僅か3日間のお手伝いにもかかわらず当時の誤解と偏見から街の人達から村八分の如く唐人お吉と蔑まれた いたたまれず酒に浸るようになりやがて一時街から姿を消した その後下田に舞い戻り居酒屋安直楼を開いた 然し自らも酒に溺れるようになり数年後店をたたんだ  お吉没後三代108年にわたり寿司店として営業されてたが平成11年10月1に閉店したそうだ
左 民宿発祥の地碑 下田市須崎1638-2 昭和36年伊豆急行が下田まで開通しそれにあわせて須崎では民宿を立ち上げた 伊豆の民宿はここから始った 中 港の前の橋でつながってる弁天島  右 弁天島からの海岸と若山牧水の歌碑 大正2年秋牧水は旧友がいた神子元島灯台を訪れ七日余りを過ごした 一木一草もない荒涼たる島で牧水の持参したダリヤが喜ばれたことが詠まれている 神子元島を望む恵比寿島に昭和55年賀茂短歌会が建立した 
左 若山牧水歌碑  友が守る 灯台はあはれ わだなかの 蟹めく岩に 白く立ち居り  右2点 エリカの花咲く岬の3碑  エリカの花と言えば昭和38年2月(1963)発売の西田佐知子の エリカの花の散るとき を思いだす 大学2年の頃のヒット曲だがもう60年も前になる 曲の一番には 青い海を見つめて伊豆の山かげに とか 2番には 山を幾つ越えても とか伊豆半島の特徴が載ってるのでこの辺りに咲いていたのでしょうが最近は余り見ないという
 
 左 エリカの花 見たことがないのでネットより  中 R414号ループ橋 この道は河津町から伊豆市・伊豆の国市へ抜ける国道 伊豆半島は想像以上に険しい半島 平地は全くなく山脈のど真ん中を通さねばならない トンネルも開削できない峻厳な地の証左だ 勿論伊豆の踊子の旧道は山と谷を縫うようにあるので車で通れるのは観光用一部のみ  詳しく訪ねたい方は徒歩しかない  右 踊子の道案内板 
 
 左 踊子歩道案内木柱        中 天城街道(旧下田街道) 左折が踊子歩道      右 日本の道100選の碑 雨量が多く森林で日照がないため苔生している
 
伊豆山中より流れ出る河津川に沿って続く旧踊子街道には河津七滝と呼ばれる瀧がある そこを歩けば伊豆の踊子を満喫出来るのだが残念ながら時間の余裕がないのでこの3点はネットより拝借  伊豆と言えば伊豆の踊子 踊子と学生の像が楽しみです   河津駅前 全く気付かなかった    カニ瀧の近くに立像がある  右 初景瀧の前にある  総て賀茂郡河津町内にある
左 登録有形文化財天城隧道 天城トンネル河津町口      中 河津町→伊豆市隧道 入り口     右 重要文化財 天城山隧道    
 
