南津軽郡藤崎町にある八幡宮である この宮跡が藤崎城跡である 実はここに前九年の役の厨川で頼義・義家軍に敗死した安倍貞任の遺児次男高星丸が乳母に抱かれ津輕藤崎に逃れここ藤崎城主となりその子安倍堯恒が藤崎領主となり安藤(安東)太郎と称したという 初めて安東姓が現れるので津輕安東氏の祖といわれるがこれは安倍氏の安と平泉藤原氏の藤を合わせたとの伝承もある  堯恒の子高任が12世紀中ごろ津輕から常陸に移動して白鳥氏となったという 後年十三湊の繁栄と水軍で有名な安東氏の出自は家系が数種あり複雑で分かりにくがその系譜に現在に到るまで一貫して流れてる思想が祖先は蝦夷でその末裔である事に拘り憚らない事である 橘藤源平の氏に拘る当時の豪族には見られない特殊な意識を持つ安東氏である 安日ー蝦夷ー安倍ー安東ー秋田ー現秋田氏の礎がここ八幡宮なのです ロマンがありますね
左 境内にある安東氏発祥の地の碑
左下 藤崎八幡神社 
南津軽郡藤崎町四本松 
下 安東氏顛末記の碑 境内にある

安東氏顛末記だけは読めますがそれ以外は小さい字がびっしり彫られているので判読は困難だ

 石碑には小さい文字で『松?年間安東氏八幡宮??  ?八百有余年』とある トップにと彫られているが何を意味するのか不明  
 ➡寵姫唐糸の事を聞き哀哭に耐えずその冥福をすすがんため弘長2年絶えたる旧跡を継ぎ廃れたる名藍をお興しして一精舎を建つ改めて護国寺と号し・・・・』とある 彼女の位牌は弘前市内の唐糸山万蔵寺[旧護国寺)に祀られてる(参考 執権時頼と廻国伝説 吉川弘文館)

下 比羅夫石 西津軽郡鰺ヶ沢町本町 
十三湊衰退後西津軽郡鰺ヶ沢湊は津輕藩の財政と経済流通の拠点となった ここの高台の白幡宮の境内に石がある 湊が一望出来比羅夫はこの石に腰掛て渡嶋遠征の日和を伺っていたかも知れない 1350年前の若々しい日本のフロンティア時代が偲ばれる所だ 由緒柱には「比羅夫が東征にさいし渡島に渡りし時座った石であると伝えられている」と記されている 真偽などは如何でもよのです 伝承だけで私のロマンは満足です その言い伝えの真偽はどうでもよいではありませんか 日本書紀の最古の史書の伝説が生きてるのが嬉しいではありませんか 上右 白八幡常灯碑 寛文9年(1664)鰺ヶ沢・深浦両湊口に燈明の儀が公儀から申しつけられた毎年4月1日から10月1日まで毎夜燈明を立てよとのことでその時の記念碑である 右 白八幡玉垣 鰺ヶ沢に入港した諸国の船や船問屋衆が奉納した御影石である 文化13年3月13日(1816)長州赤間関石工有光重兵衛と彫られている いずれも鰺ヶ沢地町の有形文化財である
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➡白八幡神社は大同2年田村麻呂公が東夷征討の勅命により鯵屋乃澤に来た時蝦夷退転降伏祈願所として祠を立て太刀一口と白旗八旗を納め白旗宮としたと言う伝承をもつ
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岩木山 
其の9

 

 上 唐糸御前の碑  下 唐糸御前塚
唐糸御前公園 西津軽郡藤崎町藤崎二本柳 
鎌倉時代の執権北条時頼の回国伝説にまつわる唐糸御前伝説である 藤崎町生まれで心根の優しい才色兼の彼女は第5代将軍北条時頼の寵愛を一身に受けるようになり廻りの女御の嫉妬と嫌がらせが激しくなった このため彼女は故郷の津軽に落ち延びたのです 一方出家して最明寺入道(中世の黄門)と改め撫民と慈悲の心をもって民情視察の全国行脚をしてこの津軽に来ることを知った唐糸は落ちぶれた容姿と羞恥心からお会い出来ないと柳か池に入水してしまった 時頼の時代に北条得宗家は全盛を極めていた(其の嫡男時宗の時に有名な蒙古襲来がある) しかし病に倒れた時頼は一旦出家して最明寺入道と号し質素・堅実・宗教心に厚く御家人・民衆に善政を敷いた名君とされている 其の彼が所謂廻国(微行)伝説でここ津輕やって来たが彼女の死亡を知った時頼は不憫に思い手厚く葬り塔婆を立てたという その後安東氏津輕氏による古碑調査には唐糸の文字のある石碑が今も現存している この伝承は北条得宗領と津輕の繋がりを示す伝説だろう 増鏡には『・・・しのびて諸国を修行しありきけり それも国々のありさま人の憂いなど詳しくあなぐり見聞かむの謀にてありける』とある まるで中世の水戸黄門だが真偽論争も多いようだ 津輕一統志には『・・・この時最明寺(時頼)巡国の為東行す ➡