汐 越 の 松 終宵 嵐に波を はこばせて 月をたれたる 汐越の松 西行法師 年波の 外にも高き 汐越の 松の昔ぞ くみて知らるる 回国雑記 聖護院道興 奥の細道で芭蕉が加賀国を越えて越前福井県の県境での記述の中で 『吉崎の入江を舟に棹さして汐越の松を尋ぬ 終宵(よもすがら) 嵐に波を はこばせて 月をたれたる 汐越の松 此の一首にて数景尽きたり もし一弁を加ふるものは無用の指を立つるがごとし』 とまず記している なるほど 他にいうことはありません と 余りにも素晴らしい歌をまえにしてはさすがの芭蕉も一句も作らずにすませたのである 所がこの歌は西行のどの歌集にも載っていなく蓮如上人の御文集には載っているので蓮如の作ではないかともいわれている 近くの吉崎御坊は蓮如縁の地である 芭蕉の勘違いかも知れません 国指定史跡の吉崎御坊は蓮如が北陸での布教の中心拠点としたところで蓮如の里と言われている 吉崎御坊は戦国時代の末法の世の中で人々の心に平安をもたらし日本人の精神を高めた偉大な宗教家いた その名は本願寺第八代法主蓮如上人 本願寺を我が国最大の教団へお押し上げた浄土真宗開祖で中世から近世への扉を開き我が国の精神文化の基礎を築いた その出発点が越前の国吉崎の地に建立した吉崎御坊である |
左端 蓮如上人記念館 中左 蓮如上人像 中右 文明七年八月 吉崎を去るに当りの和歌 終夜 たゝくふなばた 吉崎の 鹿島つゞきの 山ぞ恋しき 汐越の松の 終夜 旅立ちの歌の 終夜 と同じなのは無縁ではないでしょう 二つの歌の作者が同一なのを想像させるに十分だ |
左端 蓮如上人記念館 あわら市吉崎2 中 記念館の庭園の裏手には日本海につながる北潟湖や300年間一度も木が切られたことのない国指定史跡天然記念物の鹿島の森がある 右端 蓮如上人によって示された浄土往生に必要な五重の義(1,宿善 2,善知識 3,光明 4,信心 5,名号)を成就しなれば往生は叶わずと説かれた宿善の野で その教えを京都大谷本願寺 大谷暢順御法主台下が回遊式庭園ミュージアムとして再現し具体的に体現できる素晴らしいお庭で下の画像がその一部である |
左端 善知識の岩 中 光明の池 右端 信心の橋 を表している 周り北潟湖に囲まれていて絶景である |
左端 名号の瀧 中 吉崎御坊石碑 右端 千歳山 本堂跡が残るこの千歳山の森の中に御坊跡や蓮如上人像とかがあるのだが時間の関係で割愛した |
左端 蓮如上人と地元の名主大家彦左衛門吉久(初代吉崎寺住職)の説明板 中 蓮如上人を背負う慶聞坊 文明3年 浄土真宗本願寺の8代蓮如上人は京都よりこの地にて布教を始め北陸の拠点とした 吉崎地方の名主大家彦左衛門吉久が本堂建立に千歳山を寄進したり文明6年3月28日の火災により山上の本堂が火災に遭ったとき蓮如上人を背負うって避難する大家彦左衛門吉久(初代住職慶聞坊)像 |
歌枕 汐越の松 芦原ゴルフクラブ 福井県あわら市浜坂66 芭蕉も立ち寄った江戸時代には汐越の松は見事な松の森があったことでしょう 現在はゴルフ場のど真ん中で綺麗にカットされた柴の真ん中に碑が立っていまいした 左端 クラブの入り口にある奥の細道の一説碑だが手前に垣根が密集していてこんな形で撮影 中 前述の碑の文言が彫られてる 越前の境吉崎の入り江を舟に棹して汐越の松を尋ぬ・・・ 右端 奥の細道汐越の松遺蹟 |
予想はしていたがゴルフ場の余りの綺麗に手入れのされた汐越の松では仕方ないですね 講談社学術文庫奥の細道前註釈に 吉崎の対岸 浜坂の部落の日本海に面にした砂丘にあった 数十本の松 安永2年浜坂浦明細帳には「汐越の松五十七本」と見えうち16本までには『見とれ松 くらかけ松 こしかけ松 からかさ松 駒つなぎ松・・・』など個別の名前が付いていた模様である とある いずれにしろ松の一本一本に名前が付けられていたとは驚いた 海岸には黒松が多いがここは赤松のようだ |