 左 河津町→伊豆市出口  左3点 重要文化財天城山隧道伊豆市口 天城峠伊豆の踊子を題材にした昭和32年発売の三浦洸一の 踊子 の ヒットで有名になる
 
「道がつづら折りになっていていよいよ天城峠に近づいたと思う頃雨脚が杉の密林を白く染めながらすさまじいい早さで麓から私を追ってきた」 名作伊豆の踊子の一節である
 
旧下田街道(踊子歩道)は現国道414号に対して途切れ途切れとなっている 
 直射日光を嫌い涼しい日陰と有機物や土などが混ざらない水温13~15℃の水が絶えず流れる必要があるワサビ造りには伊豆の峻厳な半島は誠に恰好の地でした 天城山麓の年平均気温が14℃ 天城山麓の年降水量は4000ミリが天城山の伏流水となって湧き出てくるのです 上は天城峠を越えて里に近いR414号線沿いにあるワサビ畑  伊豆市湯ヶ島 伊豆半島は日本一のワサビの産地である
左端  浄蓮の滝  懐徳碑  静岡県伊豆市湯ヶ島 892-14   この懐徳碑は明治39年(1906)現在の伊豆市湯ヶ島の旅館業安藤藤右衛門が私財を投じて浄蓮の滝までの遊歩道と休息所造り地元の観光に大いに貢献したことを讃える文言が彫られている 中2点 安藤藤右衛門が私財を投じて開削した階段  右 浄蓮の滝の前にある句碑  谺(こだま)して 定まる浄蓮 滝の丈 山仲英子
昭和61年第28回レコード大賞金賞 浄蓮の滝と石川さゆりの天城越えの歌碑   玄武岩の 崖に高さ25m 幅7mの滝  滝壺の下流には天城国債鱒釣り場天城名物わさび田がある 右端 ネットより拝借
左 狩野川水系本谷川の浄蓮の滝 勿論日本の滝100選 滝壺深さ15m  冷気とマイナスイオンの谷底             右 滝壺の下流50mにある わさび田
 道の駅 天城越えと その一角にあるお馴染みの 伊豆の踊子像  美空ひばり・吉永小百合・山口百恵の蒼々たる女優が演じた踊子と青年像 ・・・踊り子は十七位に見えた。わたしにはわからない古風の不思議な形に大きく髪を結っていた。それが卵形のりりしい顔を非常に小さく見せながらも、美しく調和していた。髪をゆたかに誇張してえがいた、稗史的な娘の絵姿のような感じだった。・・・伊豆の踊子の一節

源頼家の墓 伊豆市修善寺935 公暁は頼家の次男(三男とも)  正治元年(1199)頼朝の後二代将軍となった頼家は頼朝没後北条氏を押さえながらも大きく揺れ動く時流と醜い駆け引きに終始する政争に敗れ在位僅か8年でここ修繕寺に流され元久元年(1204)祖父北条時政の手で入浴中に暗殺された(享年23才)  右端 指月殿 伊豆市修善寺 暗殺された頼家の冥福を祈って母北条政子が修善寺に寄進した 伊豆市最古の木造建築物と言われる 

