倶利伽羅峠・砺波の関

倶利伽羅峠は平成7年(1995)建設省の歴史国道 平成8年には富山県小矢部市から石川県津幡町が北陸道倶利伽羅越えとして歴史道100選に選ばれた 歴史上有名な倶利伽羅峠の戦いは別名砺波山の合戦である 砺波山の山頂での源平の潮目を分けた戦いであった 加賀と越中との堺に砺波山と言う山あり 射水郡の南庄川の水域にして飛騨国に至る 西は倶利伽羅の連嶺をもって加州と限り 東は婦負郡丘陵をもって相分かつ(大日本地名辞書) とある  和銅5年(712)越中国と加賀国の国境付近の古代官道である北陸道に設けられた関所 正確な所在は不明だが鼠ヶ関・愛発関・砺波の関を越の三関と呼ばれる

焼太刀を 砺波の関に 明日よりは 守部遣り添え 君を留めむ   万葉集 巻18-4084 大伴家持
焼き太刀は火に焼いて鍛えた太刀 それを砥石で磨ぐことからトナミのトにかけた枕詞 砺波の関は富山県小矢部市西南部にあった関所

不動の茶屋を離れ倶利伽羅峠にかかる この処昔時木曽義仲平家と戦ひし古戦場なり 峠に倶利伽羅不動の社あり 此の処立場の茶屋いずれも広く清麗にして東海道の茶屋の如くこの街道には珍しく良き茶屋にして砂糖餅名物なり 此の処越中加賀の国境なり(十返舎一九 金草鞋) とある
商いに 利生ぞあらむ 倶利伽羅の 不動の前の 茶屋の賑わい       金草鞋 十返舎一九

奥の細道で芭蕉は『卯の花山・くりからが谷を越えて金沢は七月の中五日也』と素っ気ない 曽良は『十五日 快晴 高岡ヲ立 埴生八幡ヲ拝ス 源氏山・卯の花山也 クリカラヲ見テ未の中刻金沢ニ着』
義仲の 寝覚めの山か 月かなし                奥の細道  芭蕉

倶利伽羅の 餅に大小不同あり 客がこむから 亭主せいたか             蜀山人(太田南畝)   

    

 
左 砺波の関の碑 倶利伽羅峠への東麓入口付近・地蔵堂前に立つ新旧の礪波の関跡の石碑 旧北陸道の加賀と越中の堺の要衝にある 左側は明治42年(1909)、右側は平成12年(2000)の建立 どちらにも歌が刻まれている 砺波の関は和銅5年(712)に越中と加賀の国境付近に設けられたと推定され鼠ヶ関、愛発の関と共に「越の三関」のひとつと言われている 右 大伴家持歌碑 この歌碑は見付けられなかったので http://blowinthewind.net/manyoより拝借した 焼太刀を 砺波の関に 明日よりは 守部遣るり添え 君を留めむ 倶利伽羅峠へ向う途中にある万葉公園入り口の少し下がったところにあると記載されている
 
左 木曽義仲像 埴生八幡神社の前にある 馬上の人物像として日本一 右 国指定重要文化財 護国埴生八幡神社  小矢部市埴生2992  寿永2年(1183)5月木曽義仲がここ埴生に陣取り倶利伽羅峠に陣を敷く平維盛の大軍と対峙 勝利祈願の願文を奉納した祈願社 佐々成政や、武田信玄、豊臣秀吉など戦国武将の信仰も篤く加賀藩前田家によって建てられた社殿は大正13年に国宝となり現在は国の重要文化財に指定されている 戦いの中で絆を深め永遠の愛を誓った義仲と巴御前の絵馬に願いを込めれば「恋愛成就」「勝負運」もアップとか
 
 左 義仲帰命頂礼願書(神仏への祈願の趣旨を書いた文書)の碑  倶利伽羅合戦において義仲が戦勝祈願した際に埴生神社に奉納した願書の碑 昭和58年源平倶利伽羅合戦800年祭記念事業の一環として埴生護国八幡宮の社殿向かって右脇に建立 右 葵塚・巴塚案内板 木曽義仲には3人の仕えた女武者がいた 巴御前・葵御前・山吹御前である 義仲の愛妾と言えどもどなたも信州の有力武士団で当然軍事訓練を受けた美女であったと言う 義仲死後の彼女らの伝承はそれぞれありますがここ倶利伽羅峠には葵塚・巴塚なる古墳がある 
 
