上下 錦木塚  鹿角市十和田錦木塚地区
いつの日にや此里に一人の男あり 女を恋慕う事あり 幾夜通いて染木を立置くと云へども女の心に叶はずしてとり入るゝ事なし その染木積り々りて塚となる これを称して錦木塚と云ひ亦二人の墓とも云う つまり小野小町と深草少将の百夜通いと同じで何処にでもある逸話だが日本書紀の記載にある野蛮な蝦夷地の人間性からはとても生まれない情緒ある話だ

将軍田道祠 鹿角市十和田錦木申平
この辺り申が野と云う 凡そ1600年前の西暦375年頃にこんな奥地まで進入したと云う伝説はどうやって出来たのだろうか 蝦夷に敗れた田道は埋葬されたが其の墓をあばいた者がいたと仁徳55年紀(367)には書いてあるが蝦夷か 敗れた上毛野の一族かは書いていない➡ 

猿賀神社 鹿角市十和田錦木申平
 此の近くに軍森と云う200m小山もあるが田道将軍の伝承を偲ばせる 青森市内・弘前市内にも田道を祀る猿賀神社がある 伝承では鹿角の神霊が大洪水で流れ着いたからと言う 推測だが初めて人相も言葉も違う田道将軍を見た恐怖がDNAに組み込まれ津軽の蝦夷に迄伝わった為ではなかろうか

下右 先住民中通道跡の碑 鹿角市十和田大湯字万座 
   上 供養塔兼道標
供養塔だが道しるべにもなってる珍しい道標 西けまない道 と彫られてる

 菅江真澄の道
菅江真澄はその記述で『・・・世を渡る仕事として楓の木・まきの木・酸の木・樺桜・苦木の五種類の木の枝を三尺余りに切って一束に結わえたものをなかどう木と言って市路で売っていた なかどう木とは仲人木のことであろう 世間で言う錦木とはこれら五種類の木がとくに色よく紅葉して錦のようになるのでそうよぶのか・・・』と書いている 又彼は
錦木の 朽ちし昔を おもひい出
    おもかげにたつ はしのもみじ葉
細布の 胸あはざりし いにしえを 
   とへば機をる 虫ぞ鳴くなる
と詠んでいる
  錦木塚・狭布の里 其の3
     
 ➡ 古代東北と王権の著者中路正恒氏は恐らく蝦夷に襲撃された上毛野一族ではないかと書いてある 死せる田道の慰霊に加護を求めて大蛇に例えて蝦夷を倒したと云うのだ 人々は彼を神の田道命として祀ったのが猿賀神社と云う
左 田道将軍戦没の地の碑

右端 大湯環状列石遺跡の先住民中通道跡
昭和7年12が地7日大湯環状列石発見  同8月大湯中通青年団保護の為の土塁を設置 同12年5月郷土研究会が先住民中通道跡碑建立