加 賀 白 山
日本の北陸地方白山国立公園内の石川県白山市と福井県勝山市・大野市・岐阜県大野郡白川村にまたがる標高2702mの活火山  富士山・立山とともに日本三大霊山の一つ 日本百名山 新日本百名山 花の百名山 白山を霊峰とする白山信仰は古くからあり中世には白山は白山修行霊山として栄え登山口には修験の道場が開かれ白山信仰の全国的広がりのもととなる 日本各地に2700社の白山神社があり白山比咩神社がその総本山 石川県の由来は加賀地方にあった石川郡に由来し石川郡は古代石川県最大の河川の石川に由来する 現在その石川は手取川と呼ばれている

 年つもる 越の白山 知らずとも 頭の雪を あはれとは見よ  
           金槐和歌集 源実朝
白山や 猶ゆきふかき 越路には 帰る雁にや 春を知るらむ          千五百番歌合 藤原俊成
よそにのみ 恋ひやわたらむ 白山の 雪みるべくも あらぬ我身は      古今和歌集 凡河内躬恒
思ひやる 越の白山 知らねども ひとよも夢に 越えぬ3夜ぞなき          古今和歌集 紀貫之
名に高き 越の白山 ゆきなれて 伊吹の岳を 何とこそ見ね              紫式部集 紫式部
しら山に 雪ふりぬれば あとたえて 今は越路に 人もかよわず             後撰和歌集 読み人知らず
年ふれば 越の白山 おいにけり  おほくの冬の 雪つもりつつ              拾遺和歌集 壬生忠見
かきくらす 都の雪も 日かずへぬ 今朝いかならむ 越の白山                    藤原定家
 
 
 白山 とても行けないのでウイキペディアより拝借  

上 金沢の河北潟を干拓した男 豪商銭屋五兵衛の像 金沢市金石北2-10-8 豪商銭屋五兵衛は安永2年(1773)加賀国宮腰(現在金沢市金石町)に生まれる  六代前の吉右衛門から両替商を営み屋号を銭屋と称した 祖父から五兵衛を名乗り金融業、醤油醸造業を営んでいた 17歳で家督を継いだ五兵衛は新たに呉服、古着商、木材商、海産物、米穀の問屋なども営むが北前船を使って海運業に本格的に乗り出すのは50歳代後半からでその後約20年間に江戸時代を代表する大海運業者となる。加賀藩の金融経済の大切な仕事に尽くし、たびたび御用金の調達もいたしまし江戸時代の代表的豪商となる。陸の加賀百万石に対して海の百万石と言われ天下一の巨万の富を築いた 所が晩年は河北潟干拓事業に着手するが沖に死魚の中毒事故や贈賄・密貿易等のいわれのない風評にかこつけた反対派の中傷により全財産没収・お家は断絶し無実の罪で嘉永5年(1852)11月21日獄中で80歳の生涯を終えた 然し彼の河北干拓地は昭和38年国家事業となり緑豊かな現在穀倉地帯となっている