左端 国定公園越前海岸 東尋坊 中 転園記念物名勝東尋坊 右端 名勝東尋坊 坂井市来ケ崎 東尋坊は凡そ1kmに及ぶ大規模柱状節理海岸 こレ程の規模は世界でも珍しく柱状節理世界三大奇勝とされてる 天然記念物を始め日本地質百選・日本の夕日百選でもある 東尋坊の特異な名の由来は勝山市にある平泉寺の悪僧の名から来ている この海岸で宴会をしていて酒に酔った東尋坊を他の僧達が崖っぷち突き落とした と言う伝承から来ている |
柱状節理とは溶岩やマグマが冷えて固まるときにできる割れ目の事 マグマが地表近くまで上昇すると温度が下がり体積が小さくなり縮む そのときに五角形や六角形の柱状の割れ目ができる これを柱状節理という |
右画像は東尋坊の全体像を知るために福井県公式観光サイトより画像を拝借した物 |
左端 国重要文化財 三国港突堤( 日本遺産北前船データベースサイト) 明治に三国港は九頭竜川が運ぶ土砂の堆積を抑制して港湾の機能を維持するために建設された西洋式突堤 三国の豪商6人が発起人となって設計をG・A・エッシャー(エッセル)、工事監督をヨハネス・デ・レーケが担当し明治11年に着工同15年に竣工した 設計者の名前から「エッセル堤」とも呼ばれる 北前船の出入りの妨げを改善するため九頭竜川河口に築造された西洋式突堤 中・右端 高見順生家 坂井市三国町北本町3丁目3−48 小説家、詩人 出生に関わる暗い過去や左翼からの転向体験を描き第1回芥川賞候補となった『故旧忘れ得べき』で一躍注目を浴びた その後も『如何なる星の下に』『いやな感じ』などで高い評価を受けた 日本近代文学館設立にも尽力し初代理事長に就任 文化功労者 川端康成からその作品を 日本における最初の現代文学 と評された人物 |
左端 瑞雲山金鳳寺 坂井市三国町北本町3-3-7 中左 芭蕉初雪塚 金鳳寺境内 初雪や 水仙の葉の たわむまで 中右・右端 日和山吟社由来の碑 北前船が盛んな時代九頭竜河口三国湊へも上方の俳諧が流入しここ湊が見下ろせる境内は日和山とも呼ばれ豪商達が俳諧結社日和山吟社を結成して盛んに句会を開催した その由来の碑 |
国重要文化財丸岡城祉 坂井市丸岡町霞町1-59 日本の桜名勝100選 織田信長の命により柴田勝家の甥柴田勝豊が築城 丸岡城を有名にしたの日本一短い手紙 徳川家康の家臣で鬼作左とも呼ばれた本多作左衛門重次は陣中から妻宛に出した手紙の文面が簡潔明瞭で的を得た内容に日本一短い手紙として世に知られた 一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ |
丸岡城は 福井県屈指の名城 日本100名城の一つ 天守は 現存12天守 と呼ばれ江戸時代以前に建設された天守が現存している北陸に唯一残る 別名霞ケ城 柴田勝家が越前北ノ庄に入ると柴田勝家の養子柴田勝豊が丸岡城主となる 石垣は野面積みとよばれる さらに特徴なのは屋根瓦や鴟尾が石で出来ているのはここ丸岡城だけ(上中) |
左端 本多作左衛門一門の菩提寺 本光院 坂井市丸岡町巽町3-3 本多家は成重の代慶長18年(1613)に丸岡城主になり寛永元年(1624)に4万6千石を拝領して初代丸岡藩主となり2代重能・3代重昭と続き4代重益の時お家騒動により改易となり所領没収にる 中 新田公墓所碑 菩提所長林山称念寺 坂井市丸岡町長崎19-14 右端 新田義貞公墓所 建武5年(1338)藤島庄燈明寺綴りで戦死した新田義貞を敵の足利高経は遺体を時宗の僧を付き添わせて葬儀のためここ往生院(時宗の称念寺)送り届けたという 又新田氏は徳川家の租と言われて大切に扱われ福井藩10代藩主松平宗矩は500回忌に際して五輪塔を建立した 尚新田氏と足利氏は源義家を父とする同じ源氏の兄弟である |