左 指月殿  建仁3年(1203)、鎌倉幕府第2代将軍源頼家(源頼朝の嫡男、頼朝と同様に鎌倉殿と称される)は、弟の実朝を担ぐ北条氏により修禅寺に幽閉され元久元年7月18日(1204年8月14日)、筥湯に入浴中に母である北条政子の差し向けた刺客に殺害されたと伝える 扁額の文字は元の僧侶一山一寧による 右 十三士の墓 吾妻鏡によると頼家暗殺の6日後頼家の家臣は謀反を企てたが事前に発覚し相州金窪太郎行親等により殺されたとある その家臣13人の墓という 頼家の墓の近く
 修善寺 伊豆市修善寺964 弘法大師空海が大同2年(807年)に開基したと伝わる古刹 源頼家が幽閉され非業の死を遂げ、岡本綺堂の戯曲「修善寺物語」で有名になった頼家ゆかりの古面や、北条政子が寄進した放光般若波羅密教などが宝物館に納められている 正式名称は福地山修禅萬安禅寺 鎌倉時代に北条氏が帰依したことから寺運が隆盛となり、堂塔が連なる大寺となりました 一方、建久5年(1194)源範頼は兄将軍頼朝の猜疑を受けここに幽居、梶原景時に攻められて自刃したと伝わる また、頼朝の長子で2代将軍頼家は、母政子と祖父北条時政の謀略により幽閉され元久元年(1204)入浴中に暗殺されるなど源氏一族の骨肉相はむ悲劇の舞台となり源氏滅亡の場として歴史にその名を残す  この里に 悲しきものの 二つあり 範頼の墓と 頼家の墓と 正岡子規  範頼の 墓濡るゝらん 秋の雨 夏目漱石
 左 独鈷の湯公園の碑 伊豆市修善寺 独鈷とは密教で使用する法具で両端が尖った短い棒状の物   中 修善寺川(桂川)の川の中にある独鈷の湯 修善寺温泉発祥の地  その昔桂川で病気の父親の背中を流していた少年を不憫に思い弘法大師が持っていた法具で川の岩を穿つと温泉が噴出した伝説による 公園は堤防の左側にある  右 公園内の独鈷をモチーフにした塑像と独鈷の湯
 左 独鈷の湯 お湯は涌いてるが見学用で入浴は出来ない          右2点 竹林の小径 伊豆市修善寺1031-1  桂川沿いに平成6年以降にできたもの
左2点 安達藤九郎盛長の墓 伊豆市修善寺 修善寺梅林の登り口 鎌倉幕府の御家人で将軍頼家が二代目の鎌倉殿.となったときは有力御家人で組織された『13人の合議制』の一員 源頼朝伊豆配流中の20年間仕えた側近中の側近 右端 弘法大師ゆかりの修善寺温泉で88ヶ所の石碑巡拝の行脚の行事があり81番目の本尊らしい 源範頼の墓地を探しているときに見付けたもの  玉のゆか 苔の窟も 変らじな うつろいやすき 世とぞ悟れば 身内肉親相争う源氏の無常を詠んだもか? 安達や範頼の墓も分かり難いところに在り見付けるのに苦労した 
 左 蒲冠者源範頼公墓道の碑  右2点 源範頼の墓 伊豆市修善寺1082 源範頼は源頼朝の異母弟で義経の異母兄 源氏の総帥として平家討伐で大きな武功を立てましたが建久4年(1193年)、曾我兄弟之討ち入りの際に源頼朝討ち死にの誤報が伝えられ悲しむ北条政子に「範頼ある限りご安心を」と慰めたため幕府横領の疑いを招き範頼は百方陳弁に務めたがついに修禅寺八塔司(はったす)の一つ信功院に幽閉されました その後梶原景時の不意打ちに会い防戦の末自刃したといわれています  遠江国蒲御厨で生まれた 源義朝の六男 頼朝の異母弟 義経の異母兄
上4点  鎌倉五代将軍北条時頼菩提寺 東光山最明寺  伊豆の国市長岡1150 北条時頼は20~30代の若さで北条氏の中でも嫡流の地位を高め天皇家の院政に似た北条家による得宗政治基礎を作った 弘長3年(1263)最明寺北亭の阿弥陀如来像前で座禅を組みながら37才の生涯を終えた 幕府の運営に尽力し質素倹約を旨とし御家人や民衆の保護に務め鎌倉幕府中興の租の仁政と言われてる 後世に時頼は最明寺入道として諸国を行脚し民情を視察し庶民への善政を深めた それが時頼の廻国伝説が生まれ上野国の謡曲鉢木物語や津軽の唐糸御前伝説となって今に伝える
 八重媛入水の地 古川真珠が淵 伊豆の国市中條268  平家方の伊東祐親の四女八重は祐親が都に出向いている数年の間に恋仲になり一子千鶴丸をもうけた頼朝の最初の妻  当然父祐親の逆鱗に触れ千鶴丸は殺された それでも頼朝を慕う八重姫は侍女と共に伊東温泉からここ伊豆の国市の北条時政館まで来るもすでに頼朝は時政の娘政子結婚していた 前途悲観した八重姫は旧狩野川の真珠が淵に入水した地  この川の右側の山の麓に八重媛を弔う真珠院がある
左 伊東祐親の娘 八重姫を祀る真珠院          伊豆の国市中條145-13      右2点 八重姫御堂 
 
 御堂の土台の前には上のような小さな梯子が里人によって納められている  恋した源頼朝の心変わりに裏切られ入水した八重姫を気の毒に思いせめて梯子があれば助かったにとの思いから小さな梯子が納められている  右端 八重姫主従七人の女性供養の碑 八重姫と共に命を絶った6侍女の碑
 左湍 北条時政菩提寺 国指定史跡蹟 天守君山願成就院碑 伊豆の国市寺家83-1   中左 源頼朝自身が建立した天守君山願成就院の碑  右端  時政が ふるさとに残す 露の墓  水原秋桜子句碑
国指定史跡 天守君山願成就院 伊豆の国市寺家83-1      北条時政公墓地
 願成就院本堂 願成就院は高野山真言宗の寺  創建は鎌倉時代初頭の文治5年(1189)に遡る この地で源氏再興の旗揚げし鎌倉幕府を開いた源頼朝公の奥州藤原氏征討の戦勝を祈願して幕府初代執権で北條政子の父、北條時政公が建立し「願成就院」と称したことに始まる 「吾妻鏡」によると、時政公が建立した大御堂と南塔、二代執権北條義時公が亡父時政公供養として建立した南新御堂、三代執権北條泰時公による北條御堂と北塔の建立、堂塔伽藍の営作は北條氏三代にわたる そして1222年(貞応元年)には、「定額寺」(官寺)とする宣旨が朝廷よりくだされた 大御堂本堂には国宝の 運慶作の仏像5躯 附 五輪塔形木札4枚がある  右端 伊豆の国市では到るとこから富士山が見える
左端 史跡北条氏邸跡(円成寺)の碑 伊豆の国市寺家13  ここは当時伊豆北条と呼ばれた地であり北条氏が鎌倉に本拠地を移すまでの館跡である 北条氏滅亡後は北条氏一族の妻や娘達は鎌倉から伊豆韮山戻り その内の円成尼が中心となってこの館の跡に寺院を建て北条氏の冥福を祈ったのが円成寺である 今は更地のみで左2点の説明板があるだけだ
 尼将軍北条政子産湯之井戸の跡 伊豆の国市寺家23-1 北条時政の長女政子が生まれたとき産湯を取った井戸と伝える 現在は一般住宅の地である
 

