秋田内陸と言えば菅江真澄です 彼が何故にこんなに陸奥殊に雪深い秋田内陸に没頭したのだろうか 菅江真澄の歩いた道として彼の足跡の道標柱が凡そ33箇所此処にはあると言う この画像は1805年打当の手前にある戸鳥内地区にある柴田作右衛門宅にある道標柱 現柴田家当主は作右衛門氏から17代目だそうです 朽ちて物置にあったものをわざわざ出して戴きました 有難う御座いました
十三日雨具をまとって、打戸(打当)を出て、戸鳥内に引き返し、柴田作右衛門のもとで雨宿りをさせてもたった。九助と云う珍しい男が来た・・・・
菅江真澄遊覧記(平凡社ライブラリー)

柴田作右衛門から17代目の当主の柴田さん

 菅江真澄は笑内からここ根子に来て『佐藤利右衛門と云う地主の家に宿を借りた』と書いている 真澄の道の標柱と一緒に撮影されたのが其の末裔の佐藤夫妻だが更に驚いたことには祖先は源頼朝の奥州征伐で殺された福島の信夫の里・湯の庄佐藤基治の子で屋島の戦いで死んだ義経の忠臣佐藤継信の末裔だと言うのだ 室町期にこの地に流れたついたと言う 先年700回忌にも参加しに飯坂医王寺にいったというのです 平家の落人と同じく敗れた平泉の一門も草深い陸奥の山奥へ落人になったのでしょう 驚きました 
  
  笑内で中島金兵衛宅に立ち寄り休息したので菅江真澄の道の道標があるが色・文字が剥げていて柱も朽ちていて読めない 現在は末裔の中島廣一氏が住んでいる 菅江真澄はここで休んでからひと山越えて根子部落に行くが『この村はみなマタギと云う冬狩ヲする猟人の家が連ねている』と書き付けていている

阿仁川 其の3



源 義経忠臣佐藤継信の子孫で佐藤利右衛門の末裔佐藤ご夫妻

マタギの里根子部落 正真正銘の孤立してる集落です
実はこの村と内陸を縦断する国道105号にすんなり往来出来るようになったのは僅かに昭和51年になってからである 其れまでは独立した村であったと云う 車一台がやっと通れる隧道が出来ことにより点から線の集落と変化した とその感激ぶり刻まれた碑が建ってる峠から見た根子集落➡下へ

阿仁川 源流は打当川で比立内川を合わせて阿仁川となる 秋田内陸鉄道と並行して流れ鷹巣で米代川に合流する

中島金兵衛の末裔中島廣一氏

根子集落佐藤さん宅の裏手にある山神社 マタギはこの山の神に猟の安全と収穫を感謝したと云う

藩政期の佐竹藩の番所で手数料十分の一を支払って町に入る事が出来た
上から➡ 山と雪の村落 年配の女性に道を尋ねても言葉が特異で興味深いのです そのおばさんの話では佐藤家はこの部落でも一番古い家柄だそうです 
 十歩一御番所跡
北秋田郡阿仁町銀山字畠町の国道沿いにある 日本一の産銀・産銅の阿仁銀山は出入りも相当厳重だったらしくここに十歩一番所跡があり真澄も『・・・畠町のやかたのはてより姫が嶽 手たいふかた かり山の雪かかりて・・・』とある

 菅江真澄の道の道標