男鹿は日本海と八郎潟に挟まれた半島である。殊に八郎潟を抜きにしてはは男鹿は語れないのです。八郎潟は別名八龍湖・大方・琴潮(うみ)等と呼ばれ東西凡そ12km・南北約27kmの日本第2の湖であった。そしてこの湖畔の大地で二人の魅力的男性が歴史を駆け抜けたのです。日本海の王者提督阿倍比羅夫と対峙した恩荷(オガ)と、陸の王者征夷大将軍源頼朝に挑んだ陸奥最後の風雲児大河次郎兼任(カネトウ)である。恩荷は645年(斉明4年)兼任は文治5年(1189年)ともに陸奥古代の夜明けと終焉を飾った二人である。恩荷の何と言っても魅力的なのが日本書紀斉明期の記述でしょう。『4年夏(658年)4月に、阿倍比羅夫船師(ふないくさ)一百八十艘率いて蝦夷を討つ。鰐田(あぎた)・渟代(ぬしろ)二郡の蝦夷、望(おせ)り怖(お)ぢて降(したが)はむと乞ふ。軍を勒(ととの)へて、船を齶田浦に陳(つら)ぬ。齶田の蝦夷恩荷、進みて誓ひて曰さく「官軍の為の故に弓矢を持たず、但し奴等、性肉を食うふが故に持たり。若し官軍の為にとして、弓矢を儲けたらば齶田の神知りなむ。清き白なる心を将(も)ちて朝(みかど)に仕官(つこうまつ)らむとまをす」仍りて恩荷に授くるに小乙上を以てして渟代・津軽二郡の郡領(こおりのみやつこ)に定む。遂に有間浜に、渡嶋の蝦夷等を召し聚へて、大きに饗(あへ)たまひて帰す』とあるのです。つまり『弓矢は日常肉食の狩猟の為で秋田の神に誓って戦の為ではない。清純な気持ちで朝廷に仕えるものである』と云うのだ。比羅夫も紳士的だったのだろうが蝦夷も決して好戦的民族ではない証である。凡そ1350年前の秋田、男鹿、能代の蝦夷が始めて異民族大和民族と出合った初々しい描写に感動この上ないのです。小鹿島名勝誌の中に「この恩荷は今日男鹿の地の人なるべく、地名によりての人名か、人名によりての地名か。そは分明ならざれども、この恩荷と同紀5年正月の条に見へし膽鹿嶋とあるものは、今日の男鹿同名異なるべし。これ男鹿の歴に見へし初めなりとす」とある。つまり秋田の浦に現れた蝦夷の首領恩荷こそ男鹿の名の謂れなのです。蝦夷の名が綿綿と現代の都市の名となって生き続けているのは何と感動的とは思いませんか。所で国語学者の仲には「恩荷は(オカ・オガ)ではなく(オニ)と呼ばれていたであろう」と推察している。オニは鬼で往時は本来「大いなる人・畏敬すべき人・権威ある者」の意味であり現代の悪人の代名詞とは丸で逆であった事は留意すべきだ(例えば頼朝・義経の兄義平は悪源太義平と呼ばれた。15歳の時同族争いで叔父義賢を討ち取ると言う大胆な仕事をした事による。つまり悪は豪勇・強豪と言った意味である。源太は源の長男の意である 鬼といえば男鹿の伝承「なまはげ」も子供たちにとっては正に「畏敬・権威・畏怖」の姿に他ならない。 |
|
何か男鹿の「なまはげ」には恩荷との関わりの匂いがするのは私だけだろうか? 次に八郎潟東岸の南秋田郡・山本郡・潟上市辺りを治めていた大河次郎兼任なるユニークな人物がいた。1189年(文治5年)彼の領地の目と鼻の先で泰衡が大館贄柵で河田次郎の裏切りで討ち取られ奥州は源氏頼朝の支配化に入った。彼がユニークなのは当初自ら伊予守義経とか木曽義仲の嫡男朝日冠者と称して同志を集めて天下の頼朝に反乱を起こした変わり者なのです(文治5年・1189年12月)。然し兼任は蜂起するにあたり南部由利郡の地頭由利八郎維平に手紙送っている。『古今の間、六親若しくは夫婦の怨敵に報いるは、尋常のことなり。未だ主人の敵を討つの例はあらず。兼任独り其の例を始めんが為鎌倉に赴く所なり』と。忠義心いっぱいだ。1189年厳冬の2月7千余の一族郎党を引きつれ決起した彼は凍結した大方(八郎潟)の志賀の渡り越え鎌倉に「いざ出陣!」と云うその時悪夢が起きたのです。氷が割れ5千人余りが溺死すると言う大惨事に見舞われたのです。然し是にもめげず彼は男鹿で御家人橘公業を敗走させ、秋田市毛々左田では平泉の家臣ながら頼朝にその度胸の良さで由利郡を安堵された由利八郎維平を討ち取り、取って返して今度は北へ向かい津軽の御家人宇佐美実政(頼朝北陸道司令官)も討ち取ってしまった。出羽・津軽を制した兼任軍には平泉の残党が結集し1万に膨れ上がり、再び南下を開始してなんと平泉を占拠し更に宮城県栗原郡一迫に布陣した。だが鎌倉追討軍と激突し大敗衣川まで後退ここで防戦を試みるも残党は500人まで激減し北へ試走した。彼は北上川沿いに青森糠部・外が浜迄逃亡したが追討軍を逃れ、再び南下秋田仙北から栗駒山を越えて宮城県栗原郡花山に潜伏した。然し文治6年3月10日義経縁の栗駒町栗原寺で樵(きこり)によって殺された。青森県外が浜から宮城県栗原郡栗原寺まで誠に痛快な胸のすく僅か2ヶ月の抵抗であったが、そんなに忠義心があるなら何故最初から泰衡と共に平泉に参加すればよかったのに?との疑問も残るのです。このように男鹿を含む古代八郎潟周辺には魅力的歴史がいっぱいあるのです。
(平成17年12月15日)
(参考 男鹿市史 秋田安東氏研究ノート 無明出版社 秋田県の歴史 平凡社 秋田県の不思議事典 新人物往来社 菅江真澄遊覧記 平凡社 秋田県の歴史散歩 且R川出版社 街道を行く29 朝日新聞社)
男鹿 |
|