出羽なる 平鹿の三鷹 たちかへり 親のためには 鷲もとるなり              歌枕名寄 光俊朝臣
くもりなき 神の宮居の 山なれば 長く照らさむ 明沢の月(明沢岳 金峰山)             一遍上人
峯は花 ふもとはつつじ 分けのぼる 仏のちかひ 明沢の月                     教円阿闍梨

目を射抜かれた鎌倉権五郎景正
 三浦平太郎為次がその顔に足を乗せて抜こうとしたら「無礼者!」と切りかかったという

新羅三郎義光参陣
 後に末裔佐竹氏が常陸から秋田藩主として赴任するのも不思議な縁である

判 助兼薄金の兜を射落とされる 
手柄をたてた彼は源氏の家宝の一つである薄金の兜を頂いていた 宝暦年間偶然発見され現在国の重要文化財となっている

後三年の役レリーフ
平安の風わたる公園
横手市金沢中野三貫堰
 平鹿



アイヌ語に美麗を意味するピリカと云う語彙があるがここの地形が美麗でありピリカがヒラカになったと云うが信じがたい
  =真澄記=<「小野のふるさと」から、三鷹物語>
『皆瀬川近く、雪深い磨戸山
(まとさん:真人山)がある。 この山に三つの子をもうけた鷹がいた。親鷹は朝な夕なに子をはぐくみ、餌を与えた。ある日一羽の鷲が飛んできて、鷹を裂いて食べてしまった。耐えがたく思った子鷹たちは相談し合い、自らを鳩と偽って三羽助け合ってこの鷲を組み伏して捕らえた。 古い歌に「出羽なる 平鹿の三鷹 たちかへり おやのためには 鷲もとるなり」と詠われている。
  =真澄記=<白鷹物語>
一條院の帝にこの真人山で捕った白腑の鷹を献上した。 やがて帝はその鷹を「出羽」と御呼びになるほど愛でていたがある日その鷹は逃げてどこかに行ってしまった。 人々に頼んで尋ねさせたが知る人はなかった。 ある夜、帝は夢を見た。その内容は母鷹を鷲に食べられてしまった恨みと悔しさに、その鷲を捕り殺してきた子鷹の姿だった。驚いた帝は夜明けを待って棚養
(たかや)を見に行くと、雪より白い真っ白な大鷹がいて、嘴は血にまみれたように真っ赤であった。 帝はその気高さと威厳に驚き、「出羽の鷹は大鷲を捕ることもありなん」を言われその鷹の名を「くれない(紅)」と御呼びになった。 また「親を捕る 鷲を辛さに 心あらば 鷹や知るらん 鳥の想い子」と詠んだ』 出羽・陸奥・南部・蝦夷(えぞ)等をくまなく歩いて暮らし・習慣・生活・風習・風俗・史跡・遺跡を克明に記録した重要文化財菅江真澄遊覧記に載っている平鹿の一部である。平鹿と言っても遠くの我々には地理的所在地のイメージが中々湧いて来ないのですがその初見は759年(天平宝字3年)に遡るのです。続日本記に「・・・出羽ノ国雄勝郡ヲ造ラシム・・・又雄勝・平鹿の2郡と横河・雄勝・助河等ニ驛家ヲ置ク」とあり天平5年(733年)に雄勝郡が建郡されている。往時の平鹿郡は雄勝郡以北の広大な地域であり山本郡が出切るまでは内陸中央部が平鹿郡と云われたようだ。現在も横手市・増田町・平鹿町・雄物川町・大森町・十文字町・山内村・大雄村の8市町村で構成されている。和名類集鈔(950年・天暦4年 源 順)には「出羽国 国府ハ平鹿郡ニ在リ 行程上47日、下24日 菅11郡・・・・」とあり南は山形県置賜郡から北は秋田郡まで詳細に記されている。又宝亀11年(780年続日本記)「宝亀の始め国司申す 秋田は保ち難く河辺は治め易し」「当時の議河辺を治するに依れり」とある。現秋田市の東部に河辺郡河辺町があるが河辺の国府とは払田柵の事なのか或は雄勝柵が払田柵の事なのかそして払田の柵=山本郡衛説ななどそれぞれが未だ確定してないのです。北部の秋田城(出羽柵)と南部の雄勝柵の中間に払田の柵があり往時蝦夷の地は漠として広大だったのだろうと想像され真に平鹿の古代は興味深いのです。所で雪の『かまくら』と『焼そば』で有名な横手市は古代平鹿郡の蝦夷の末裔豪族清原一族が支配した所で大鳥井山が本拠地と言はれています。
