物部氏発祥の地 大仙市協和境   左の小山日殿山(唐松岳) 右端の杉の森唐松神社 鳥海山に降り立った饒速日命が国形を見回って雄物川の支流逆合川の地の日殿山日宮の社殿(現元宮)をつくったのです あの古代豪族の物部氏の伝承が陸奥であったとは目から鱗でした  尚この麓に唐松神社の生まれで東京帝国大学土木工学を首席で卒業した土木耐震額の草分けの物部長穂の記念館がある 帝国陸軍中将の物部長鉾は彼の弟である
唐松j神社参道の杉並木凡そ300m県指定天延記念物

日殿山(唐松岳)山頂の元宮跡 
鳥見山(鳥海山)頂に降り立った饒速日命がこの国を繁木之本命名して最初に大神祖神を始め天ツ御祖・地ツ御祖の諸神を祀ったところなのです それにしても無残な佇まいで罰当たりな宮跡ではある
 
蘇我氏に討たれた物部氏一族は源氏に討たれた平氏一族の様に落人として各地に潜んでいたに違いない 然し大化の改新で中大兄皇子と中臣鎌足によって蘇我の入鹿は討たれて流石の蘇我氏も滅亡した 雌伏300年続日本後紀承和7年(840)3月12日条には「宮城郡権大領外従六位勲7等物部己波美」・陸奥和記には『三位物部惟正が安倍貞任・重任等と共に斬首さる』とある  又源氏に味方して軍功のあった物部長頼陸奥の大目に任じられたが同姓同名が韓服宮記録にもあり『安倍貞任征伐〆玉フ時物部長秀其子長幸ヲ以テ軍事ニ使ワシム』とある つまり長幸の霊験により義家は勝利を収める事が出来たとして社殿再建・神田72町歩寄進・・国包の太刀与え名を長頼と改名させたとある(協和町史) 誠に興味深々の地である 

勿論菅江真澄も立ち寄っている

 下左端 唐松山天日宮 
御覧の様に大小の石で覆われた円形の堀に囲まれていて個性的でユークな神社である
 所で唐松は韓服(からまつ)からきていて元は韓服宮と呼ばれていた 当宮の創建を伝える神功皇后が仲哀天皇9年(201)に新羅を含む三韓征伐に従軍した物部膽咋蓮(いくいのむらじ)皇后の御腹帯・御石を拝受し御神体とした故事から韓服神社と云う事になったのです

秋田 其の8

左 唐松神社(名誉宮司物部長照) 
    秋田市大仙市境字下台
大和朝廷(凡そ5世紀)に蘇我氏との政治・宗教闘争に敗れた物部氏の創建であると言うのだ 御覧の様に参道より凡そ2m程低いのです 散歩中のおじさんの話では『秋田藩主佐竹氏が道を通に当たり日殿山元宮に遥拝する習わしにも拘らず素通りしたため落馬したという それを無礼とした藩主は社殿を日殿山から降ろし当地に遷座したうえ見下すため参道より低くした』という伝承を話してくれた 又女一代の守り神として人気が高い 地元の人の伝承には真実味がありますね 詳しくは進藤幸一氏『秋田物部文書伝承』を参照

唐松山天日宮碑

県指定天然記念物唐松j神社参道の杉並木凡そ300m