之 乎 路(しおじ)・香 嶋 津(七尾湾)

香嶋津は現在の能登半島七尾市の七尾湾内にあったとされる古代奈良時代の湊だが現在の所在は不明である 古代の能登は羽咋・能登・凰至・珠洲の四郡であり越中国に属していた 天平20年(748)大伴家持は国司の務めの出挙(すいこ・春に種籾を貸し付け秋の収穫期に利息と共に同量のもみを回収)するための能登巡回に出向いた 大雑把にみて越中伏木の国府から氷見を通過して志雄峠(之乎路)を越えて羽咋の海にでて能登一宮の気多神社を参拝してから七尾の香嶋津で上船して海路熊木(中島)に上陸して穴水・輪島・珠洲を巡行しそこから再度海路船で越中伏木の国府に帰還したようである 但し一度の巡行だけなのかあるいは何度か巡回したのかははっきりしてないようだ

香嶋より 熊木をさして 漕ぐ船の 梶とる間なく 京師(みやこ)しおもほゆ     万葉集 巻17-4027   大伴家持

之乎路(しおじ)から ただ越え来れば 羽咋の海 朝凪したり 船梶もがも        万葉集 巻17-4725    大伴家持
之乎路・志雄峠 上記の画像は時間の関係と御覧の道路事情からしてとても行けそうになく全てネットより拝借した物 です なかなか分かり難い志雄は羽咋郡にあった旧町名 現在は羽咋郡宝達志水の北部を占める 旧志雄町は平成17年押水町と合併して宝達志水町となった能登半島の基部にあり東は富山湾西は日本海に接す 左端歌碑 之乎路可良 多太古要久禮婆 波久比能海 安佐奈藝思多理 舩梶母我毛 巻17-4725 大伴家持 右端の奥の標柱には 御上使往来 志雄町青年セミナーの文字が見える ここが峠の頂上なのでしょう
左端 国指定史跡 七尾城跡説明板 七尾城を一躍有名にしたのが上杉謙信の9月13夜陣中の作の漢詩である  霜は軍営に満ちて 秋気清し 数行の過雁 月三更 越山併せ得たり 能洲の景 遮莫 家郷の 遠征を思うを  遮莫の読みは さもあらばあれ だそうだ 左中 本丸跡 右中 見上げる七尾城  右端 本丸跡にある七尾城跡の碑 早朝の逆光のため読みにくい
 左端 山頂本丸跡の石垣 野面積みと言われる本丸石垣  中 本丸跡からの七尾市と七尾湾 香嶋津の絶景  右端 畠山義忠公歌碑   野も山も みなうづもるる 雪の中に しるしばかりの杉の村立  七尾湾が一望出来る七尾城は標高300mの山頂を本丸とし室町幕府三管領の一つで畠山氏の分家の能登畠山氏が応永15年(1408)に能登守護となった畠山満慶を祖とし築城は16世紀初め頃から始ったという 天正4年(1576)と天正5年(1577)上杉謙信の2度の攻撃を受け落城した 後に織田信長の領地なり前田利家城主となる
  国指定史跡能登国分寺跡 七尾市国分町部9 平安時代初期の承和10(843)に聖武天皇の命により全国に作られた 面積5.3hrの歴史公園
左 能登国分寺跡  中 印鑰神社 七尾市府中町223 国分寺は跡は発見されたが能登国府跡は未だ不明だ 神社は養老3年國府を七尾港付近に設け港の守護神と鎮祭し能登國國衙の印璽を保管した由来から印鑰神社と称す 戦國の爭乱天難を土中にさけ文緑年中赤間田より地主両川市左エ門郡奉行三輪藤兵衛の夢告により出土し慶長2年大手町寛永16年府中町と府中村の入会浜に移転文政8年現地に遷宮す 国衙印をこの神社が保管してることからこの付近に国衙国府があった推定される  右 七尾軍艦所跡 七尾市矢田新町 国道160号沿い  文久2年(1862)から明治4年(1871)で前田加賀藩が梅鉢海軍の根拠地及び艦船実習地として設置 其の中には造船・製鉄所・機会船具の制作修理など多くの施設が作られたところ 軍艦所内には七尾語学所も併設され英国人パーシバル・オズボーンが招かれ英語や西洋事情の教育にあたったところ
 
 七尾城跡からの七尾湾 私の場合は早朝で逆光のため素晴らしい七尾湾が撮れなかったのでネットより拝借した