ご存知六文銭と言えば信州上田の真田家の家紋である 三途の川の渡し賃に六文が必要だったからである その六文銭の山額が秋田県由利本荘市岩城亀田最上町に有るのです 其の寺は顕性院妙慶寺と言い真田幸村の娘お田の方(顕性院)の創建によるからだ 彼女の母は豊臣秀吉の甥(姉の子)で秀吉によって斬首されたあの秀次の娘隆清院である 大阪夏の陣で敗れた西軍真田一族のこの母子は身を町人変えて転々と身を隠していたが捕らえられ徳川幕府へ連行された 家康も幸村の妻子と聞いて驚いたが徳川方であった幸村の兄真田信之の計らいで人質として大奥に入るのです 偶々羽州秋田潘主佐竹義宣公が弟宣家公と共に都に上がったとき給仕役として彼女が選ばれた その時16歳であったと言う 諸々事情を聞いた義宣公は深く同情して弟家宣公(後の岩城宣隆)の側室(後に正室になる)に召し上げたのです 彼女と秋田の繋がりざっとこんな具合で寛永6年真田家菩提の為妙慶寺を建立て一族の冥福を祈ったのです(岩城町妙慶寺史蹟奉賛会栞) |
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馬場為八郎の墓石 顕性院妙慶寺境内 秋田県由利本荘市岩城亀田最上町
オランダ語で彼の座右の銘の 善を行いて悪を避けよ と彫られてる 文政12年(1829年)のシーボルト事件はご存知でしょう オランダ商館付き医師シーボルトが帰国の際に当時国外持ち出し厳禁の国勢地図(伊能忠敬の複製大日本沿海輿地全図)が発見された 当時幕府書物奉行高橋作右衛門景保がシーボルトが持っていたロシア提督グルーゼンシュテルン著の世界周航記や東印度地図が欲しくてその交換条件に渡したと言う この事件で連座したと言われる30数名が逮捕され其の中の一人にオランダ語通訳の馬場為八郎がいた 彼は高橋に次ぐ重大犯人として陸奥亀田潘主岩城隆喜公への預かりの処分をうけ文政13年永久牢獄(無期懲役?)の刑であったと云う 尚密告したのが間宮林蔵との噂もあるが定かでない |
物部氏発祥の地
秋田県大仙市協和境・協和舩岡にある逆合川上流の三倉神社・唐松神社は、日本で最初で最後の宗教戦争(587年)ともいわれる蘇我氏との戦いに敗れたあの物部尾輿・守屋の末裔の方が宮司をされてると言う古代史好きの方にとってはまさに垂涎の的の地があるのです。古来の神道派(物部氏)と新興の崇仏派(蘇我氏)との戦いである。物部氏の出自・由緒は勿論神話伝承の世界である上、その文書は古事記・日本書記・旧事本紀・物部文書等により様々であり一様ではないが、天降り・天孫降臨と東遷の記紀神話を持つのは物部氏と大王家(天皇家)だけの由緒ある氏族なのです。要約すると物部氏の祖は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)と言われ大陸若しくは海洋系の高度な文化を持った民族ではないかと思われる。そのフルネームも何と天照国照彦火明櫛玉饒速日命と長々しいのは其の権威の現れでしょうか。その租の八代後の膽咋蓮(いくいのむらじ)は神功皇后の三韓征伐の折に重臣として従軍した誇り高い武人だと言はれ、彼は三韓征伐の折に使用した皇后の妊娠中の腹帯を神宝として拝領、唐松神社に祀ったとして秋田物部氏の鼻祖としているのです。然し物部氏の天降りには伝承により大和物部氏と秋田物部氏とがあり、前者は河内の国斑鳩(いかるが)の峰、今の大阪府交野市の哮ケ峰でそこから大和国の鳥見の白庭山に東征し、後者は鳥見山の潮の処と云うのだそうだ。鳥見山は今の秋田鳥海山である。物部文書には「・・・・繁木之本トハ日本ノ古名也 鳥見山ハ出羽国ノ鳥海山ナリ・・・伝エテ曰ク 饒速日命国形ヲ見回リ逆合川ノ地ニ来リテ日殿山ノ山上日宮作ノ社殿ヲ造営テ大神祖神ヲ始メ天ツ御祖、地ツ御祖諸神等ヲ祭祀ラセ玉フ・・・・饒速日命ノ御住居マス玉へル所ハ御倉林ト号セリ 今ニ御倉棚ノ社アリテ十種の神宝ヲ安置キ奉リシ処ナリト伝フ 饒速日命長ク此地ニ住居マシマシテ天ツ神祭ノ御式ヲ伝ヒ玉フ・・・・而して終ニ西方大和ニ移出マシテ終ニ大和国ニ至リ住居玉フ・・・」とあるのです。饒速日命が大和国に東遷するとそこには既に原住民で狩猟民族と言われる長脛彦・安日彦の地であったが彼の妹三炊屋姫と結婚して平和的生活をしたという。 所がそこに神武天皇率いる日向族が稲作文明をもって九州から大和に攻め寄せてきたのです。然し一時神武天皇は破れ退却するが何と饒速日命が長脛彦を殺害して神武天皇に寝返ったため安日彦は敗北して心ならずも越の国から出羽・津輕へと逃亡したのです。日本書記には「えみすをひとり ももなひと ひとはいへども たむかいもせず」とある。つまい「蝦夷は一人でも百人を相手すると言う巷の噂だが誰一人手向かってこなかった」とある。現代風に言えば「蝦夷恐るるに足らず」でしょうか。安日こそ蝦夷の祖と言われる由縁なのだそうです。このようにしてにて天皇と結びついた物部氏は天皇の武士(もののふ)として、又日本古来の神である神道の守護者として頭角を現すのです。 そこに538年に仏教が伝来してきたのです。受験勉強の時には仏教伝来ご参拝(ごさんぱい・538)と暗記したものです。その魅力的新興宗教にのめり込込んだのが蘇我氏なのです。物部尾輿と蘇我稲目その子物部守屋と蘇我馬子との戦いとなり当初物部氏有利にもかかわらす聖徳太子が蘇我氏につき崇仏派に参戦する事により守屋は戦死するのである。これにより大和の物部氏一族は一掃され残党が大和を逃れ北陸から降臨の地秋田に安住の地を求めたのである。物部文書には「茲ニ於テ尾輿ノ臣、捕鳥ノ男速、守屋ノ一子、那加世三歳ナルヲ懐ニシテ東方蝦夷ノ地ニ逃げ来り遂ニ 祖先饒速日命ノ住居玉ヘル処、今ノ仙北郡境ノ地ヲ尋求来テ姓ヲ包ミ名ヲ改メテ隠レ住ム」とある。この地こそ饒速日命が鳥見山に天下り逆合川の日殿山に天神を祀り、その後神功皇后が三韓征伐の帰り膽咋蓮とともに唐松神社を祀った地であり謂わば、物部氏の聖地だったのです。神話・伝承としてもこの秋田の山中が物部氏の発祥の地とは驚きでした。又唐松神社の永正6年(1509)までは韓服(からまつ)神社と呼ばれていたと言うのです。勿論神功皇后の三韓征伐からきている。現名誉宮司は物部長照氏で物部家では秋田に転じた守屋の子那加世を初代としてるという。神話古代の歴史は未来を夢見る様に面白い。 (参考 秋田「物部文書」伝承 無明舎出版 物部・曾我氏の古代王権 吉川弘文館 協和町史 協和町) 次頁へ続く ➡
秋田 其の6 |