上左 埴生神社から倶利伽羅峠へ登る途中ありました  上右 巴塚 巴は色白で美麗かつ騎馬乗り弓矢打ちの達人で一人当千の武将でもあったといわれ砺波山合戦では源軍7陣の1陣を任ぜられている 91歳で死ぬまで尼僧として主・親・子の菩提を弔ったという 臨終の際「私が死んだら砺波山にある葵塚と並べて墓をつくってください」と頼んで息を引き取ったといわれている  下左 葵塚 碑文が何故か削り取られているのは何故か  一応説明板には載っている通りだが葵はこの峠の合戦で討ち死にしたのでこの地に埋葬されたため巴ほどの基本的に歴史的に史蹟や資料に出てくることはほとんど無く伝説的人物に近い それに比べて巴は義仲亡き後も再婚して朝比奈三郎義秀を生み90才ほど長生きしたので全国に縁の史蹟が点在している  巴は葵とは仲良い間柄であったため死後は葵の墓地の近くに埋葬を希望したという 下右 源平合戦古戦場の碑
   
 
 上左 芭蕉句碑  あかあかと 日は難面も 秋の風 上中 奥の細道説明板  元禄2年7月15日金沢には入って   ・・・一笑と云う者ものは此の道にすける名のほのぼの聞こえて世に知人も侍りしに去年の冬早世したりとて其只追善を促すに・・・・と峠をこえ金沢に着いて知人の死を聞いて詠んだもの  塚も動け 我が泣く声は 秋の風 ・ 秋涼し 手毎にむけや 瓜茄子 ・ あかあかと 日は難面も 秋の風 上右 芭蕉句碑  義仲の 寝覚めの山か 月かなし  不易流行・滅びの美学・有為転変の死生観の芭蕉の面目躍如の句でしょう
 
 上左 巻19-4179  霍公鳥 夜鳴きをしつつ 我が背子を 安寐な寝しめ ゆめ心あれ  上中 長歌 巻19-4177  我が背子と 手携はりて 明けくれば 出で立ち向ひ 夕されば 振り放け見つつ 思ひ延べ 見なぎし山に 八つ峯には 霞たなびき 谷辺には 椿花咲き うら悲し 春し過ぐれば ほととぎす いやしき鳴きぬ ひとりのみ 聞けばさぶしも 君と我れと 隔)てて恋ふる 砺波山飛び越え行きて 明け立たば 松のさ枝に 夕さらば 月に向ひて あやめくさ 玉貫くまでに 鳴き響(とよ)め 安寝寝しめず 君を悩ませ  上右 巻19-4178 我れのみし 聞けば寂しも 霍公鳥 丹生の山辺に い行き鳴かにも 以上の3歌碑は説明板によると 砺波山ほととぎす(藿公鳥)の歌 とあり 天平勝宝2年(750)4月2日 越中守大伴家持越前国の掾大伴の池主贈った歌 池主は家持が越中に赴任する以前から掾として任官していてその後越前に転勤した その間二人は共にほととぎすを愛でていた仲の懐旧の情に堪えず長歌と短歌二首に思いを述べた とある  共に倶利伽羅峠に並んで建てられていた
 

上左 義仲軍が最前線としていた地 矢立山 寿永2年(1183年)打倒平家に燃える木曽義仲率いる源氏軍と平維盛率いる平家軍が戦った「倶利伽羅峠の戦い」 ここは源氏軍と平家軍が対峙した最前線の場所 上右 平家軍の最前線の地 塔乃橋 こには平家軍の最前線となった場所 平家一門の平行盛が陣をおき源氏と対峙したところ 200メートルほど離れた矢立山には源氏側の今井兼平が陣をおいた ちなみに矢立山の名はここから矢合わせで源氏軍に放たれた平氏軍の矢が刺さったことに由来する  

 
 上左端 源平倶利伽羅合戦平家本陣の碑    中 奇襲火牛の計 ご存知火牛の計は平氏10万の軍に対する木曽義仲の作戦である 上方においておごれる公家的平氏に対して板東武者でもののあわれを知らぬ源氏は戦術にこだわらず当時は邪道と言われた奇襲を駆使した 義経の鵯越の坂落としは殊に有名  上右端 源平合戦慰霊之地の碑
 
左端 源平両軍戦没慰霊塔 両軍戦死者の御霊を供養する為昭和48年(1973)に小矢部市民の有志達が発願し昭和49年(1974)に巨大な五輪塔が建立された 倶利伽羅峠の戦いは旧暦の5月11日(新暦6月2日)の夜間から5月12日にかけて行われ同日には平為盛が木曽義仲四天王の一人樋口兼光に首をはねられ討死したとされる事から毎年5月12日には倶利伽羅源平供養塔追悼法要が行われる  中左 平為盛塚 源平慰霊塔3の斜め向いにひっそりと佇む為盛塚がある 彼は平清盛の異母弟で平忠盛の次男ある平頼盛の次男である 中右 太田蜀山人の歌碑  倶利伽羅の 餅に大小不同あり 客がこむから 亭主せいたか  不動寺(石川県河北郡津幡町) ネットより拝借  右端 十返舎一九の歌碑  商ひに 利生ぞあらん 倶利伽羅の 不動の前の 茶屋の賑はひ ネットより拝借