芦野は、古の黒川駅に代わるものにして、中世以来其の名あり。駅の北に、朽木の柳、又遊行柳とて、猿楽の謡曲に見ゆる名所あり。されど回国雑記に、塩屋の里と稲沢の間に、朽木の柳の事を載す、疑惑あり。又氏郷紀行「下野の国に至りぬ、いと清く流るゝ川の上に、の有けるを、いかにと尋侍るに、これなん遊行の上人に、道しるべせし柳よ、といふを聞きて、げにや新古今に「道のべに清水流るゝ柳陰」と侍りし思ひて
   今もまた 流れはおなじ 柳陰 行きまよひなば 道しるべせよ
とうち眺めて行けるほどに、こゝは那須野の原といふ所なりければ、余りに人気もなく物さびしかりつるまま、ふと思ひつらねて、
   世の中に 我は何をか 那須の原 なすわざもなく 年やへぬべき
奥の細道云、『・・・清水流るゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畔に残る、此所の郡守、戸部某の、此の柳見せばやと、折々にのたまひ聞え玉ふを、いづくの程にやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍りつれ・・・』と書いている
   田一枚 植えて立去る 柳かな

文明18年回国雑記云、塩屋の里をすぎて、朽木の柳といへる所にに至る、古への柳は朽ち果てゝ、その跡に植ゑつぎたるさへ、又苔に埋もれて朽ちにければ
   みちの辺の 朽木の柳 いとたへて  こけの衣に みどりをぞ仮る
是よりいな沢の里、黒川、よさゝ川など打ち過ぎて、白河二所の関に至り 云々                  (大日本地名辞書 富山房)
 遊行柳(別名 道野辺の柳 清水流るる柳 朽木の柳 枯木の柳)
その起こりは平安時代の西行法師が奥州に下った折りにこの地で詠んだ歌を始めとするが定かではないさらに室町時代の文明13年(1471)頃時宗19代尊酷上人(遊行上人)がこの地方の教化の為旅をしたとき柳の精が老翁となって現れ上人に成仏させていただいたお礼に
       草も木も 洩れぬ御法の 声聞けば 朽ち果てぬべき 後もたのもし
と詠んで消え失せたという伝説がる。又柳の精は女性であったという説もある これに対し上人は
       思ひきや 我法の会に くる人は 柳の陰に かくれぬとらん
と返し尊酷上人の徳を柳の精との問答という形で表した。
これらの語りをもとに観世光信によって謡曲「遊行柳」が作られてより伝説として広がり歌枕という名所になったうえ江戸時代には芭蕉が陸奥の旅で「奥の細道」に記述されるに及び一躍有名な歌枕となった。(参考 那須歴史探訪館資料コピー)
下左端 西行歌碑
  道の辺に 清水流れる 柳陰 しばしとてこそ 立ち止まりつれ
下左中
 柳と清水の流れ  西行歌碑の後ろには確かに柳の木と清水が流れていましたが・・・・
蒲生氏郷の歌      今はまた 流れは同じ 柳陰 ゆき迷いなし 道しるべせよ
 蕪村句碑  柳散 清水涸 石處々(やなぎちり しみずかれ 石ところどころ)
 芭蕉句碑  田一枚 植ゑて立ち去る 柳かな