加 賀 の 篠 原
加賀の篠原と言えば倶利伽羅峠の戦いに敗れた平氏の残党と木曽義仲軍の合戦場での老兵斎藤別当実盛の悲劇の奮戦を忘れることは出来ない篠原の古戦場である  彼が特異なのは主君が 源義朝→源義賢源義朝→平清盛→平宗盛と源氏から平氏と変化してる   越前国の生まれで武蔵国長井の庄(熊谷市)を本拠値としていた  然も武蔵国の義賢が甥の源義平に討たれた時(大蔵合戦)その子薬王丸(後の木曽義仲)を救出して信濃国の中原兼頭遠のもとへ預けた義仲の命の恩人なのである  保元・平時の乱で義朝が討ち取られると歴戦の武将として平家へと招へいされたと言う経歴の持ち主なのだ 芭蕉はこの討ち死にした不運な白髪の老兵との巡り合わせに悲劇の武将として涙したのだ

小松と云所にて
しほらしき 名や小松吹く 萩すゝき             奥の細道 芭蕉
ぬれて行くや 人もをかしき 雨の萩             奥の細道 芭蕉
此所、太田の神社に詣づ 実盛が甲・錦の切れあり 往昔、源氏に属せし時 義朝公より給うはらせ給とかや げにも平氏のものにはあらず目庇より吹返しまで菊から草のほりもの金をちりばめ木曽義仲願状にそへて此社にこめられ侍うよし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり
無残やな 兜の下の きりぎりす                奥の細道  芭蕉

世の中は 浮き臥ししげく 篠原や 旅にしあれば 妹夢に見ゆ       新古今和歌集 藤原俊成 この歌古戦場の篠原ではありません 滋賀県野州市である 加賀の南部地方歌が見付けられず載せました 篠竹に節が多いように人生にも折節が多い 篠原で旅寝していると妻の夢を

 
 左 安宅住吉神社 小松市安宅町タ17 敷地12000坪 白砂青松の地 全国唯一難関突破ノ神社 遠く奈良時代の創建で北国街道往来の人々が必ず詣でた古社 境内には勧進帳で名高い安宅の関ある 中 弁慶像 右 県指定史跡安宅の関跡碑
 
 左端 安宅の関跡      右端 歌舞伎十八番勧進帳安宅の関の主役3人 左 源義経 中 弁慶 右 関守富樫左衛門尉
 
左端 安宅の杜公園 日本の歴公園100選 日本の白砂青松100選 国有林 林野庁管轄安宅林風景林 中 与謝野晶子の歌碑 松たてる 安宅の砂丘 その中に 清き文治 三年の役 右端 与謝野晶子歌碑 松の中 安宅の宮の ましましぬ 比べて云はじ 関の跡など ・ 住吉の 神をかしこみ しりぞきて 富樫の据ゑし 新関のあと 昭和15年弁慶の知略・富樫氏の仁義で建立されたが平成7年義経像が出来て3体で勇仁智となる
 
上左 安宅林国有林入り口   上右 お馴染主役の3人 左 義経 中 弁慶 右 富樫左衛門尉   共に天候不順につきネットより拝借
 
左端 九郎判官義経と富樫左衛門尉奉斉の宮 中左 左関守富樫の宮・右判官義経の宮     中右 富樫左衛門尉像  右端 弁慶像  共に小松空港入り口 小松市浮柳町ヨ50
 左 小松駅前弁慶・富樫の像  小松市土居原町  右 弁慶謝罪の地の像 能美市道林町106 道林寺公園根上り体育館近く 安宅の関公園から2kmほど北上した地点  この伝説は各地にあり 判官殿か と富樫に疑われた弁慶は 加賀白山より連れてきた御坊だ と嫌疑を晴らすために扇で打ちのめす機転で切り抜けた後当地の道林寺境内にて心より謝罪した  共にネットより拝借
 
