愛 発 関(山) ・有 乳 関(山)
館野和己氏の論文 古代越前の国と愛発関 の中に『古代越前国を考えるとき忘れてならないものに愛発関がある 三関の一つとして古代の関の中でも最も重要な位置づけを与えられ、又恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)の時にその機能を存分に発揮し戦闘の命運を決定づけた関でありながら奈良時代だけでその姿を消してしまった関』とある 藤原仲麻呂の乱とは一言で言えば道鏡が取り入った女帝孝謙天皇と対立した太政大臣藤原仲麻呂が軍事力で政権奪取に失敗した事件の事 更に義経記にも『夜も明け愛発の山を出でて越前国へ入り給う。 愛発の山の北の腰に若狭への通う道もあり。能美山尼行く道もあり。 そこを三ノ口とぞ申しける 越前の国の住人敦賀の兵衛・加賀国の住人井上左衛門両人承りて愛発の山の関屋を拵えて夜三百人、昼三百人の関守を据えて関屋の前に乱杭を打ちて色も白く向歯の反りたるなどしたる者をば道を直ぐに遣らず判官殿とて搦め置きて糾問してぞひしめきける』ともある 長徳2年(996)の秋紫式部の父藤原宣孝が越前に下向したとき紫式部も同行していて1年ほど滞在しているので恐らく彼女もこの関を通過したかも知れない 平清盛の嫡男平重盛も越前国守だったしいかに多くの武人・官人がこの峠を越えた事だろうか 考えてみれば小浜さば街道にある 『都へは遠しといえど十三里』 とあるようにわずか50km弱の距離の間の峠なのだ 富山坊の日本地名辞典の中に『愛発は本郡江州高島郡の界嶺の旧名にして古此処に関塞を置かれ北国へのおさへと為されしを以て其の名ことに高し 源平盛衰記に荒地中山と云へり』とあり更に『・・・天正の頃か信長濃州岐阜に在城故通路のため柴田修理亮勝家をして中河内路(橡の木峠)を作らせ云々 是よりこのk路(愛発関)は通る人無し』と載ってる
八田の野の 浅茅色付く 愛発山 嶺の沫雪 寒く降るらし 万葉集 巻10-2331 読み人知れず
越路なる 愛発の山に 行き疲れ 足も血潮に 染めるばかりそ 親鸞聖人
塩津山深作峠にて詠む歌二首
大夫の 弓上振り起せ 射つる矢の 後見む人は 語り継ぐかね 万葉集 巻3-364 笠朝臣金村
塩津山 うち越え行けば わが乗れる 馬そ爪づく 家恋ふらしも 万葉集巻3-365 笠朝臣金村
塩津山といふ道のいとしげきを賤の男のあやしきさまどもして「なほからき道なりや}といふを聞きて 詠む
知りぬらむ ゆききにならす 塩津山 世にふる道は からきものとぞ 紫式部集 紫式部
朝ぼらけ ひかたをかけて 塩津山 吹く越す風に つもる白雪 続古今和歌集 國助
風吹けば 空にひかたの 塩津山 花そみちくる 沖つ白浪 夫木和歌集 九条内大臣
今朝のあさけ 寒きあらちの 山嵐 初雪ふりぬ 野辺の浅茅夫 伏見院御製
愛発山 雪降り積もる 高嶺より さえても出でる よわの月影 金葉和歌集 源雅光
打ちたのむ 人の心は あらち山 越路くやしき 旅にもあるかな 金曜和歌集 読み人知れず
思いやる 心さへこそ 苦しけれ 有乳の山 の冬の景色は 読み人知れず
あらち山 さかしくくだる 谷もなく かじきの道をつくる白雪 山家集 西行法師
吹く風の あらちのたかね 雪さえて 八田の枯れ野に 霰ふるなり 玉葉和歌集 藤原家良
幾重とか 分けても知らじ 有乳山 雲をかさなる 嶺の白雪 続千載和歌集 藤原為実
神無月 しぐれにえりな 有乳山 行きかふ袖も 色変わるまで 新勅撰和歌集 西園寺実氏
あらち山 みねの木枯 さきだてて 雪の行く手に おつる白雪 拾遺和歌集 藤原定家
八田の野の あさじが原のも 埋もれぬ 幾重あらちの 峰の白雪 続後拾遺和歌集
有乳山 雪げの空に なりぬれば 海津の空に みぞれ降りつつ 近江百人一首 藤原仲実 |
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ようこそ愛発へ 愛発地区の案内板 敦賀市疋田70-8 不思議なことに愛発の名は旧村名で今でも通称としては残っているが正式な行政区分としては残っていないのである そのため歴史的名前を残す運動は以前から起きていて地区の9割署名は集まってるそうだが改名には一億円以上かかるとのこと つまりこの駅名は北陸本線新疋田駅であり愛発駅ではないのです 鉄道ギャラリー愛発となっている |
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左端 北陸本線 中 愛発深作区の左の深作古道の絵の下の文字には『この先の橋の手前を左に入り深作峠(370m)を越えて湖北(琵琶湖)の塩津や大浦ヘと通じる奈良時代からの道である 北陸諸国の米や若狭の塩や魚を都へ運んだ道と言われている 峠を少し下りたところに深坂地蔵がある』と記されている この道に愛発関があったとされる古道だ 右端 深坂古道庵内板 |