陸奥話記に「出羽国山北俘囚主清原真人・光頼・舎弟武則」、奥州後三年記には「真衡が一家はもと出羽国山北の住人なり」「武則えびすのいやしき名をもちて」とあり蝦夷の流れを汲む俘囚の長であり山北(せんぼく・雄勝郡・平鹿郡・山本郡)地方つまり秋田県中南部を支配した在地の豪族であった。私もそう思っていた。所が雄物川町郷土資料史小冊子(雄物川町教育委員会)に幾つかの系図が載せてありその内の一つ郡邑志に清原一族は清小納言の祖祖父と同じなのです。清原深養父の子春光ー元輔ー清少納言となり、もう一人の子重文ー基定ー基光ー光方ー光頼・武則ー武貞・武衡ー真衡−成衡と記載されているのだ。
   夏の夜は まだ宵ながら あけぬるを 雲のいづこに 風やどるらん
   契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは
はともに百人一首に載り、上が清原深養父(ふかやぶ) 下が清原元輔の歌なのだが事実なら『武則えびすのいやしき名をもちて』はとても信じられないのです。こう云う意外性に出会うのも歴史の魅力なのです。さらに横手市が日本の歴史に於ける古代から中世へのエポックメイキングとなった地であると言う事である。凄惨を極めた後三年の役の終焉の地なのです。前9年の役から20年平穏な日々も一族の複雑な人間関係から起きたささやかな内輪揉めが後に言う後三年の役である。前9年で敗れた藤原経清の妻『結』は我子清衡を連れて清原武貞の後妻に入った。そこで生まれたのが家衡である。ここに複雑な3人の子が揃うのです。清原直系の武貞の子真衡、安倍氏直系の子清衡、清原・安倍混血の家衡である。真衡には子がなく成衡(平泰貞の子)を養子にしていた。そしてその成衡があの源頼義の落し種徳姫(前9年役の帰り道常陸の多気権守平宗基宅で休息し一晩提供された娘に出来た子 義家にとっては妹になる)を娶る事になりここに清原氏・安倍氏・源氏の役者が揃うのである。成衡・徳姫の結婚祝いを持参した叔父吉彦秀武が真衡の横柄な態度に怒り普段から真衡とは違和感を感じていた清衡・家衡を誘い真衡に戦いを挑んだのが後三年の役の始まりである。丁度陸奥守として下向した義家は『三日厨』の接待で当初妹(徳姫)のいる真衡を応援した。所が真衡がこの最中急病死しため敵がなくなった清衡・家衡は国司義家に降伏した。義家は二人を安堵し清原氏所領の奥6郡の内北3郡を家衡に南3郡を清衡分け与えたのである。所が北部寒冷地を与えられた清原本流を任ずる家衡はこの処置に反発し後日豊かな南部にある清衡の江刺豊田館を急襲し焼き討ちを図ったのです。清衡はからくも命拾いしたが家族全員が焼殺されてしまと言う悲劇を被ったのです。一人ボッチになった清衡に助けを求められた義家も自分の処置に逆らった家衡に怒り、清衡と供に家衡討伐に立ち上がったのである。家衡は恐れ驚き本国出羽国沼柵(現雄物川町)へ逃亡し愈々後三年の役のクライマックスとなるのです。(平成17年10月25日)
(参考 秋田県史資料編・古代中世編 平鹿町史 菅江真澄遊覧記 平凡社 雄物川郷土資料 雄物川町教育委員会  秋田県不思議事典 新人物往来社 歴史と文学の回廊北海道東北1 株ぎょうせい)