晴雲山成福寺 伊豆の国市四日町981 北条正宗入道によって1289年(正応2年)に建立された  北条正宗は鎌倉幕府八代執権北条時宗の三男(幼名 満市丸)とされている 正宗は北条氏一族と元寇の役で亡くなった人々の菩提を弔うため曾祖父・北条時政の持仏堂を基にこの地に一宇を開創し正宗の長子宗仁がこれを修造して成福寺としました。

中 左から北条時宗(法光寺殿杲公大禅定門) 覚山尼 (潮音院殿覚山志道尼) 北条正宗(成福寺殿釋正宗)の墓碑 鎌倉幕府8代将軍北条時宗とその正室覚山尼とその三男正宗が 鎌倉から戻る際に両親の遺骨を分骨して築山に墓を造り成福寺再興して弔った 右端 北条正宗建立の北条一族慰霊の供養碑 中央には富士山が見える

 左 北条一族の供養塔のある築山 5月下旬でツツジが満開でした     成福寺から北条寺への途中の富士山    右 巨徳山北条寺説明板 北条義時創建
 
 左2点 巨徳山北条寺 伊豆の国市南江間862-1  北條寺は鎌倉幕府第二代執権・北条義時が大蛇に襲われ幼くして亡くなった嫡子・安千代(安千代丸)の菩提を弔うために創建したと伝る 阿弥陀如来は運慶作    右  北條義時夫妻の墓(右 義時 左 後妻となる藤原秀郷の末裔で伊賀守となった伊賀朝光の娘伊賀の方か?) 境内の高台(小四郎山)にある  NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人の主役 ドラマでは伊東祐親の娘八重 比企朝宗の孫比奈(姫の前) 伊賀の方のえ の3人と結婚している
 北条義時夫妻の墓だが義時の妻については左の説明板には佐伯氏の娘と記載されてるが墓石には  佐伯伊賀守?(読み取り困難不明)藤原(伊賀)朝光娘と彫られ佐伯氏と伊賀市がごちゃごちゃになってるようだ 伊賀朝光は藤原流なので藤原朝光と彫られたのか? 義時は承久の変から三年後の六月十三日に急死 六十二才の生涯を閉じた 毒殺説もある
左 江間公園 江間小四郞屋敷跡(北条義時)  伊豆の国市南江間768-4 北条義時は青年時代江間の村に住んでいたので江間小四郎と言った 現江間尋常小学校跡  右2点 江間小四郞屋敷跡と江間小学校跡の碑の碑 公園の隅角にある
 
