右  国登録重要文化財 旧生方家住宅と同文化財 旧土岐家住宅洋館
生憎休館であった手前が旧生方家奥の洋館が旧土岐家でしょう 特に旧生方家は17世紀末頃の建築とされている 城下町の本格的町屋として東日本における稀に見る古い遺構でる 生方家は沼田藩の薬種御用達を務めた商家である(説明板)
 

 


左 みなかみ町にある子持神社 
八棟造り・妻入木造建築・本殿は一間流れ造り木賊葺き豕?首 出三斗を用い寛永10年(1633)建立したとあるが何が何だかわかりません 兎に角見たこともない屋根の形でした
利根の名義は東国一の洪河なればか、刀禰(とね)にも作り刀禰とは物の冠たるを禰揚する辞なれば、此川も関東第一の洪河なれば、関東の河の冠たる意をもて刀禰と書るばべしと云う古人は利根を以て日本一の大河と為し坂東太郎と呼べり。これに次ぎたるは四国次郎 筑紫三郎とぞ。   大日本地名辞書 富山房
                                        
万葉集にただ一首しか詠まれていない利根川の万葉歌碑は群馬県の最北部利根郡みなかみ町にある 赤城山を下ってみなかみ町に向かう途中に沼田市があった そこの沼田公園が沼田城址である 今は僅かの石垣鐘楼が往時を偲ばせるだけである 鐘楼は真田氏が城主時代に構築されたが廃城と共に取り壊されていたという 明治20年ころ沼田町役場の地に再建されたが幾度かの変遷の後市民の要望により城跡地に昭和39年に再建された(説明板) 沼田城天正6年(1578)北条氏邦 天正9年(1581)真田幸昌 天正18年(1590)真田信幸 元和2年(1616)真田信吉 寛永12年(1635)真田熊之助 寛永16年(1639)真田信政 明暦2年(1656)真田信澄と凡そ100年に亘り六文銭の馴染みの真田家が支配した 天和元年(1681)江戸両国橋用材木の遅延と失政を幕府に咎められ信澄閉門改易で出羽山形藩奥平氏へ 長男信就は播磨赤穂藩浅野氏お預けとなる翌年幕命で沼田城破却 堀も埋められた等の歴史を持つ