五 幡 ・ 帰 山

越前一級の歌枕と言われる五幡・帰る山だが中々分かり難く確定した山は不明のようだ  国道407号線沿いにある今庄宿鹿蒜神社の後ろにある山岳一帯が帰る山であると言う説がある 鹿蒜=かびるを帰るにかけたものなか? は分らない 古来五幡と帰る山が対で詠まれる歌が多くある おそらくは都から出る人にとって又ハ戻る人にとってもこの山岳峠を越える難儀さゆえ都への羨望の気持ちから五幡を何時にかけ帰れるかを帰る山に掛けて詠んだのでしょう  いつ又帰るを連想させますね 所が鹿蒜神社の近くに五幡なる地名が見つからない 古来都から越前・越の国へは琵琶湖の北部山岳を越える必要があった それには日本海若狭に抜ける愛発関を越へてから一旦敦賀に出てから山岳ルートの木の芽峠を越えて今庄宿から越前武生へと行くルートと 海岸線を行き中山峠を越えて今庄宿へ出る(鹿蒜道)ルートの2つがあった そこで越前町の海岸ルートを探してみるとそこに帰る山観音と式内社五幡神社があったので少し納得できた  これらのルートは都と越を隔てる最大の難関の地であった そのために旅人にとっては忘れられない所となったのでしょう  だからあの清少納言も枕草子の中の山の項では『山は おぐら山・かせ山・・・いつはた山 かへる山・・・のちせの山・あさくら山・・・等』18の山の名を記している事でもその難儀さは知れ渡っていたのでしょう  天長7年(830)以前から明治半ばに到るまで1200年近く利用された官道で大河ドラマで話題の光る君の藤原為時と紫式部・その弟惟規親子のような多くの古代国家の国司達 そして義経主従や道元・親鸞のような宗教家.達 勿論源平・織田・豊臣・徳川家の多くの武将達や 紀貫之・西行・芭蕉のような文人墨客が艱難辛苦の末に通過した道なのです 幕末には尊王攘夷論の武田耕雲斉水戸天狗党一行180数名が そして明治11年には明治天皇の北陸巡行に際しても木の芽峠を越えた歴史に残る道と峠なのだ  福井県はこの峠で嶺南(若狭)と嶺北(越前)に分けられている