左 遺蹟 蛭が小島の碑 蛭が小島公園 豆の国市四日市街12  永禄元年(1160) 源頼朝公配流の地と彫られている 蛭ヶ小島は静岡県伊豆の国市の地名 源頼朝の流刑地として知られる しかし、歴史的には「伊豆国に配流」とだけ記録されるのみで「蛭ヶ島」というのは後世の記述であり真偽のほどは不明 発掘調査では弥生・古墳時代の遺構・遺物のみで平安時代末期の遺構は確認されていない 『吾妻鏡』では頼朝の流刑地について「蛭島」とのみ記し当地が比定地であるかは不明 中 古碑 蛭島碑紀 現在、「蛭ヶ島公園」として整備されている場所は江戸時代に学者の秋山富南が「頼朝が配流となった蛭ヶ島はこの付近にあった」と推定しこれを記念する碑が1790年に建てられたもの これが「蛭島碑記」で伊豆の国市指定有形文化財となっている 右 頼朝と政子の縁結び 梛(なぎ)の葉の碑 梛はマキ科の常緑高木 針葉樹でありながら広葉樹のような幅の広い葉をもつ その葉には縦に細い平行脈が多数あって主脈がない その独特の構造のため梛の葉は横には簡単に裂くことができるが縦にはなかなかちぎることができない 葉の丈夫さにあやかって男女の縁が切れないようにと女性が葉を鏡の裏に入れる習俗がありました また梛の葉は裏も表も同じようなので裏表のない夫婦生活が送れるとの事
 
左 蛭が小島からの富士山                   右 蛭が小島公園に立つ頼朝と政子
道すがら 富士の煙も 分ざりき 晴るる間もなき 空の景色に 新古今和歌集 源 頼朝
 
 公園内にあるたった一軒の鄙びた茶屋     メニューはシンプルな山菜蕎麦と心太のみ 五月下旬で暑かったので冷やし山菜蕎麦
 
左 蛭が小島の夫婦の像           中 詩吟の一節か?         右 源氏節 民謡か?  共に茶屋の壁に貼られていた
左2点 国指定史跡 世界遺産登録韮山反射炉 明治日本の産業革命遺産  伊豆の国市中260-1  江戸時代末期、欧米諸国の植民地化や開国要請に対抗して日本(江戸)を守るため時の韮山代官・江川太郎左衛門英龍が幕府に進言して築いた大砲鋳造炉という名称は熱をアーチ型の天井に反射させて鉄の溶解温度(千数百度)を得る構造から名付けられました 大砲鋳造のために建設された反射炉は国内で十数基ありましたが現存するのは3基(萩反射炉・薩摩旧集成館反射炉跡・韮山反射炉)でその中でも韮山反射炉は最もほぼ完全な形で現存し実際に稼働したことが確認されている点で大変貴重です 中右 反射炉を作った韮山代官・江川太郎左衛門英龍像(ネットより拝借) 右 記念館展示物
 
上  左の口は石炭投入口 右の口は鋳物鉄投入口  ここの遺蹟で初めて反射炉の理解できた 天井が曲線になっていてそこで反射した熱が天井や側面から鋳物鉄にレンズのように反射してより高温になる事から反射炉という 煙突が高いと酸素(空気)が自動的に大量に供給出来るとのこと 古来からあるたたら製鉄と違い燃料と鋳物鉄を直接熱っしないので不純物が少なくなるとの事
 
左 24ポンドカノン砲 元治元年(1864)に幕府直営反射炉として役割を終えるまで 最も多く鋳造された鋳鉄製24ポンドカノン砲(復元) 江戸湾防備のため東京お台場にも運ばれた 右 重要文化財江川家住宅 国指定史跡韮山役所跡正面の黒屏 韮山代官・江川太郎左衛門英龍宅 伊豆の国市韮山韮山1 世界遺産「韮山反射炉」を造った36代江川英龍の生家  英龍は反射炉以外にもパンの製造、韮山塾の開設、お台場の構築、種痘の接種などに尽力し世直し江川大明神と崇められた代官である また絵画や書にも優れた才能を発揮し「坦庵」の雅号を持つ 江川家の主屋は江戸時代の初期の約400年前に建てられ元々は茅葺き屋根であったが約60年前に銅板葺の屋根に葺き替えられ住宅内部を主に見学出来るようになっている 江川邸の主である江川家は中世から現在まで約900年も続く歴史のある家柄で徳川幕府より直轄地である伊豆・駿河・相模の統治を任され江戸時代のほぼ全期間を通じて徳川幕府の代官を世襲して務めた 敷地面積11,000㎡にも及ぶ広大な邸内には梅林や竹林、池を備えた中庭もあり江戸時代の代官屋敷としての格式の高さを象徴する造りとなっている
 
