尾駁の牧 高牧とはいわれるが今や農場になっている 遥か下には日本が消費する5日分の石油が備蓄されてるタンクが並ぶのが見える 六ヶ所村は全てがこの様な風景であるがどこか豊に思えるのはやはり原子力政策のせいか
 菅江真澄漫遊記 おぶちの牧の項に『・・・出戸の浜より未申か戌亥に当たっているがたかまぎと云う所がある 高牧であろう 山の尾根のようであって周囲に水が流れ木立も深く天然の荒垣を作っている その中の原なのでこういうが昔そこに牧がっあた ここから尻尾の毛がまだら色に生え乱れた馬が生まれたのでそれを時の帝に奉ったところもっぱら尾駁の駒と呼びこの牧を尾駁の御牧と称した ・・・・この高牧の木立がだんだん荒れてまばらになってきたので牧の馬どもは牧の外に群がり出でて自分の行きたい方に移動してしまい尾駁と室の久保村(六ヶ所村)との間の相の野と云うところに食を求めて出ていってそこが相野の牧となった しかしここもあまり良い場所ではないので野辺地に近い有度に移ったのを今は倉内の野に放ってそこが牧となってるが名は有度の牧と云っていると語った』とある
 
有度はいま有戸とあり陸奥湾側にその名を留めている  三沢市からくるとほぼ一直線の国道338号線を小川原湖・田面木沼・市柳沼・鷹架沼・尾駮沼と左に見て北上すると六ヶ所村だ 走り続けても風景は殆ど変わらない 単調な丘陵と畑と葦原が延々と続くだけである もう馬の姿は全く見えない

物見崎 菅江真澄遊覧記のおぶちの牧には『物見崎・屏風岩などを見ながら過ぎて次左衛門ころばしという所にかかったがそういう名の人が昔落ちたという事である・・・・』と書いてある  真澄は寛政5年現国道338号線をむつ市から砂子又・小田野沢・老部を通り11月30日白糠の物見崎を見て尾駁の牧に向かっている なかなか景色の良いところである

 尾駁の沼 尾駁の橋から
 菅江真澄は寛政5年の12月7日に室の久保(尾駁沼の南の鷹架沼の西端)を経て有度野を行くと野辺地の湊に行く道があるというが今は雪が深く積もって分けていく事が難しいと人が云うので元来た道を例の牛に乗って田名部の町をさして帰ろうと潟(尾駁の沼)の辺りを出て行ったとある
 然し江戸時代の真冬に下北半島をわらじ履きで歩くとは信じられない ここが芭蕉と違う所でしょう 芭蕉がいくら2000km歩いたとしても春から秋にかけての気候の良い時期で然も当時の一級国道が主であり更に歌枕と云う人に詠まれた名所が中心なのです 真澄に比べればいわば観光旅行みたいなものです





尾駮の牧 其の2      

・・・たいそう大きな湖(尾駁)がある この水上は細い流れが落ちてきて淀となっている この湖の外は荒海なので朝夕潮の満ちてくるときはさまざまの魚が波にさそわれて入り冬の半ばからは鰊が沢山入ってくる・・・(菅江真澄遊覧紀 おぶちの牧)