鵜坂河・売比河・神通川 

越中の歌枕(桂新書)に江戸時代の人々にとり鵜坂河とは現在の神通川を指していた と書いてある 又十代藩主前田利保は次の和歌を詠んでいる 
 鮎子とぶ 鵜坂の川の くだり瀬に わたす船橋 千世かけてみむ
  
船橋は前田利長が富山城に隠居に始まり明治10年神通橋が出来るまで利用されたという そして船橋の重要性は前田利長の次の歌でも分かる
 舟うけて かくる浮橋 あればこそ 鵜坂の川も 安くこえけれ 
地元の人にとっても自慢の名所だったようだ 又その珍しさを十返舎一九は金草鞋で次のように詠んでいる  
 めずらしや 
かかるはや瀬を 舟橋をの 自由自在は 神通の川

鵜坂河 渡る瀬多み この吾が 馬の足搔きの水に 衣ぬれにけり             万葉集 巻17-4022 大伴家持
売り比川の 早き瀬ごとに かがりさし 八十伴の男は 鵜川立ちけり
           万葉集 巻17-4023 大伴家持 

         いかにせん 鵜坂の社に みはすとも 君がしもとの 数ならぬ身を            夫木和歌集   源 俊頼                           
猶 神通川が富山湾に注ぐ右端は石瀬野と言われる行政地区があり万葉集にも詠まれているところから相当古くからある地名のようだ

石瀬野に 秋萩しのぎ 馬並めて 初鳥猟だに せずや別れむ                 万葉集 巻19-4249 大伴家持

 
左 鵜坂の万葉歌碑のあるところからの神通川  右 (株)岡部のネットより拝借 富山の総合建設会社岡部 神通川・鵜坂護岸その3工事 とある この付近は富山市婦中町鵜坂地区
 
左 東石瀬地区 神通川が富山湾に入る  富山湾展望台より  右 北前船廻船問屋森家・馬場家 北前船廻船問屋森家(国重要文化財)・旧馬場家住宅(国登録有形文化財)一帯は全国の北前船寄港地で構成される日本遺産として指定されている(荒波を越えた男達の夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落の構成) 北前船のことをバイ船と呼ぶ 往復で儲かるので「のこぎり商売」ともいわれ財をなした この東岩瀬港では幕末から明治にかけてが最盛期でこの森家も1878年に建築されたもの
 
左端 北前船のモニュメント 道路を挟んだ森家の向にある  中左 諏訪神社 富山市岩瀬白山町103  中右 神社軽打にある家持か碑  岩瀨野に  秋萩しのぎ 馬なめて 初鳥狩だに  せずに別れむ 万葉集巻19-4249  右端 富山の神通川舟橋浮世絵 日本一と言われた舟橋は最盛期には64艘の舟が並べられたという 
 
左端 薬種商の館 資料館金岡邸 富山市新庄町 1-5-24 江戸末期薬種商で財をなした金剛寺屋又右衛門を祖とし2代目当主初代金岡又左衛門以下代々富山で重きをなしてきた金岡家の旧邸 国登録有形文化財  中・右 資料館内部の一部 越中富山の独特の置薬の柳行李・国内でも希な薬業資料等が陳列されてる 売薬王国富山の成り立ち・発展の秘密300年の歴史を紹介
左 越中反魂丹 本舗 池田屋安兵衛商店 年間7万人が来る富山の観光スポット  右 反魂丹 越中反魂丹本舗ネットより 江戸幕府公認全国にその名を馳せた妙薬『反魂丹』  かっては万能薬として販売でしたが現在は食べ過ぎ飲み過ぎなど消化不良の胃腸薬だそうです
 
左端・中 大法寺と 境内にある富山製薬の元祖 松井屋源右衛門の墓碑 富山市梅沢町2-10-5  祖先は大伴家持が国司として赴任の時都から連れてきたという  右端 広貫堂資料館 富山市梅沢町2-9-1 越中富山の売薬の歴史文化を伝える 本社工場はこの向にある 富山売薬を語るうえで欠かせないのが反魂丹というお薬  広貫堂配置薬を起源としくすりの富山の礎を築いた創業140年余りの歴史のある企業  下は資料館の内部の一部 置き薬箱が懐かしい
  
