那須氏墓碑 右から5つめが那須与一の墓碑 瑠璃光院玄性寺境内 彼は山城国伏見で逝去し京都東山の泉涌寺に埋葬された 後にここに分骨された
上左 那須与一の像 道の駅那須与一の郷
上右 那須神社(那須金丸八幡宮) 那須与一宗隆が屋島の合戦後勝利の太刀と弓を奉納した那須氏の氏神 平成26年には本殿・櫻門が国重要文化財・奥の細道風景地名勝に指定された |
おくのほそ道碑 芭蕉と曽良が那須八幡j神社から玉藻稲荷神社へ向う途中の余瀬地区にある 奥の細道には『・・・それより八幡宮に詣 与一扇の的を射し時『別して我国氏神正八まん」とちかひしも此神社にて侍りと聞かば感応殊しきりに覚える・・・』とある
篠原玉藻稲荷神社境内にある芭蕉・実朝の句碑と歌碑
上右 芭蕉句碑
秣負ふ 人を枝折の 夏野哉
上中 源 実朝の歌碑
武士の 矢なみつくらう
籠手の上に
霰たばしる 那須の篠原 |
篠原玉藻稲荷神社境内にある九尾の狐を退治した鏡が池跡 妖怪九尾の狐の絶世の美女玉藻御前は鳥羽上皇に仕えていたが安部清明によって正体がばれ宮中を脱走してここ那須野が原に姿をあらわした 三浦介義明や千葉介常胤等8万の軍勢で捜索しこの池に蝉の姿に化けていた狐の姿が映しだされたので三浦介義明によって討ち取られた伝説上の逸話の地 一説には待賢門院璋子を失脚させ崇徳上皇を四国へ流した保元の乱の遠因となった鳥羽法皇の后美福門院得子がモデルとも言われる |