色 の 浜・種 の 浜

西側に若狭湾 東側に敦賀湾を形成する半島 敦賀半島にある 殆どの方には目新しい歌枕 その名称から何か妖艶な響きを感ずるが全くその逆 芭蕉の奥の細道の中に『十六日 空晴れたればますほの小貝ひろはんと色の浜に舟を走らす 海上七里あり 天屋何某というもの 破籠 小竹筒などこまやかにしたためさせ 僕あまた舟にとりのせて 追い風時のままに吹き着きぬ 浜はわずかなる海士の小屋にて 侘しき法花寺あり 爰に茶を飲み酒を温めて夕暮れのさびしさ感に堪たり』とある 私が尋ねたときは夕暮れの小雨降るときで人気もなく奥の細道に書かれてると同じ鄙びたうら寂しい浜でした 色の浜は敦賀湾に臨む静かな漁村であって風光明媚なところとして知られる  当時色の浜は道が通っておらず陸の孤島でした そのためには舟で行くほかはなかった 敬愛する西行の詠んだ歌枕の地を何としても訪れたくて陸の孤島まで足を伸ばしたのでしょう  ますほの小貝ますほとは万葉集ではまそほと云われ漢字では真朱と書いていた つまりますほの小貝は赤みをおびたピンク色の貝である 又色の浜を種の浜と書かれてあるのもある

寂しさや 須磨に勝ちたる 浜の秋       奥の細道 芭蕉
波の間や 小貝にまじる 萩のちり       奥の細道 芭蕉
小萩散れ ますほの小貝 小盃          奥の細道 芭蕉
衣着て 小貝拾わん  いろの月         奥の細道 芭蕉

染むる ますほの小貝 拾ふとて 色の浜とは 云ふにやあるらむ         山家集 西行法師
山おろし 紅葉ちりしく 色の浜 冬は越路の とまり寂しな              夫木和歌集 寂然法師 
ふる雪の 色の浜辺の 白砂に それとも分けぬ 群れ千鳥かな              中務集 中務
 
 左 気比の松原公園碑  敦賀市松島町             中 松原公園内の道路(福井県観光サイトhukui.come)                左 松原公園の一部
 平安時代の9世紀には石川県羽咋郡志賀町福浦港の福良津と共に渤海国使のための施設松原客館が置かれた 光る君のドラマの中でも紫式部の父為時が越前国司として赴任したとき宋国の使者と松原客館の話が出ていた 古来より氣比神宮の神苑として神人が近隣住民の利用を管理していた 長さ約1km・広さ約34万m²という広大さと白砂青松のコントラストが印象的な松原 赤松、黒松が生い茂る国の名勝指定地 三保の松原(静岡県)・虹の松原(佐賀県)と並ぶ日本三大松原の一つ 日本遊歩百選若狭湾国定公園の一部  市営の松原海水浴場  気比(笥飯)の由来は日本書紀に拠れば御食津(みけつ)から転化したという
 気比の松原     右側は若狭湾観光連盟サイトから拝借した
 
常呂神社と国宝朝鮮鐘 敦賀市常宮13-16  気比の松原から県道33号を経由してさらに敦賀湾沿いの県道141号線を通って敦賀半島の中程の道路沿いに常呂神社がある  左端は神社正面だが午後5時過ぎの為か門が閉じられていた  中 神社入り口にある国宝朝鮮鐘の石碑  右 画像はネットより拝借した西暦833年鋳造の国宝朝鮮鐘  朝鮮半島統一新羅の時代のもの  この鐘は色々曰く付きの鐘のようである  秀吉の朝鮮出兵の朝鮮の役に慶尚南道の普州城から運ばれ秀吉の命により敦賀城主の大谷吉継が常呂神社に預けたと言う 21世紀に入ると韓国の晋州市民から返還運動が起き2012年3月には突然来日して拝観を求め話し合いを求めた 驚いた常呂神社は総ての拝観を禁止してしまった これに対して韓国市民団体の内部からも善処を求める声が上がり名称を「社団法人慶南国外文化財保存研究会と改称し会の目的を新羅鐘をこよなく愛する気持ちから常呂神社との相互関係を計り協議を通じて交流を図り供にこの鐘を安全に保存し文化的価値を高め世界の人達に鑑賞して頂き大観民国と日本国間の文化協力の増進を図り人類の立派な文化的遺産である新羅鐘が末永く護られるくこと」 と転換された 神社も韓国の態度の変化に対して2016年7月拝観停止を解除した と言う 
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一般的には「色の浜」であり西行の歌にあるように「ますほの小貝」が海岸を赤く染めたようにカラフルだったと言う  敦賀半島の東岸に位置するが昭和40年代に敦賀原発ができるまでは陸路で行くことできず船で往来していた 当日は午後5時過ぎの雨降りの色の浜のためゆっくり綺麗な海岸を歩くことは出来ず御覧の画像となった 本当に残念無念 
左 色の浜 余り天気が悪かったのでネットより拝借 当然現在は小舟や網等の漁具あるがあるどこにでもある田舎の漁村の風景である  中 西行法師歌碑 汐染むる ますほの小貝 ひろふとて 色の浜とは いうにやあらなむ 山家集西行法師 本隆寺境内  右 本隆寺 敦賀市色の浜31-33  この寺には奥の細道で侘しき法花寺と書かれていて等裁に筆を執らせて寺に残すと記載された文書が残されている 芭蕉・等裁はこの寺で茶を飲み酒を温めて過ごしたがその空しさは須磨の秋よりももっとうら寂しく思えたという  さもありなん 道もない陸の孤島のような所だったからね
 
 左 寂塚 以下本隆寺境内       中 芭蕉句碑  寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋       右 萩塚 芭蕉翁杖跡の碑 小萩散れ ますほの小貝 小盃
  
 上はネットより拝借した ますほの小貝 と言われる画像  参考までに載せました 現在の存否は不明