左端 上の画像は知る人の少ない 仏御前の生まれ故郷である加賀南部の小松市原町(旧原村)の片田舎だ  御覧の画像のように曇天の午後はひとしお鄙びて見えました  平家物語では平清盛によって翻弄された悲しい女性の物語の祇王・祇女・仏御前の三人の女性の内の一人です 中左 仏御前尊像安置所 小松市原町ト24 仏御前は平安時代末期の『平家物語』の妓王説話を扱った節に登場する白拍子 清盛の寵愛を受けたがむなしい夢に救いを求めて仏道へ そして故郷ふるさと小松へ 中右 頼山陽の漢詩 江戸時代の漢詩の大家頼山陽は日本を代表する女性12人の一人に仏御前をあげ賞賛の漢詩を残す   佛  誰知蔡沢出蛾眉。 奪寵辞栄転瞬時。紫石稜稜以秋鶻。見機郤不及家姫。 右端 仏御前居住宅と墓地
上 小松市指定史蹟 仏御前居住跡・墓地 小松市原町24  平家物語 巻一祇王 に登場する白拍子姉妹 祇王・祇女 姉の祇王が清盛に愛され母とじと3人で裕福に暮らしていたが加賀国の白拍子仏御前が現れて清盛を魅了する 君を初めて見る折は 千代も経ぬべし姫小松 御前の池なる亀岡に 鶴こそ群れいて遊ぶめれ と仏御前のこの舞に清盛は夢中になった このため祇王母子は暇を出されたが仏御前を慰めるため清盛の邸に時々呼び出され仏御前のまえで舞うという屈辱を味わった 萌え出ずるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわではつべき と祇王は障子に書き付けて清盛邸を出た 自害も考えたが母の制止で出家し母子3人で嵯峨野の山奥に人目を忍んで暮らしていた  祇王の障子に書き付けた和歌に世の儚さを悟った仏御前は清盛を振り切り仏の道へと出家した ある夜祇王の庵に仏御前が訪ね来て出家の覚悟を述べそれにより祇王の旧怨の誤解も解けて以後4人で仏門で往生願う生活をしたという  仏も昔は凡夫なり わららも終には仏なり 何れも仏性具せる身を 隔てるのみこそ悲しけれ  祇王
      
京都市の祇王寺(往生寺)ネットより拝借した物
 

上 多太神社 小松州上本折町72  遥か昔、武烈天皇5年(503)の時に創建されたと伝えられている歴史ある多太神社 ここには伝説の兜が奉納されている 国指定重要文化財で、旧国宝の斎藤実盛の兜である 実盛と義仲の話は『平家物語』巻第七に「実盛」として語られている   境内にある実盛の兜のモニュメント  斎藤実盛像 左手に鏡を持って髪を染めている

左端 芭蕉像 神社境内  元禄2年(1689)7月25日(9月8日)芭蕉一行は多太神社に詣でた 7月27日小松を出発して山中温泉に向い時に再び多太神社に詣でた  中左 芭蕉句碑 むざんやな 兜の下の きりぎりす 中右 芭蕉・曽良・北枝の句碑 あなむざん 兜の下の きりぎりす ・ 幾秋か 兜にきへぬ 鬢の霜 曽良 ・ くさずりの うち珍しや 秋の風 北枝  右端 左の句碑の説明板
 
左 篠原古戦場跡の碑  中・右 実盛塚  加賀市柴山町 この辺り一帯が古戦場で斎藤別当実盛(73才)が木曽義仲の家臣手塚太郎光盛に劇的な最後を遂げて討ち取られその亡骸を葬った所といわれる 北海が 盛りたる砂に あらずして 木曽の冠者が きづきつる塚  与謝野晶子  この塚応永21年(1414)この地方を布教していた時宗の14世上人 太空が加賀市の潮津町で別事念仏会を行ってる最中に白髪の老人が現れ十念を授けたらすぐにその場から立ち去ったという その直後からその白髪の老人は斎藤別当実盛の幽霊だという噂が立ち太空上人は実盛の討ち死にした塚に訪れ回向を行った それ以後時宗の遊行上人は新しく代替わりしたときは必ず実盛塚を訪れ回向を行う習慣が今も行われている
 
篠原の戦いで平家軍が逃げ落ちていく中ただ一騎錦の直垂を着た老武者が踏みとどまった この直垂の武者は生まれ故郷の越前に近い所での戦ゆえ死ぬ覚悟の実盛が特別の許可を得た物  木曽義仲軍の手塚太郎光盛はただ一人残った老武者に戦いを挑んだ 戦疲れと老いたる斎藤別当実盛は遂に討たれた 手塚太郎光盛が別当の首を持って行くと木曽義仲はそれが実盛に似ていると気付くが髪や鬢が黒いのに不審がった そこで実盛と友人だった樋口次郎金光に聞くと「実盛に間違いない 彼は常々 60過ぎて戦に行くときは年寄りと卑下されるのも口惜しい 髪や鬢を染めていくと云っていた」と云って泣きながら首を洗うと墨が落ちて白髪が出てきた 無残な別当を見た義仲は『やはり実盛 わが命の恩人だったのに・・・』と言って天を仰いで無念の涙を流した 左端 多太神社保存の国重要文化財 斎藤別当実盛の兜ネットより拝借 右端 斎藤別当実盛首実検の像 左 天を仰ぐ木曽義仲 中 首を洗った樋口次郎金光 右 別当を討ち取った手塚太郎光盛  加賀市篠原町  
 
左・中 実盛の首を洗った首洗い池 加賀市柴山町  右 芭蕉句碑  むざんやな 兜の下の きりぎりす  

上 全昌寺 加賀市大聖寺神明町1 大聖寺城藩主山口玄蕃の菩提寺 元禄2年(1689)奥の細道行脚の折芭蕉と曽良が一泊した寺  中 芭蕉と曽良の句   庭掃いて いでばや寺に ちる柳  芭蕉  終夜 秋風きくや うらの山  曽良  左 芭蕉・曽良の句碑