左 国指定史跡「韮山役所跡」の中にあり国指定重要文化財である「江川邸」正面口 韮山県(伊豆全体、八王子・大宮周辺)を統制していた江川家の武家屋敷主屋は1600年頃建てられ単層入母屋造りの壮大な建物で「小屋組づくり」と呼ばれる幾何学的な屋根裏の木組みは今日でいう免震構造になっています  左2点 パン租の碑 パン租江川坦庵先生邸  毎月12日はパンの日 パンの日は「日本のパン祖」と呼ばれている江川太郎左衛門英龍(坦庵)がパンを初めて試作した日1842年(天保13年)月12日)にちなんでパン食普及協会が制定した 1952(昭和27)年に全国パン協議会と静岡県パン協同組合が江川坦庵に「パン祖」の称号を贈りこの「パン祖の碑」を建立して功績を称えた 碑には「パン祖江川坦庵先生邸」と刻まれその説明書きとして,「江川坦庵先生は維新期の先覚者なり 材は文武を兼ね,識は東西に通じ,百藝皆該(ひゃくげいみなか)ぬ 乃(すなは)ち製麺麭(せいぱん)の術も亦(また),本邦の開祖なり 昭和後学蘇峰正敬識」と刻まれてる 江川坦庵先生は日本の製パン技術の開祖だと記されたもので書は蘇峰正敬つまり徳富蘇峰によるもの
 左 江川邸のシンボル生き柱 「生き柱」は直径およそ60㎝の丸柱 欅材の掘立柱で火伏の神として祀られています 根が付いたままの樹木がそのまま柱とされていると信じられ「生き柱」と言われてる 実際文化14年(1817)に当時の江川家当主が4尺(120㎝)根元を掘っても柱根が現れず根が張ったままなのは間違いないとされた 江川家の伝承では平安?鎌倉?の古い時代に奈良より韮山に移り住み最初の建物の柱の一つがこの「生き柱」とされ以来改築はされても火災に一度も遭わず続いた  中 西蔵(駒蔵) 幕末頃の建築正面から見て将棋の駒の形をしてるので駒蔵と呼ばれる さらに四方の壁が内側に向って僅かに傾く四方ころびと言われる技法で建てられた 正面の軒の屋根は瓦でなく伊豆石で葺かれてる 右 江川氏略系図 清和天皇流れの源満仲(912~997)を租としその次男からの系図が載っている 如何に長くしっかりした家系であるかが分ります
 重要文化財三嶋大社 三島市大宮町2-1 古くから伊豆の国一番の神社として栄え家門繁栄や商売繁盛厄除けのご利益があるとされる  源頼朝に愛され源氏の再興を祈願したことでも有名  境内には美しい神池や厳島神社富士の伏流水「生玉水」神鹿園国の天然記念物指定の現在最古の金木犀などがある
左 源頼朝旗揚げの碑  『治承四年八月十六日 源頼朝北条時政を招き 旗揚げの相談をし「先づ八牧判官兼隆を 夜討ちにすへし急ぎ相計へ」  時政「但し今夜は三島社の御神事にて 国中には弓矢とる事候はず」(源平盛衰記) との意見を入れ十七日夜討と決定した  十七日籐九郎盛長を奉幣使として戦捷を 祈請し(東鑑)旗揚げは成功したのである  二日後、すなわち八月十六日報賽のため 神領寄進の下文を寄せた  現在この下文は宝物として社蔵されている  三嶋大社宮司原勝治撰  同権宮司渡邊清次郎書』 と石碑にほられている  中 源頼朝・北条政子の腰掛石 源頼朝は三嶋大社の参拝の際、境内にある椅子に似た形の石に腰掛けて休んだと伝えられることから頼朝の腰掛け石といわれるようになった 治承4年5月に源頼朝が平家追討の心願をこめて百日の日参をした時に 腰をかけて休憩したと伝えられている石  右 若山牧水歌 のずゑなる 三島のまちの あげ花火 月夜のそらに 散りて消ゆなり
 
左  国指定天然記念物 三島神社の金木犀 樹齢1200年と推定され毎年9月上旬と下旬の2度満開を迎える   右2点 芭蕉句碑 どむみりと 棟(おうち)の雨や 花曇り   棟=栴檀