陸奥の 秋田の山は 秋霧の 舘野の駒も 近づきぬらし          夫木和歌集 曽根 好忠
わがことは あくたの山の 山人も 思ふと云へば 思ふとぞ云ふ      兼澄集  兼澄

森吉山 
マタギの里打当から  平成17年3月22日鷹巣町・合川町・森吉町・阿仁町が合併により北秋田市となるが市と呼ぶには名ばかりで取って付けたようで情緒がない やはり秘境森吉山には北秋田郡の方がずっとお似合いだ

 森吉山








左から山腹はブナの山林で1000mを子越えると青森とど松の原生林と高山植物が咲き誇る花の百名山 県立自然公園である この川の上流の山中には真澄縁の足跡である史跡・伝説・景勝地・標柱・名木・難所等があるが時間が無かったのが無念dす
秋田県の山で著名なものは皆さん御存知の男鹿半島にある寒風山・秋田市東部で上小阿仁村との境にある太平山、山形県境にある鳥海山、そして秋田・宮城・岩手県境にある栗駒山等があり酒や菓子の名前にも使用されてますが、森吉山は他県の者や山岳に無関心の者には余り知られていなかったのではないでしょうか。然し歌にもある様に古来森吉山は『秋田の山』とも呼ばれていて秋田を代表する山だったのではないかと思われるのです。秋田県の山で登山対象となる山は県境周辺に位置するものが多いが、森吉山はすっぽり県内におさまっている山としては最も標高が高く(1454m)まさに「秋田の山」である。八幡平・焼山からも離れ独立峰的にアスピーテ(楯状火山)・トロイデ(鐘状火山)型のなだらかな稜線を持ち上げている。森吉山は8世紀の古くから霊山として崇められていたようで、森吉神社の里宮は阿仁前田に、奥宮は前岳のそばの避難小屋に並んで建つ。奥宮の祭典の際は参詣人はアオモリトドマツ(地元の人はモロビ)の枝を持ち帰る習わしがあり、それは身のけがれを払い魔よけの力があるとされ、当地出身者のお守りにも入っていたそうだ。また、森吉山麓の阿仁地方は阿仁マタギと呼ばれるマタギが活躍した地域として知られ、山の幸豊かな森がずっと広がっていたことがうかがえる。このように信仰を集め、豊かな自然に恵まれてきた深山である森吉山であるが、近世からはさらに人々の生活や活動のための様々な資源を供給する役目を担ってきた。東側山麓の阿仁合周辺では江戸時代秋田藩主佐竹氏により阿仁鉱山が本格的に開発され銅産出量日本一も記録する鉱山町として当時大いに栄えた。『・・・森吉山は秋田郡の山の最たるものであろう。海の沖の方からこの山を見ると、蝦蟇がうずくまってる形に似ているので、船人はひきが岳とよんで仰ぎ見、これを航海のしるべとして湊に入ると言う。・・・』『・・・頭には奴帽額(トモツコウ・寒い時にかぶる大型の頭巾で胴中まで垂れ下がった端を帯にはさむ)というものまとい、その上に逆さぼうしという菅薦で作ったかぶりものをつけ、蒲のはばきに、つまごわらぐつ(浅い雪靴)をはき、かんじきをつけ、手に小長柄という杖をついて、非常に深い高山の大雪を踏み分けて行く。この辺りは森吉山の麓であるが遠方からこの辺りを眺めると山の中腹の様に見える。その崖の路をいますすんで行く。まことに八尺・九尺と積もった雪に、脛を踏み入れてしまいそうな危さのなか、案内人が踏みならしていくあとをつたう。・・・・』 『出羽の国阿仁山といふ処にて、銅をほりいだせり、かねいつるあなを、なべてしきといひ、ほる人を大工といひ、かねをいるるうつわ、せおふをゑぶといひ、石砕きてかねとるを、からむとものし、かれたるすす竹に火をともして入る。 しきのうちより、かならず水いづるなり。かならず水いづるなり。かねより生るならん。・・・・』これ等は菅江真澄遊覧記(平凡社)の中の記述ではあるが、これだけでも森吉山の一端を垣間見る事が出来るでしょう。菅江真澄と言えば森吉山は言うに及ばず秋田は彼を抜きにしては考えられないのです。ここ森吉山麓だけでも真澄の七史跡・真澄の十首・真澄の七渡し・真澄の七宿・真澄の十五景勝・真澄の七滝・真澄の七名木・真澄の七伝説・真澄の十難所・真澄の道の道標33箇所等真澄の足跡を細かく指定していてその偉業を讃えているのです。彼は秋田のみならず福島県を除く東北六県と新潟・蝦夷地を46年間にわたりくまなく歩き見聞して、その民族・風俗・習慣・歴史・地誌・随筆・スケッチ・和歌等を詳細に書き留め膨大な著作物を残した人物である。その数100種200冊におよび、内89冊は国の重要文化財に指定され46点が秋田県有形文化財に指定されているのです。1754年(宝暦4年)三河(愛知県)国に生まれ姓は白井、名は英二・秀雄とか言ってましたが30歳頃にどういう訳か信濃・越から旅に出始めました。1810年(文化7年)に58歳のころには菅江真澄と名乗ったようである。殊の他秋田を愛した彼は30年間にわたり居住して1829年(文政12年)76歳で亡くなるまで秋田に熱中し続けた人物である。ここ森吉・阿仁地区には5回も足を運び森吉山には2回も登ってるようなのです。勿論秋田市寺内にその墓がある。彼の凄い所は何といっても文章にもあるように3mもの積雪のある土地へも好奇心からか季節を問わずに歩き回ってることです。この点歌枕探訪が主目的でこの陸奥を歩いた能因・西行・芭蕉等はその旅からして陸奥の比較的気候のよい時期に来ているのとは大違いなのである。あの温暖で明るい故郷三河を捨ててまで陰鬱なる出羽・陸奥・蝦夷地に執着してる彼は、陸奥・蝦夷地の鄙の国の未だかって聞いた事もないズーズー弁と見た事もない習俗に驚き愛した人物で今で言う文化人類学者の走りであり、その書物はまさに今で言う現代のフィールドノートなのではないでしょうか(平成20年1月1日)(参考 菅江真澄遊覧記 平凡社 森吉山麓・菅江真澄の旅ガイドマップ 北秋田市)
 森吉山と小又川と秋田内陸縦断鉄道 森吉町 森吉山は森吉地区と阿仁地区またがるが主峰の1454mの向丘を初めとして1200m級の外輪山囲まれたている 山頂に立つと鳥海山・秋田駒ケ岳・岩手山・八甲田山・岩木山・白神山地・男鹿半島・日本海も望めるとの事➡右へ