越後の国新潟県は中々不思議な県なのです エリアとしては関東甲信越とよばれる大ブロックの一員として一括りされる場合が多いし又その事を望んでるらしい 私は北陸地方と云うと福井・石川・富山・新潟の北陸道4県を指すと認識していたが正確には北陸とは福井・石川・富山の3県の事なのだそうだ 新潟県は隣の長野県と合わせて信越地方となるのだと云うが時には北陸3県と合わせて北信越と呼ばれる時もあるという そう云いながら電力は東北六県ブロックの東北電力のエリアであり北陸電力でも東京電力でもない だから電源周波数は北陸3県は60HZだが新潟は50HZなのである 北陸3県は京都志向だが新潟県は東京志向だともいう 鉄道関係も北陸3県は大部分がJR西日本だが新潟県は一部JR西日本に含まれるが大部分はJR東日本に属する 又新潟県は東北六県を合わせて東北7県と呼ばれる場合もあるのです 県の半分は東北圏に入っているにも拘らず東北への関心は極めて薄く然も東北人と思われることは不愉快らしく常に眼は関東・東京にあると転勤で新潟に住んでいた友人の話である 又右図にあるように越の国も時代により国境の移り変わりがあるが(1)の初出にあるように越中の国は新潟県の奥深く信濃川以南で現在新潟市の渟足柵まであったようであり越後は信濃川以北を指していたようだ(出羽の国は未だなかった) 新潟県の歌枕の弥彦神社とか伊久里の森が富山県であると云う説もあるがなるほど一時期富山県であったことから理解できる 現在は間違いなく越後の国あるのは事実です ことほど左様に新潟県は北陸でもなく中部でもなくかと言って関東でもなく東北でもない誠に不思議な県なのです
 
又南北に長い新潟県では一般的に地図上では北が上であるので北が上越で南が下越と思いがちだが実は北が下越で南が上越なのである 南部は京の都に近いから上になるのだ そして面白いのはJRの鉄道である 我々は天皇のいる東京へ向かう方が上りで東京から離れる方が下りの意識がある 東北人はよくお上りさんと呼ばれ卑下されたものである  然し新潟県直江津〜滋賀県米原間の北陸線に乗ると京都の方え行く米原方面が登りで京都から離れる直江津方面が下りとなるのです だから金沢・富山の方が東京へ行く場合は行きも下り帰りも下りとなる なるほど北陸3県は未だに京の都の範疇なのが実感できるのです 新潟県中越に今も山古志村と云う地がる 越(高志)の名は単純に愛発山の愛発の関を超すから越の名がついたというが元々此の古志の村の地名が越の地名の発生源なのかも知れない  北陸は悲運の武将大伴家持が国司として赴任した地なので万葉の歌枕が沢山ある魅力的地であるようだ
(参考 万葉の歌 北陸 兜ロ育社 長岡市史 長岡市 ) 
大伴家持は天平18年愛発の関えて越中高岡の国府に赴任したのは29歳の時で34歳天平勝宝元年に平城に帰任した 紫式部父藤原為時が越前守として赴任する際越前国府武生まで同伴したのも 新田義貞の北陸落ちや義経主従の東下りの際もこの愛発山の峠を越えたのだろう 家持はその後天平宝2年41歳の時因幡(島根県)の国守として赴任、更に天平宝字8年47歳で薩摩守として鹿児島県に赴任 最後は延暦元年(782)65歳で何と草深い陸奥の按察使鎮守将軍として多賀城赴任を命じられ3年後当地で没した 然も死の一か月後に起きた藤原種継暗殺事件によって首謀者とされ総ての冠位官籍名誉をはく奪された 半生を左遷同様の遠隔地勤務させられた悲運の武将なのだ  尚織田信長の命令で柴田勝家木ノ芽峠ルートを開削してから愛発峠はすたれ愛発の関の所在も不明になったという(参考 大伴家持の愛と悲劇 鳥取県国府町)
    
                    
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