左端 新田義貞墓碑 中 明智光秀公の黒髪伝説と松尾芭蕉碑説明板 称念寺境内 驚いたことに弘治2年(1556)から10年の間明智光秀一家が避難していた所の説明板である 長良川での斎藤道三と嫡男達興との戦いで道三側に付いた明智光秀は敗れてここ称念寺に逃れてきた 後の細川ガラシャのお玉はこの地で生まれた 称念寺の住職が明智のため戦国大名朝倉義景への登用のため連歌会開いた 然し浪人中で金のない光秀のために妻煕子が密かに黒髪を売って賄い費用捻出したという伝説である .奥の細道で立ち寄ってその咄を聞いていた芭蕉は伊勢に帰ってから弟子の島崎又幻宅で貧しいながらも暖かいもてなしを受けた又幻夫妻に右の句をよんだのです 右端 芭蕉句碑 月さびよ 明智が妻の はなしせむ ばせを 将軍明智が貧のむかし 連歌会いとなみかねて侘び侍れば 其妻ひそかに髪をきりて 会の料にそなふ。明智いみじくあはれかりて いで君 五十日のうちに輿にものせんといひて 頓(やが)て云けむやういなりぬとぞ 又玄妻にまいらす との文言が彫られている |
左 勝山城祉の碑 勝山市民会館 勝山市元町1丁目5−16 柴田勝家の一族柴田勝安が築城 江戸時代元禄4年入った小笠原氏により統治された 右 地元の篤志家が建築した新勝山城 勝山市平泉寺町85-26-1 勝山市の博物館になっている 高さは日本一で立派だが歴史的価値はない 石垣に彫られた龍のレリーフは珍しい 勝山市の名の由来 天正2年(1574)平泉寺は一向一揆衆により全山消滅した この時の一揆衆の拠点のあった村岡山はこの勝利で勝ち山と呼ばれた |
左端 白山平泉寺入り口 中左 国指定史蹟 白山平泉寺旧境界の碑 中右 日本の道100選碑 右端 平泉寺白山神社参道の碑 白山神社に通ずる当時の石畳の参道は現在700mほど残っていて中世僧兵達が九頭竜川の川原の石を運んだ云々・・・ とある 平泉寺には長いこと是非訪ねたい地でした 何故なら陸奥岩手県奥州市平泉の語源がここ越前白山平泉寺から来ている 白山平泉寺の開山は717年泰澄による 天台宗延暦寺開山は806年最澄(伝教大師)による 天台宗延暦寺大三法主円仁(慈覚大師)は東北布教を開始し850年奥州に中尊寺を開山した 1084年白山平泉寺は延暦寺末社となる この事情から奥州に中尊寺を開山したこの地を円仁は平泉と命名した と想像している 他に国指定には白山国立公園・歴史の道百選・かおり風景百選・美しい日本の歴史的風土百選 がある 勝山市平泉寺町平泉寺56-63 |
左端 うらやまし 浮世の北の 山桜 芭蕉句碑 中左・中右 開祖 泰澄大姉廟 右端 白山中宮 平泉寺の碑 参道沿いにあった 平泉寺白山神社に伝わる天文6年(1537) に成立したという霊応山平泉寺大縁起によると『秀衡は寿永2年(1183)白山へ銅像2体を奉納し平泉寺へは釣り鐘を寄進した その後愛孫一人を平泉寺へ使わした それが金台坊である』との記述がある 現在平泉の中尊寺にも白山社があり秀衡建立の無量光院にも白山社が存在した 中尊寺の白山神社には現在も能楽堂がありそこで行われた能楽は中尊寺最大の年中行事であったと言う このように越前平泉寺と奥州平泉とは深い繋がりがある |
