沖 津 島(舳倉島) 

珠洲の海の 沖つ御神に い渡りて潜き取るといふ 鮑玉    万葉集 巻18-4101 大伴家持

沖つ島 い行き渡りて 潜くちふ 鮑玉もが つつみてやらむ   万葉集 巻18-4103 大伴家持

輪島市海士町に属している舳倉島は輪島市の北方48km海上に浮かぶ島で東西2km、南北1km、面積60ヘクタールの島 島の南端に奥津比咩神社が鎮座している この島は古くから日本海海上交通の要所であり近くから5~9世紀頃のシラスナ遺蹟が発見されている 昭和43年には能登半島国立公園に指定されている 日本有数の渡り鳥のオアシスとして知られ優れた自然環境と貴重な動植物の保全が図られている 近世初頭に筑前より渡来の海士又兵衛以下12名が舳倉島を根拠にして漁業を営むようになり古くからの在地の西宮を信仰し海士の故郷の宗像神社の信仰と相まって当社を産土神と仰ぐようになった 昭和50年に輪島市鳳来山に里宮奥津比咩社殿を新築し
 

御陣乗太鼓の碑  輪島市名舟町34 天正4年(1576)越後の上杉謙信は能登の名城七尾城を攻略 「霜は軍営に満ちて秋気清し 越山を併せたり能洲の景」 と詠じ余勢を駆って奥能登平定に駒を進めた 珠洲市三崎町に上陸した謙信は破竹の勢いでここ名舟村に押し寄せてきた 半農半漁の村民には武器らしき物はないが郷土防衛に燃える村民達は樹木の皮で仮面を造り海藻で頭髪にして太鼓を打ち鳴らし寝静まった上杉勢に夜襲をかけた 上杉勢は不意の陣太鼓と怪奇極まる怪物の夜襲に驚愕して戦わずして退散した 村人は名舟沖舳倉島の奥津姫神の御神徳による物として毎年奥津姫神社の例大祭には仮面を付け太鼓を打ち鳴らして氏神への感謝を捧げる習わしとなたと言う 右 奥津比咩神社 碑の正面の丘陵にある

 左 大伴家持万葉歌碑 奥津比咩神社鳥居の前 沖つ島 い往き渡りて 潜くちふ 鮑玉もが つつみてやらむ 中 ネットより拝 右 輪島市キリコ会館 輪島市マリンタウン6-1
左.キリコ(切籠) 生憎キリコ会館が閉店後だったのでネットより拝借 発生はっきりしないようだが疫病退散を願ってとも 正保3年(1647)の輪島住吉神社の祭礼定め書には切籠(キリコ)の文字が見えるという  高さ数メートルから十数メートルものキリコ吉祥文字の書かれた巨大灯籠に点灯して今でも能登の137の地域で行われている 2015年文化庁による日本文化遺産に登録された  右 輪島駅 輪島市河井町1-131 かってのと鉄道七尾線の終着駅でした 2001年穴水~ 輪島駅が廃線となり廃駅となった 駅跡は道の駅輪島(ふらっと訪夢=プラットホーム)となっている 次は シベリア のジョークが日本海沿岸の駅だった事の名残ですね
 上 重要文化財西保の竹垣 間垣の里 輪島市上大沢町4-60  西高東低 冬の日本海のシベリヤからの雪を伴った季節風の厳しさが生んだ町並み風景 苦竹や真竹で家の敷地を全部ぐるりと囲んだ集落  一見異界の地に迷い込んだような不思議な雰囲気に捕らわれます 大沢町と上大沢地区の二箇所に見られ家の様子は全く見えない
左 男女瀧(なめたき) 輪島市西二俣地内 県道38号輪島浦上線沿いにある能登国定公園周遊ルートにある  流れが二筋になってるのでこの名がある 本流が女 支流が男だそうだ  中 男女川(みなのがわ) こは茨城県つくば市 筑波山を源流とする小川の男女川 歌枕として名高い 同じ男女の文字でも共に呼び名が面白いので比較のために載せた 右 大本山総持寺租院の正面入り口 輪島市門前町門前コ1-18
 山号はは諸嶽山 曹洞宗寺院 瑩山紹瑾により元亨元年(1321)創建 翌2年後醍醐天皇より綸旨が下され賜紫出世第一の道場に定められた 勅願所曹洞宗かつてはここが大本山総持寺でした 所が明治31年(1898)の大火で消失し明治41年(1910)本山機能が神奈川県横浜市に移転したため能登の総持寺は総持寺租院と改名して別院扱いとなった 上の山門は総欅木造 高さ17.4m 間口20m 奥行き14.4m 畳一枚分の扁額諸嶽山は前田利為公の筆による 右端は伝燈院 700年の法灯を今に伝える当院宗門最高崇敬の中心の建物
 
 当院は瑩山紹瑾禅師の祖廟として火災後も次々と堂宇が再建造され法堂太祖堂 伝燈院 慈雲閣 経堂等他七堂伽藍を極め全国1600余の末寺を有する大本山となった 山水古木と調和し風光幽玄な曹洞宗の大本山 早朝のため正面山門の画像が暗くなったのが残念