応徳3年(1086年)秋義家・清衡連合軍は奥羽山脈を越え出羽国平鹿郡雄物川町にある家衡の居城沼柵(沼館)へ7〜8千騎で攻撃を開始した。所がこの沼柵は雄物川・皆瀬川及び沼・川・湿地に囲まれた文字通りの水城で流石の軍神八幡太郎義家も攻めあぐねている内に寒気と豪雪のシーズンになってしまった。前太平記には『9月末より積雪陣屋の軒をうむ』とあり又『10月12日には陣屋が失火により焼失』『義家意識回復』ともあり義家は大雪や火災、その上寒さによるインフルエンザの高熱で意識朦朧としていたらしいのです。この事は風邪による高熱で相当多くの兵士が亡くなっている証だろうと思われるのです。その時凍傷の兵士を自ら抱いて暖めた等の義家美談はこの辺りから出て来るのである。飢えと火事と雪と寒さと風邪に敗北し多数の兵士を失い多賀城へ惨めな撤退を余儀なくされたのである。それは正にナポレオンやヒトラーがロシア遠征で冬将軍による散々な敗北とそっくりなのである。その間に家衡は叔父の清原武衡の進言により難攻不落砦金沢柵へ移動していた。翌寛治元年(1087年)9月義家・清衡連合軍は再び数万騎をもって出羽金沢柵へと出動した。然し今回もその攻略は遅々として進まず苦戦を強いられていた。その兄の難儀をみて官職を投げ打ち馳せ参じたのが弟新羅三郎義光である。然しこの軍勢をもってしても柵を落とす事が出来ずにるので最後の手段吉彦秀武は包囲作戦による兵糧攻めを進言したのです。戦術としての兵糧攻めはこれが史上初であると言う。この間に有名な『雁行の乱れ』『剛臆の座』『鎌倉権五郎景正と片目かじか」』『千任口いくさ』『納豆発祥』『源氏重代薄金の兜』等の後世に名伝説が多数生まれるのである。この様にして流石の金沢柵は11月14日兵糧尽き果て落城となる。落城際の柵内は正に地獄絵図さながらであったと云う。女子子供城外に出れば惨殺、城内に残れば餓死、城中火災に包まれる。義家軍城内に入り城兵皆撫で斬り、家衡は奥六郡一の名馬花柑子を射殺して賎しく変装して逃走したが県小次郎次任に発見され射殺された。武衡も沼に身を隠していたが発見され命乞いも空しく即斬首。武衡・家衡以下主たる郎党48人の首が義家の前に差し出された。『口いくさ』で義家を罵倒した千任は義家の責めに一言も答えぬため『舌を切るべし』の断により金箸によって引き抜かれ後手に縛られ木につるされ足元に武衡の首が置かれた。主君の首を踏むまいと必死に膝を曲げるも力尽きて遂に顔を踏む。城内の館は総て落ち『城内に討ち伏したる人馬麻乱れる如し』とある。今も柵内からは焦げた籾殻が出土され往時の戦闘の激しさを忍ばせるのです。ここに出羽北狄(出羽蝦夷)俘囚の血は完全に断たれ古代の終焉となるのです。今雪のかまくらと焼そばの町横手は長閑な田園都市である。まさか石坂洋次郎の後年「青い山脈・若い人」の青春映像のモデルの町なろうとは誰が想像できたであろうか? |
武神八幡太郎義家 雁行の乱れレリーフ 『義家は器量は良いが合戦の道を知らぬ若武者』と兵学者大江匡房に云われ事に発奮して兵学を猛勉強したと云う
千任 櫓上より義家を罵倒 義家は決して殺すな生け捕りにせよと命じた
平安の風わたる公園の西方にある奥羽本線後三年の駅 |
|