かへるみの 道行かむ日は 五幡の 坂に袖振れ われをし思はば       万葉集巻18-4055  大伴家持
君をのみ いつはたと思ふ 越なれば 往路は来の 遙けからじを          後撰和歌集 読み人知れず
忘れなむ 世にも越路の 帰山 いつはた人に 逢はむとすらむ              新古今和歌集  伊勢
かきくらし 越のかた道 ふる雪に いつはた山を 思ひこそやれ             夫木和歌集  藤原載綱
ゆき巡り 誰も都に かへる山 いつはたと聞く  程のはるかき                紫式部集  紫式部
かならずと 還りこむ日を 契らなば いつはた山の いつとか待たむ          あづま歌集  加藤枝直
かへる山 ありとは聞けど 春霞 立ち別れなば こひしかるべき                 古今和歌集 紀 利貞
白雪の 八重ふりしきる 帰山 かへるがへるも 老いにけるかな                古今和歌集 在原棟梁
   あかずして 帰るみ山の 白雪は 道もなきまで うづもれにけり             続後撰和歌集  左近大将朝光  
ともすれば 跡たえぬべき 帰る山 越路の雪は さぞ積もるらむ                  読み人知れず  
いかばかり 深き中とて 帰る山 かさなる雪を とへとまつらむ                     藤原定家    
越えかねて いまぞ越路を 帰る山  雪降る時の 名にこそありけれ            千載和歌集 源 頼政           
帰る山  名にぞありて あるかひは 来てもとまらぬ 名にこそありけれ        古今和歌集 凡河内躬恒
たちわたる 霞へだてて 帰る山  来てもとまらぬ 春の雁がね        続拾遺和歌集 入道二品親王性助  
雁がねの 花飛び越えて かへる山 霞も峰に のぼるもの哉                         方角抄
ふるさとに 帰る山路の それならば 心やゆくと 雪も見てまし                  紫式部集 紫式部
草の葉に 門出せる身の 木部山 雲に路ある ここちこそすれ                       道元禅師
忘るなよ 帰る山路に 跡絶えて 目数は雪の 降り積もるとも                       千載和歌集 俊頓
跡も絶え しおりも雪に 埋もれて 帰る山路に まよひぬる哉                 千載和歌集  右大将実房
帰る山 いつはた秋を 思ひこし 雲居の雁も 今や逢い見む               続後拾遺和歌集 藤原家隆
我をのみ 思ひつるがの 越ならば 帰るの山は 惑はざらまし             後撰和歌集  読み人知れず
都人 くれるはやがて帰る山 河ぞはひとり とまる庵ぞ                     夫木和歌集  兵衛内待
けふまでは 雪ふみわけし 帰る山 これより後は 道も絶なむ               玉葉和歌集 観意法師
頼めても はるけかるべき 帰る山 幾重の雲の 下に待つらむ               新古今和歌集 加茂重政
猿もなほ 遠方人の 声かはせ われ越わぶる  たこの呼坂                    紫式部集 紫式部
延喜式神名帳記載の鹿蒜神社 福井県南条郡南越前町今庄75-10  鹿蒜宿は都から来る者にとっては愛発関を越え木の芽峠をやっとの思いでこえてきてホットできる宿駅だったろうしこれから都へ帰る者にとってはこれから越える難所に備える宿駅だったのではないでしょうか 奈良時代に於いては畿内と北国を結ぶ唯一の官道だったが今日的には限界集落と言っても言い過ぎではない中山間地域にあり人影はない この後ろの山々が帰る山と言うがこの辺り越前を北嶺・南嶺に分ける地だけに総てが山の中で定め難しと言うのが正解だ
左端 鹿蒜神社由緒 その出だしの文言には『当神社は文武天皇の文武2年(698)創立の古社にして加比留神社とも称せらる 当地は奈良時代より鹿蛭郷宿駅が置かれ中世鹿蒜郷領守の神として厚く崇敬されたり 第60代醍醐天皇の勅命により延喜5年(909)編集されし延喜式神名帳の記載なり』とある 後部には大伴家持・紀利貞・松平春嶽の和歌が記載されている   帰る山? 鹿蒜神社背後の山並みで帰る山の説があるが定かではない ことに海岸線を通る鹿蒜道と言われる県道207号線沿いに帰る山観音がありその所在は定かではないようだが歌の数で越前一の歌枕の地である
左端 帰る山観音霊場 敦賀市江良19-8 敦賀市の海岸線を走る国道8号線沿いにある 古代北陸道は敦賀から木ノ芽峠を越えて今庄へ出るのが本道であるが、敦賀湾沿いの道もあった いわゆる鹿蒜道である 鎌倉時代の万葉集の注釈書仙覚抄には「イツハタノサカ、越中・越前国ヘコエルニ、二ツノ道アリ イツハタ(五幡)コエハ、スイツ(杉津) キノベコエ(木ノ芽越)ハ、ツルカノ津ヘイツルナリ キノベコエハ、コトニサカシキ道也」と記している 「枕草子」の「山は」の段では越前の山として「かへる山」と並べて「いつはた山」をあげている 所がその帰る山がどこの山なのかははっきりしていないのだ 中 延命大乗水聖観世音菩薩お堂  右端 霊場内にある無縁塔縁起の碑  地名の由来の記載など彫られている 
左端 帰る山観音延命大乗湧水地 この湧水の御利益がネット上に乗っていたのでそのまま記載『戦時中に観音菩薩信仰のお陰で九死に一生を得た桝野健治さん(70) 昭和40年夢枕に立った観音様のお告げに従って梅の木のほとりを掘ると地下30mから清水が湧き出した 糖尿病・リュウマチ・痛風・脳梗塞・癌・アトピー性皮膚炎などに効能を現わす冷水であった』(以下略)との記事が日刊ゲンダイ平成11年1月25日に記事として出ていたもの  その他の画像には大勢の人がポリタンクを持参して集合してる画像もあった  中 延喜式内社五幡神社 敦賀市五幡84-8 R8号線から少し外れたこの草木に囲まれ周りは田圃のこの鄙びた神社  然も画像にはないが頑丈な金網で囲まれていて中に入ることが出来ません とても歌枕で有名な延喜式神社とは見えないが古来大伴家持・紫式部・藤原定家等一級の歌人に数多く歌に詠まれた所で有ることを忘れてはならない 右端 五幡神社境内の中にある万葉歌碑 (中に入れないのでHatenaBlog より拝借) 可敝流未能 美知由可牟日波 伊都波多野 佐可尓蘇泥布礼 和礼乎事於毛波婆 (大伴家持 巻十八 四〇五五) かへるみの 道行かむ日は 五幡の 坂に袖振れ 我われにし思はば 大伴家持 万葉集巻18-4055

五幡山 (この神社の裏山か?)

古来の名所平安期以降の歌枕で五幡の坂ともいい・五幡にある上の山かともいい・古代の交通路帰山路の道筋にある山ともいい・越前国府(武生市)から鹿蒜谷(南条郡今庄町)を経て山中峠付近を越えて杉津に出たその杉津東方の山地とも考えられるというが定かではないようだ 山名の由来は仲哀天皇の御代蒙古軍が当地を攻めた時五本の幡が天から降り下って敗走させたことによる(越前志抄)ともいう 山の麓にある画像の式内五幡神社はその旧跡とされる 確かにこの鳥居の奥には長い石段があるのが見える 上の無縁塔縁起の碑には『五幡の地名の由来も天平20年霜月(748)敦賀の浦に鉄輪を首領とする蒙古軍が襲来した その時区の高き山頂に不思議にも五色五流の御旗(幡)が天から現れて大いに我が軍の将兵の士気高揚が奮起し蒙古軍を破ったことに由来する』 とある