雄勝郡のもう一つの古代への夢を駆り立てるのは雄勝の柵(758年・然しその場所は特定されていない)と初代鎮守将軍大野東人である。彼は陸奥国府多賀城の創始者であるが、更に天平9年(737年)多賀城〜秋田城(出羽柵)の直線道路開通への出羽雄勝郡への進軍が生々しく続日本紀に記述されてる人物である。『陸奥国より出羽柵に達る。道男勝を経れば工程迂遠なり。請うらくは男勝村を制して以って直路を通さん』と。彼は中央では相当人望があったらしい。すぐに「ゴーサイン」が出て兵部三位藤原朝臣麻呂が持節大使として派遣されて来た。多賀城から色麻柵を経て鳴瀬川を辿り奥羽山中鍋腰峠から大室(玉野・現尾花沢)に出る。そこから最上川沿いに新庄に出るのは同じだが従来はそこから更に最上川を下り酒田に出て海岸沿いを北上して由利柵から内陸の雄勝柵向かった。そして再度Uターンして由利柵に戻りそこから又海岸線を北上して秋田城へ向かうと言う大迂回路を辿っていたのです。それを彼は新庄から真っ直ぐ北上して比羅保許山(現神室山)有屋峠を越え役内川・雄物川を渡り直接羽後町の雄勝柵に出てそのまま雄物川沿いに下ればすぐ秋田柵であるルートを考えたのです。東人が初めての賊地侵攻にあたり軍を比羅保許山麓に屯営させていると雄勝村の俘囚長3人がやってきて『官軍が今村に入れば村民は恐れ戦き皆山野に逃げ隠れゲリラ化してしまいます。それでは得策ではない。ここは官軍の威を示して引き返す方がベターだ。国の寛大さを悟らせる事により住民も安住する事で雄勝城も守り易くなるでしょう』と。出羽国司田辺史難波の仲介もあり東人も『なるほど然』と納得し6000の兵を引き上げる決断をした。名将は「戦わずして勝を収める」と言うが彼こそ「戦わない将軍」の由縁なのです。更に「・・・城の造営は出来るが守るのは人である。人には食料が必要だが雪が深く耕す機会を失った。兵を動かし利なければ何にもならない。よって後年を待ち城を造るほうが良い。自ら賊地に入ったのでこの事は私自身が責任を持ちます・・・」と藤原麻呂持節大使に報告している。東人の人柄が偲ばれる報告だ。このように秋田県南端山中の小野の里は美女と名将がかかわった魅力的里なのだ。然し平成の大合併によりこの歴史的地名雄勝の名が消え今湯沢市となっているのは寂しい。
(平成17年10月8日)(参考 古代東北の兵乱 吉川弘文館 みちのくの古代史 刀水書房 小野小町再考 無明社 在原業平・小野小町 新典社 雄勝歴史考 雄勝町商工観光歌 秋田県不思議事典 新人物往来者 菅江真澄遊覧記 兜ス凡社 秋田県史資料編)
小野の里 其の3 |
右上 目覚めの清水 湯沢市秋の宮
応仁の昔から神室山道中及び有屋峠を越え最上郡(山形県)へ出る金山道中の力水として人々に親しまれていたと言う 鎮守将軍大野東人も都へ出る小野小町もそして土着の蝦夷もこの水で渇きを癒したに違いない
右下 目覚めの清水にある五又路の案内板 龍神社境内
宮城県鳴子温泉から国道108号で鬼首峠を越えて秋田県に入る 秋ノ宮温泉を通り小野の郷に入る手前にある
1、鬼首峠を越えて宮城県へ
2、役内を経て神室山へ
3, 有屋峠を越えて山形県へ
4、院内銀山を経て日本海へ
5、小野の郷を通り県内一円へ |
龍神社 五叉路公園 目覚めの清水
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院内関所跡 湯沢市上院内
羽州街道小野の郷入り口にある 慶長13年(1608)院内鎮将 矢田野安房守義正により設置された 雄勝峠に近く院内銀山警備と院内銀山の流れ者の素浪人・犯罪人の逃亡や切支丹潜入防止等重要な任務を負っていて取り締まりは相当厳しかった云う 1624年7月24日には草生津刑罰場で50名のキリシタンが火あぶりの刑に処せられていた そのうちの25名は院内銀山で捕えられたものでした 明治になっても戊辰戦争の折に仙台藩の不審者が処刑された
少将からの恋文を詠んで
忘れずの 元の情けの 千尋なる 深き思ひを 海にたとへむ
百夜通いの少将の後姿を見て
かすみたつ 野をなつかしみ 春駒の 荒れても君が 見えわたかな
その時彼女は疱瘡を患っていた
面影の かわらで年の つもれかし たとひ命の かぎりありとも
少将の死を悼んで
実植して 九十九本の あなうらに 法実歌のみ たへな芍薬
小町辞世の歌
何時となく かへさばやなむ かりの身の いつつの色も 変りゆくなり
以上小町の歌と云うのですが真偽のほどは保証できません |