玉   江

奥の細道の中に玉江の句の記載は見当たらない 奥の細道の文章には敦賀に向う途中に 『漸ゝ 白根が嶽かくれた比那が嵩あらはる あさむづの橋をわたりて玉江の蘆は穂に出でにけり』 とあるだけである ただ古今和歌集という平安時代の900年前後の歌集に都から遙か遠方のこの地が載ってるには何故なのでしょうか? 月見に蘆や芒は日本の原風景である その蘆が刈り取られ前に月見に来なさい と言うことでしょう 素晴らしい蘆が繁茂る名所だったのでしょうね

草刈りの 芦のかりねも あわれなり 玉江の月の  あけがたの空    古今和歌集 藤原俊成
月見せよ 玉江の芦の 刈らぬ先                          奥の細道 芭蕉
玉江こく 蘆刈り舟を さしわけて 誰をたれとか 我は定めん      後撰和歌集 読み人しれず
夏刈りの 玉江の蘆を ふみしだき 群れゐる鳥の たつ空ぞなき     後拾遺和歌集  源重之
玉江漕ぐ もかりの舟の さしはへて 波間もあらは よらんとぞ思ふ 拾遺和歌集 読み人知れず
なつかりの 玉江の蘆の 短夜に 見る空もなき 月の影かな               忠房親王
みごもりに 蘆の若葉や 萌えつらむ 玉江の沼を あさる春駒         千載和歌集  藤原清輔
夏刈りの 玉江の芦の 短夜に 見る空もなき 月の影かな                    忠房親王
 朝六ツ(あそうづ)橋・ 浅水橋

清少納言の枕草子橋の項に『橋は あさむの橋 長柄の橋 あまびこの橋 濱名の橋 一つ橋 うたたねの橋 狭野の舟橋 堀江の橋 かささぎの橋 山すげの橋 をつの浮橋 一すじ渡したる棚橋 心せばけれど名を聞くにをかしきなり』とそのトップに取り上げている

 松尾芭蕉の「奥の細道」に『あさむつの橋をわたりて、玉江の橋は穂に出でにけり』とある このあさむつ橋には新田義貞の妻である匂当内侍に関する悲恋物語がある それは義貞が越前平定も間近と思い近江国で待っていた匂当内侍に越前に来るよう知らせたが灯明寺の戦いで戦死してしまった 戦死を知らずに越前に向かった匂当内侍は国府に引き上げる義貞の弟である脇屋義助と麻生津橋で出会い夫の戦死を聞いて悲嘆にくれ気絶してしまった みんなで介抱した結果朝の六ツ時に気がついたのでその橋に朝六ツという名前がつけられた  朝六ツ橋は、北陸道を往還する人たちに親しまれ多くの歌が詠まれている。 然し清少納言は新田義貞の凡そ350年も前の人で有ることを考えるとずっと以前から何らかの理由で有名な橋だったのでしょう

あさみづの 橋は志のびて 渡れども とどろどころに なるぞ侘しき          夫木和歌集  宗祇法師
ことつてん 人の心もあやうきに ふみたにも見ぬ あさむつの橋                    藤原定家
浅水の あかむくことは よもあらじ その如月の 望月のころ                        西行法師 
黄昏に 寝覚めて聞けば 朝六ツの 黒戸の橋の ふみとどろかす            帰雁記  読み人知れず
朝六つや 月見の旅の 明けはなれ                            芭蕉
朝六の 橋や田植えの むら雀                                居士 
左端 特別史跡 一乗谷朝倉氏遺蹟の碑       中 遺蹟一乗谷遠景 福井県公式観光サイトより           右端 一乗谷史跡発掘現場 
日本のポンペイとも言われるこの一乗谷遺蹟は国の特別史跡・特別名勝、出土品は重要文化財に指定されていて三重の国指定は珍しいとのこと
 
                           左 一乗谷遺蹟入り口にある下城戸の石垣                     右 発掘現場の跡
越前朝倉氏は5代103年間に渡り一乗谷を治めていた 当時の一乗谷は応仁の乱で荒廃していた京の都から大勢の文化人が避難していて華やかな一乗谷文化が花開いていた 人口は一万人を越えていたとされ越前の中心地として栄華を極めた 然しながら世は戦国時代 5代義景の時代に織田信長に敗れ侵入を受け彼の軍勢により火を放たれ消滅した 名が示すように谷の狭間に細く伸びた城下町はそれから400年にわたり人目にも触れず田畑の地中の下に埋もれたままだったのだ  2000年間の眠りからのポンペイには及ばないが・・・
 