左 参道 入り口から白山平泉寺までの苔むした広々とした参道と大木の杉木立 木漏れ日が延々と続く 右 苔生した平泉寺境内 司馬遼太郎の街道を行く 越前の諸道のなかで彼は 『10年前ここに来たとき広い境内全体が冬布団を敷き詰めたような分厚い苔で覆われていて驚いた 苔の美しい季節だからそう思ったのか 京都の苔寺の苔などこの境内に広がる苔の規模と質から見れば笑止である・・・中略 こんな苔見たことない須田画伯はうずくまってしまった この苔の色は日本画で言う百緑ですね と画伯はつぶやいた・・・』 とある さらに『然も苔寺は金を摂って収入を得ているが平泉寺は無料である 既に社寺の観光化と金儲けが常識になっちる事も肝に響くほど驚かされた』とある 誠に記述通りの一面の苔の見事な絨毯である その上5月中旬のシーズン中にも関わらず人影がまばらなのもこの上なく好ましい |
左 御手洗池 泰澄開山当時は平清水・平泉と言われ平泉寺の語源となる 右 苔と杉古木の中の拝殿 司馬遼太郎氏の街道を行く 越前の諸道で彼は『中世平泉寺は悪僧の集団だった 平泉寺の米塩に集まるのは田畑の相続が出来ぬ次男三男で記録に表れる平泉寺の歴史から知的栄光を感じさせるものを探すのは困難だ』とある。『平泉寺に行けば食える、と名ばかりの僧侶が集まり武装化したという 宗教活動というより食うため勢力拡大のための武力行使が目立っていたらしい 心が猛々しく腕力も強い者が寺領の防衛や管理の役だった 南北朝時代平泉寺の名で代表される勢力は日本国一番の法師大名と呼ばれ平泉寺に行けば食えると言う事から諸国から浮浪の人々が集まった 48社・36堂・僧堂6千・僧兵8千・寺領9万石とも言われ北陸路の武力勢力の中心だった。修験者・衆徒などと呼称するが本質としては寺院の暴力装置を支える人々であった』とある 現状の自然景観からはとても想像できない記述である ご存じのように織田信長は僧侶の武装化に腹を立て比叡山の焼き討ちをした話は有名だが、ほぼ同時期にこの平泉寺は農民の一向宗徒に焼き討ちにされ消滅した |
左 平泉寺本社 中・右 南谷の発掘現場 建設当時の石畳 町づくりに石を利用する高度な技術をもって全国に先駆けて中世に石畳の道や石垣を計画的に整備した国内最大級の宗教都市で当時の石畳がそのままに発掘された現場 発掘されたのは全体の僅か10%程で残り390%は未だ畑の下だそうである 白河法皇による『天下三不如意』の言葉は有名 |
左 越前大野城 右 天空の空 越前大野城 福井県大野市観光交流課サイトより 大野市城町3−109 天正3年(1575)織田信長は金森長近と原政茂の二人に大野郡の一向一揆を収束させた恩賞として大野郡の3分の2を金森へ3分の1を原与えた 翌年金森長近が亀山に築城開始した その麓には京都に似た短冊状の街造りを整備し現在も越前の小京都と呼ばれている |
左3点 大野城 右端 朝倉義景の墓地 大野市泉町10 |
左 朝倉義景史蹟 戦国武将であったが一面文化人でもあった朝倉義景 浅井・朝倉連合で織田信長をあと一歩の所まで追い詰めながら取り逃がした金ケ崎の戦い 姉川の合戦で浅井長政が敗れたのち信長によって一乗谷城へ侵入を受けた 従兄弟の朝倉景鏡のすすめで大野へ逃れたが織田と内通していた景鏡によって織田軍の急襲を受けこの地で自害した 右 大野城からの大野市街遠望 大野市のキャッチコピーは『結の故郷(くに)』だそうだ そしてかっての面影をいろ濃くのこす町並みは『北陸越前の小京都』も呼ばれている 日本有数の豪雪地帯で特別豪雪地帯に指定されている その膨大な積雪は又有り余る豊富な水量として恩恵を与えていて『名水の里』として各地に湧水池を形成している |
左2点 日本名水百選 御清水(おしょうず) 大野市泉町10 右端 国指定天然記念物 いとよ生息地 本願清水 大野市糸魚町8-44 越前大野城を築いた |