院内鉱山 当山開削者無縁供養塔の記念碑 当町出身の愛知県の小牧市在住の永島房雄氏が祖先の墓参りにきて苔むし草木が伸び放題の荒れ果てた墓地を見て墓地の整備資金にと寄付された浄財により建てられた

上下 国指定史跡 4っつの洞窟からなる岩井堂岩陰遺跡  院内銀山跡地の近くにあるこの遺跡は縄文式土器から弥生式・土師器に至る数千年間にわたる古代土器が13層から出土した 特に先の尖った尖底土器は縄文早期の役8000年前のもとされ又押型文土器の文様は東北独特野もので昭和53年には国指定遺跡とされた 8000年も前からここには人が住んでいたので

約3万の有縁無縁の墓碑群の一部 当山は慶長11年(1604)の発見から大正10年の閉山までの314年間に千数百基の墓石に眠る工夫やその家族約3万の有縁無縁の供養塔もある 最盛期には約1.5万人の人口に一向宗3・浄土宗3・真言宗2・日蓮宗2・禅宗1の11もの寺があったことでも當時の繁栄と劣悪な労働環境を見る思いである 墓地は上の画像の他に数区あるらしい 此の無名の人たちによる苦労により佐竹藩は覆いに潤ったのである 
 上 院内銀山秋田県指定史跡 採掘洞 
1606年(慶長11年)村山宗兵衛ほか3人によって発見され1616年(元和3年)には1381所帯7104人、1836年(天保7年)には戸数4000 人口15000人にのぼり久保田城下(秋田市)以上の人口があの山峡にあふれた(天保の盛り山) 秋田久保田藩の財政k版でもあり1617年ローマで作成された地図にもその名がのる日本一の鉱山となる 明治3年には明治政府直轄となりドイツ人技師も来た(異人館跡) 明治14年には明治天皇までが御臨行幸 佐竹藩・小野組・明治政府・古河組の経営を経たが大正9年採掘停止となり昭和29年かって東洋一の銀山は全山閉山なる

左 金山神社
 往時は山神宮と称された慶弔12年(1607)創建され銀山の総鎮守である 鳥居は新しいが本殿は文政13年(1830)と結構な年季が入っている 秋田県指定史跡

左 一向宗正楽寺跡
 銀山最初の寺で昭和中期の最後まであった寺跡 銀山最盛時の有力者の墓が多数有るという
 
     小野の里 其の4