 
 2点 福井市公式観光サイトより拝借した復元町並み  不覚にも復元町並みの存在には全く気付かなかった
 左端 五代朝倉義景墓地の墓地           中 朝倉家家紋 三ツ盛木瓜             右端 織田家家紋 織田木瓜 
朝倉氏の家紋は三ツ盛木瓜と言われ但馬国日下部氏の流れを汲むという 初代廣景・2代嵩景・3代氏景・4代貞景・5代教景・6代家景・7代孝景・8代氏景・9代貞景・10代孝景・11代義景である 同じような家紋の裏には朝倉氏と織田氏の意外に浅からぬ関係があったのです 元々朝倉氏の祖先は斯波氏の家臣であったが尾張の守護職であった斯波氏はその守護代に織田氏の祖先を赴任させた つまり朝倉氏と織田氏は斯波氏の同じ家臣であったと言う 織田氏は同じ越前が発祥の地であり朝倉織田は同僚的関係だったのです 4代貞景の時にはその娘を織田氏に嫁がせていたのです つまり以前は姻戚関係にあり織田木瓜その時に朝倉からもらったものがルーツとなっているとの事 いずれにしても遠い昔は親しい氏族同士であったという  まことに奥深い歴史がこの史跡にはあるのです
左端 曹洞宗大本山 永平寺入り口参道 吉田郡永平寺町志比5−15  中 日本曹洞宗第一道場 吉祥山永平寺  春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけれ  道元禅師 と彫られている  越後の良寛さんの歌に 形見とて 何か残さむ 春は花 夏ホトトギス 秋はもみじ葉  と言うのがあるが 道元禅師を本歌取りとしているといわれる   右端 炬火採火之碑 昭和43年第23回 国民体育大会炬火採火之 つまり43年の国体の聖火は永平寺の油断を戒める不滅の法灯から点火されたもの
左 正門  開祖道元による日本の曹洞宗を代表する大本山          右 唐門  新しい住職を迎えるときにだけ開かれます
 
 
永平寺は全国に15000以上の末寺を持つ 曹洞宗大本山 道元禅師により開創された参禅修行の道場  樹齢600年以上の鬱蒼たる古木に囲まれた深遠幽谷の地に7堂伽藍を中心に70の堂宇が並ぶ 深い古木の森林を知るため右はyahooトラベルから借用したもの  ・・・50町ほど山に入って永平寺を礼す 道元禅師の御寺也 邦機千里を避けてかかる山陰に跡をのこし給ふも貴きゆへ有とかや・・・ 芭蕉 奥の細道
 

・・・漸 白根が嶽がくれて比那が嵩あらはる  あさむつの橋をわたりて 玉江の芦は穗に出けり  鶯の関を過ぎて湯尾峠を越えれば燧が城 かへるやまに初雁を聞き手十四日の夕つるがの津に宿をもとむ・・・・芭蕉 奥の細道  左端 朝六つ橋 麻生津橋の歌碑 福井市浅水町14-29   越に来て 富士とやいはむ 角原の 文殊がたけの 雪のあけぼの 西行   朝六つや 月見の旅の 明けはなれ  芭蕉   中左 清少納言が『枕草子』で「橋は あさむつの橋」とあげ催馬楽にも歌われて以来、藤原定家 松尾芭蕉らの歌句に詠まれた名所である 近世にはこの橋を境に北の浅水村 南の浅水二日町に分かれ 橋北詰の陣屋跡と南詰の人馬継立を行う問屋を中心に発達した宿場であった 浅水から南に進めば次の宿駅は水落であり 北に行けば花堂から福井城下へ 東に進めば東郷を経て大野に到る交通の分岐点でもあった  平成三年辛未歳 邦雲書 と彫られてる

 左 あさむつ川浅水川  中・右 名所朝六つ橋 余りにも平凡な橋と川のコンクリートの流れに一寸拍子抜けしますね 近くには麻生津郵便局や小学校もある 然し王朝文化最盛期の清少納言の名指しにもあるように既に都にまで知名度があったには驚く その後ごも西行・新田義貞の妻勾当内侍の悲話・芭蕉など多くの人物が行き交ったかっての北国街道なのである 名前の由来は宿駅福井を夜明け前の早朝に発つと明け六つ(朝6時頃)にこの橋を渡ることからとか色々あるようだ   福井市浅水二日町  浅水町14-29付近
 左端 玉江の二の橋 福井市花堂中2-3-1   中左 狐川にかかる玉江の橋    中右 玉江の橋の説明板    右端 芭蕉の句碑と親鸞聖人片葉の蘆の碑
左端  玉江跡の碑  この付近一帯の小川は歌まくらに取り上げられたりして往時から知られている玉江の跡でありその名残を讃えた玉江二の橋の名で呼ばれいた ***奥の細道でここを通って   玉江 月見せよ 玉江の芦の 刈らぬ先  この句を詠んで以来歌枕のみならず俳句にもしばしば玉江の名が出るようになった 昭和34年3月建之  右端 親鸞聖人尾遺蹟の碑 片葉の蘆伝承の地  越後の親鸞聖人七不思議の一つに「片葉の葦」というのがあるが越前にも七不思議があり その片葉の葦は先年までここ花堂玉江一帯に繁茂していて聖人の遺跡として伝承されている  玉江二の橋の竣工を記念して有志相計り聖人の御遺徳を偲んでこの石碑を建立した 判読が十分ではないがそう言う内容のようである 御覧のように二つの橋の歌枕は極めて平凡な所で驚きました