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紫式部親子・義経主従・親鸞等が難儀して通過した分かり難い愛発関・有乳山を通った道 古代の深坂ルートがわかりやすい記述でネット上に載っていたので拝借した(ここ滋賀ネット) 簡単には行けませんので この貴重な画像ですが戦国時代になると長浜に城が築かれ関ヶ原(不破関)から木の本へ出椿坂峠~栃の木峠の山塊を越えて越前今庄~武生~鯖江~福井へ抜ける道が開かれた(8号線) その後はこれが北国街道の本街道になり愛発越えの道は脇往還になった |
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https://yamap.com/activities/31330605/article より拝借
左 笠朝臣金村歌碑 塩津山 うち越え行けば 我が乗れる 馬ぞ爪づく 家恋ふらしも
右 紫式部歌碑 知りぬらむ ゆききにならす 塩津山 世にふる道は からきものぞと |
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福ふくガイドより・ https://note.com/gentle_impala383/n/naa06bb57216a 深坂峠(塩津山)の情景・峻厳・困難が記述されている 兎に角憧れの地だがとても普通に行けない所なのでネットより拝借した |
木 の 芽 峠
源平合戦時には木曽義仲や平維盛 鎌倉時代には蓮如・親鸞や道元 南北朝時代には新田義貞 戦国時代には柴田勝家等が通った道 又.力及ばず夜をあかして木の芽といふ山を越へて日数も経れば越前の国の国府にぞ着き給ふ それにて三日御逗留ありけり 義経記より 天長9年(830)の1200年前から存在する北国街道の難所 古来より木の芽峠は(敦賀と福井を結ぶ標高630mの北陸道の要所として人馬の往来も極めて頻繁であり峠を越えて京都に向う人 更に都を出でて北陸に下向する人々にとって急坂の石畳の道 秀吉から拝領したと言う木の茶釜を有するという茅葺きの茶屋の印象は旅をことのほか忘れがたいものにしたであろうと思われる 建長5年(1253)の夏 永平寺を開かれた道元禅師は病気療養のため高弟の弧雲和尚・徹通和尚を伴われて永平寺を旅立ちました やがて木の芽峠に至り禅師は京への随伴を切望される徹通和尚に爾後の永平寺の守護の大事を説かれ涙ながらに訣別されました
草の葉に かどでせる身の 木の芽山 雲に路ある 心地こそすれ 道元禅師
その折りの禅師の万感の重いがこの御詠歌である 再び峠を越えることもなく 又今生の永別となるやもしれず峠の脊を分けて流れる水の如く南と北に袂を分けられた師弟の胸中はまことに感無量成る者があったと思われる 曹洞宗木の芽峠奉賛会の案内板より その他紫式部の父藤原為時・親鸞・蓮如・新田義貞・朝倉義景・一向一揆と戦う織田・豊臣の軍団・奥の細道の芭蕉等多くの文人墨客も通過した峠だ
木の芽山 雪ふらむ日も 遠からじ 都よしとて 帰りおくるな 松籍艸 橘 曙覧
北陸本線は険しい木の芽峠を避けて海側の山中峠を越える杉津を経由するルートで建設されたが1962年木の芽峠直下に北陸トンネルが開通した 又木の芽峠直下には北陸新幹線の越前武生駅と敦賀駅間に新北陸トンエンルが開通した 道路では北陸道を継承するR18号は引き続き橡の木峠経由していたが1886年に金ケ崎隧道・春日野隧道が貫通し1920年に両隧道を通る海岸沿いの道が北陸道・国道18号を継承する国道12号(現国道8号)の一部に指定された 1977年北陸自動車道の敦賀トンネル木の芽峠の直下に作られた一般道路では長らく登山道しかない状態であったが1993年木の芽峠を通る道路が国道476号二指定され2004年に直下を通る木の芽峠トンネルが完成して自動車が通行できるようになた このように木の芽峠はトンエンル技術が開発されるまでは誠に困難な峠で迂回する以外交通は困難だった |
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左端 国道476号線の木の芽峠トンネル 旧木の芽峠へは曲がりくねった細い道を時間を掛ければ行けそうだが時間の関係で武田耕雲斎本陣跡で引き返した 中 トンネルを抜けて新保地区から脇道の旧木の芽峠ヘの道へでて細い道のを登り道を数百m行くと史跡武田耕雲斎本陣がある 右端 史跡 武田耕雲斎本陣跡説明板 敦賀市新保27−30 癌治元年(1864)12月11日 水戸武田耕雲斎以下800余名3が陣を敷いた所で幕府の先陣を務めた加賀藩の使者と数度にわたる会議をした所 とある |
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右端 新保地区の木ノ芽峠への旧道 中 史跡 武田耕雲斎本陣跡 通り沿いにある 右端 木の芽峠画像 ネットフォートラベルより拝借 |
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上 ネットAmebaより拝借した画像 本来なら時間をとって新保から峠までの凡そ2.5kmの歴史の道として保存されてる古道を見てみたかったがネット画像でしか堪能できないのは残炎 |
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