銭屋五兵衛記念館 金沢市金石本町ロ55  左端 銭屋五兵衛句碑 這ひのぼる 齢たのしや 古稀清水 亀巣  書画・俳諧・茶道を楽しむんだ五兵衛の雅号は漢詩人広瀬旭荘が名付けた  右端 北前船の大錨 能登の海・日本海で活躍した銭屋の北前船  能登の海に 釣りする海士の 漁り火の 光にい住く 月待ちかてり 万葉集 巻12-3168  能登の海 のどかに霞む 春の日は 沖に出でそふ あまのつり舟 夫木和歌集
重要文化財 旧第4高等学校校舎 金沢市広坂2-2-5 明治24年7月竣工  左端 四高学生像 昭和33年建立 明治・大正・昭和3代の四高生を現わす像  中 代表寮歌「北の都」(大正4年制作)の記念歌碑 背面の由来文に「われらが青春ここにとどまり 宝石のごとく輝く」とある 北の都に秋たけて 吾等二十の夢数ふ 男女の棲む国に 二八に帰る術もなし/その術なきを謎ならで 盃捨てて歎かんや 酔える心の吾若し 吾永久に緑なる/その術なきを謎ならで 盃投げて呪わんや 歌ふ心の吾若し 吾永久に緑なる / 髪は緑の青年が 友情の園に耕ひし いや生き繁れる友垣や 三年の春をめぐる哉 と彫られている 右端 四高正面 現在は石川四高記念館と石川近代文学館となっている
上 国指定特別名勝 文化財指定公園 兼六園  金沢市兼六町1 金沢城の外庭として作られた前田家ゆかりの兼六園 岡山県の後楽園・茨城県の偕楽園と共に日本3大公園の一つで3万坪の大庭園 左端 真弓坂 中 芭蕉句碑 公園内山崎山入り口  あかあかと 日はつれなくも 秋の風  奥の細道には 『・・・卯の花山 くりからが谷をこえて金沢は七月の五日なり 爰に大阪よりかよふ商人何処にと云う者有 それが旅宿をともにす・・・』 とある 右端 兼六園正面入り口
上 兼六公園内 
左端 兼六公園入り口から金沢城石川櫓を望む 金沢市丸の内1-1 下通る県道10号により城と公園が橋でつながっている   中 石川門 城の搦手門に当たる門  右端 石川櫓 石川門は一般的な枡形構造の城門と同様に一の門(高麗門)二の門(櫓門)続櫓と2層2階建ての石川櫓で構成された枡形門となっている
左端 河北門 中 橋詰門と橋詰櫓 右端 石垣の博物館としての金沢城  いろんな時代の石垣が見れることで有名 この石川門では枡形虎口を形成する壁面の石垣が左右で異なっている
上 金沢城石垣積みの展示   左端 自然石積              左中 粗加工石積                 右中 切石積 
 上 五十軒長屋の表と裏   端の菱櫓から続くこの長屋は一般的に多門櫓と呼ばれ武器や什器等の倉庫     手前は橋詰門と続櫓
 左端 祭神前田利家公と妻お松の方を祀る 尾山神社 神門  金沢市尾山町11-1 明治6年 高さ25で4階にはギヤマンがはめ込まれた和漢洋折中造り 中左 母衣(ほろ)を担いだ利家像 母衣の始めは流れ矢を防ぐため鎧の背に掛けたていた布だったが後世になって竹串や鯨の骨や髭で風で膨らんだ形にした このような騎馬武者を母衣衆と呼ばれた 中右 利家公金鯰尾兜  鯰は地震をを起こし大地を揺るがす物として恐れられた 派手好きの利家らしい 右端 妻お松の方の石のレリーフ 10才の時21才の利家と結婚 2男9女の子をもうける 豊臣秀吉の妻ねね 山内一豊の妻千代(orまつ)と共に日本3代賢婦人と言われる  又徳川家康の人質として15年も江戸城に住みとどまった 
左端・中左国指定重要伝統的建造物群保存地区指定 早朝のひがし茶屋街  金沢を代表する観光地 美しい出格子と石畳が昔懐かし雰囲気を醸す 中右 芭蕉の辻 芭蕉の辻は仙台市が有名だが直接芭蕉の奥の細道とは無関係だが金沢市の辻の場合は芭蕉奥の細道逍遥道路と彫られているので芭蕉一行を意識してるのでしょう
左端・中 早朝の武家屋敷跡 金沢市長町周辺  長町周辺伝統環境保存地区及び景観地区指定 長町武家屋敷跡界隈藩政時代武士が暮らしていた屋敷跡 昔ながらの土塀や石畳の小路が残る加賀藩の上流中流級藩士の屋敷跡  右端 香林坊地蔵尊  金沢市香林坊尾張町1-1-1 町名の由来は比叡山の僧侶香林坊が還俗してここの町人向田家の跡取りとなり向田香林坊とないり目薬の製造販売で成功して香林坊家として繁栄したという説が有力とか
 
左端 香林坊市街  ットより拝借                                右端 にし茶屋街  金沢市野町二丁目 ネットより拝借   
 
上左2枚  早朝のにし茶屋街外  上右2枚 本長寺境内芭蕉句碑 金沢市蛤坂1-2-9 春もやや  景色ととのふ  月と梅 他に市内の寺院境内には芭蕉句碑が沢山ある
 
 左端 犀川 流れが力強いので男川とも呼ばれ犀星もその詩集の中で 『美しき川は流れたり』 と書いている  そして・・・ふるさとは遠きにありて思ふものそして悲しく歌ふもの・・・ は有名 中 室生犀星文学碑 金沢市中川除町 犀川河畔 碑には あんずよ 花着け地ぞ 早に輝け あんずよ 花着けあんずよ 燃えよ とある 室生犀星は徳田秋声 泉鏡花と並んで金沢三文豪の一人  右端 高浜虚子親子の句碑 右の句 北国の 時雨日和や それが好き 虚子 左の句 秋深き 犀川ほとり 蝶とべり 年尾 犀川緑地公園
 