この資料館では歴史・文化的にも価値の高い古文書や当時の薬売りが使った珍しい品々や昔懐かしいお薬のパッケージなどを保存・展示  『越中富山の薬売り』の歴史を紹介したスクリーン映像など見て・触れて・体感できる施設となっている   配置売薬の歴史は元禄3年(1690)に遡る 富山10万石の2代目藩主前田正甫公が江戸城に登城した折福島県の三春藩の藩主秋田輝季公が激しい腹痛で倒れた 正甫公が持参していた「反魂丹」を与えると忽ち腹痛は治まった なみいる諸大名がその偉効に感服し自分の領内での販売を望み正甫公の命で諸国に行商させたのが富山売薬のはじまりでやがて配置売薬にかわっていった 文久年間には売上げ20万両・行商2,200人に達し昭和9年の行商人14,160人がピークだ 江戸城腹痛事件のジオラマも展示
 
左 富山城 富山市本丸1  加賀前田家の分家であった越中前田家の居城で佐々成政や富山藩主前田家の居城の富山城 この城跡が戦後築城され富山城址公園として整備され市民の憩いの場となっている 現在は富山市郷土博物館  右端 立山万葉歌碑 全福寺 富山市新庄町102 立山に 降りおける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし 巻17-4001 大伴家持
         

左端 鵜坂神社 富山市婦中町鵜坂212  この神社について面白い記述がある 女性への尻打祭(しもと祭)である いかにせん 鵜坂の杜に 身はすとも 君がしもとも 数ならぬ身を 平安時代の歌人源 俊頼   あなこはや 鵜坂祭の 音にむち   宝井其角  油断して 行くな鵜坂の 尻打祭   松尾芭蕉 等どんな趣旨で行われたかは不明だが平安時代から江戸時代までの長い期間行われたのは事実だ  中右 境内にある大伴家持万葉歌碑 売比河の 早き瀬ごとに 篝さし 八十伴男 鵜川たちけり 巻17-4023  右端 神通川堤防に立つ大伴家持歌碑 鵜坂河 渡る瀬多み この吾が馬の 足搔きの水に 衣濡れにけり  巻17-4022 神社の背後200mにある

 

西円寺と安田善次郎の墓 富山市婦中町小泉405  安田財閥の創設者 父は富山藩下級藩士 17歳で江戸に出 丁稚奉公の後元治元年(1864)両替店安田屋を開業 太政官札・公債などの取引、官公預金などで蓄財し東京屈指の金融業者となる 明治9年(1876)第三国立銀行の創立に参加 13年に安田銀行を開業 15年には創立された日本銀行の理事に就任 また生命保険・損害保険業にも進出 晩年東京大学安田講堂・日比谷公会堂を寄付 大正10年(1921)国粋主義者朝日平吾に暗殺された  右端 国指定史跡安田城 富山市婦中町安田244−1 安田城は天正13(1585)年天下統一を目指す羽柴秀吉により越中出陣の際富山城の佐々成政との戦に備えて前田利家によって築城された平城

 
左 呉羽山公園からの富山市内  中 佐々成政剃髪の地碑 呉羽山公園  富山市安養寺147  佐々成政が剃髪して羽柴秀吉に降伏した  佐々成政と言えば嘘のような厳冬の立山越えですが徳川家康側の史料「家忠日記」にも記載されてあることから事実のようだ 織田信雄が羽柴秀吉に降伏し羽柴と徳川が和議となると佐々成政は徳川家康に再起を説得する為厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を家臣30名らと越えると言う強行手段にて浜松城に入った有名な話です(さらさら越え)  右端 滝の白糸文学碑 高岡市片原町 『越中高岡より倶利伽羅下の建場なる石動まで四里八町が間を定時発の乗合馬車あり・・・』 これは石川県金沢市出身の明治の文豪・泉鏡花の小説「義血侠血」の冒頭部分です 秀麗の水芸人・滝の白糸が、高岡発の乗り合い馬車で法律の学問を志す青年村越欣弥と出会い恋に落ちるところから物語は始まる
 
 長岡御廟真国寺 富山市長岡新八ヶ山4185 明治時代に発令された神仏分離令により仏式が廃され御廟の正面に鳥居がある  右端 富山藩歴代藩主墓地 初代藩主前田利次公御廟  長岡御廟は旧富山藩主前田家歴代の廟所  約3万㎡の境内には初代利次から12代利声までの墓を正室や側室等の墓が取り囲み参道には家臣達が寄進した石灯籠537基が建ち並ぶ