左端 浅野川 流れが穏やかなので女川と呼ばれ泉鏡花の好んだ川  中 滝の白糸碑(泉鏡花原作 義血 侠血) 右端 梅のh橋  車両禁止のこの橋の周辺は金沢の文豪泉鏡花の出世作小説 義血供血 の舞台となったところ 水芸人滝の白糸と馬車の御者(馬丁)欣哉が偶然再会を果たしたロマンチックな河畔である  筋書きは金色夜叉 湯島の白梅に似にたところがある
左端 滝の白糸像 金沢市並木3 浅野川河畔  早朝曇天のため 中の画像をネットより拝借した  鏡花の名は 『共に美しいがそれを決して手に入れられない鏡花水月』 から来ている  瀧の白糸の水芸人水島友検事の村越欣弥の悲恋物語 像の奥に梅の橋が見える 右端 友禅流し歌碑 金沢市並木3-3 浅野川河畔 作詞 水木かおる 作曲 乙田修三 歌 牧村三枝子 
国指定史跡 加賀藩主前田家墓所  金沢市野田町野田山 国指定史跡としての前田家墓所はここ野田山の前田利家公と富山県高岡市の前田利長公募地からなっている 野田山墓地は26.000坪に利家公を頂点に歴代藩主の正室・子女等の墓地84基からなる 立派な石作りを想像していた形式が土地を盛り上げた所謂土饅頭形式なのには一寸驚いた 埋葬当時のままなのでしょう 近くに重要家臣の加賀八家の墓地もある 上左は野田山墓所からの金沢市内 上右は前田家墓所の案内図 
 上左2枚 藩租前田利家公墓地   上右2枚 利家公夫人松 芳春院墓地  共に土饅頭ながら3段のピラミッド型
上左2枚 2代目藩主前田秀長墓地  上右2枚 未整備の豪姫の墓地 前田利家の4女 2才で秀吉の養女となる 15才で同じく秀吉の養子であった宇喜多秀家と結婚 その後関ヶ原合戦で西方についた宇喜多秀家は敗れて八丈島へ流される 豪姫は金沢の実家へ帰るも生涯八丈島の夫へ仕送りを続けた 一生独身を通して61才で没 未整備の張り紙があった
左 富樫氏館跡 野々市市住吉町2-11  中 富樫氏由来の碑 野々市市本町5-4-1 その由来は始祖鎮守府将軍藤原利仁で曾孫加賀介忠頼が永延元年(987)加賀の国司に任用されその基礎を固めた 野々市の地に初めて館をかめたのは平安後期富樫の介家国時代  以後富樫氏はここ伏見川流域周辺を基礎に勢力を広げ加賀の代表的武士団に成長 南北・室町期には富樫の介高家らが守護職を歴任加賀国の要衝であった野々市に政治支配の拠点である守護所が置かれた 歌舞伎勧進帳で有名な安宅の関守富樫左衛門尉は仁・情にある武士として名高い  野々市は中世における加賀国の政治・経済・文化の中心地として大いに繁栄した  右 富樫家国の像 彼が富樫介を称したのが富樫氏の始まりという
 
左 手取川 上杉謙信軍が織田信長軍(司令官は柴田勝家)を撃破した合戦 手取川古戦場   石川県白山市湊町154~141  天正5年9月23日   ここ手取川で上杉謙信の西進を阻み越前一向一揆と加賀平定を狙う織田信長と越後から南下して七尾城落とした上杉謙信の戦いで信長軍が敗北した唯一の戦い  右 古戦場碑と落書遠望の地の碑 上杉に 逢うては織田も 名取川(手取川) はねる謙信 逃げるとぶ長(信長) 手取川古戦場に残された石碑に刻まれた落首 手取川での戦いぶりについて揶揄した歌で京童たちが口ずさんでいた
 上 加賀の千代女記念館 白山市殿町310 誰でもご存知の  朝顔に つるべとられて もらい水 で知られる江戸時代の女流俳人千代女の生まれ故郷はここ白山市(旧松任市)である  朝顔の句を沢山詠んでるので市の花は朝顔である 彼女は表具師福増屋六兵衛の娘として元禄16年に生 他に 朝顔や 宵から見ゆる 花のかず ・ あさがほうや いまだ灯火の 薄明かり ・ 朝顔や 蜘蛛の糸にも 咲きにけり ・ 朝顔や 宵に残りし 針しごと 等 安永4年73才で没す
 
海を越えた千代女の句の碑 俳句が海外に紹介された最も早い事例が加賀藩の命により千代女が自らの句を掛け軸6幅・扇子15本にかき上げて江戸時代の宝暦13年(1763)第11次朝鮮通信使に献上した事である  記念館前には当時の朝鮮通信使の行列の絵が描かれたの石碑が置かれている(右)
 
左 ヤンキース時代のサインボール      中  松井秀喜ミュージアム 能美市山口町タ58    右  巨人軍時代のサインボール
 
左端  夢を掴む幸運の手 握手出来ます  中左 バッテングフォーム  中右 東京五輪聖火トーチとユニフォーム 長嶋さんと行進  右端 2001年ワールドシリーズMVP記念 シリーズ3本塁打・一試合6打点のシリーズタイ記録・NYを9年ぶり27回目の優勝へ導く・日本人初のMVPのアワード記念品
左端 国民栄誉賞 野球とは人生そのもの   中 野球殿堂入り 野球人生 すべての人に感謝   右端 町民栄誉賞・市民栄誉賞・ 県民栄誉賞 日本海のように深い心と白山のような強く動じない心-僕の原点はここにあります
 左 NY時代  中 夢の足跡ユニフォーム 右から根上中学校・星陵高校・読売G・NY・LA・OAK・TBの時代の各ユニフォーム  右 HRフォーム