われが名を 尾駮の駒の あればこそ なつくにつかぬ みとも知られめ               蜻蛉日記 藤原 兼家
陸奥の 尾駮の駒も 野飼ふには 荒れこそまされ なつくものかは           後撰和歌集 読み人知らず
綱たへて はなれはてにし 陸奥の 尾駮の駒を 昨日見しかな         後拾遺和歌集 相模      おがさ原 尾駮の駒を なずけてぞ ゆきあふさかの 関にひきつる                      公基歌合せ
あふさかの 杉の群だち 引くほどは 尾駮に見ゆる 望月の駒                   後拾遺和歌集 良暹法師
きれひつる 尾駮の駒に 先き立ちて かつ見る人も 恋しかりけり         後堀河天皇百首 兼昌
野辺みれば また名におはぬ 桜麻の 尾駮の駒の 雪のむら消え        任二集 従二位家隆卿
つなたへて ひきはなれにし 陸奥の をぶちの駒を よそにみるかな              相模集 相模

高間木神社と六ヶ所村商工観光課中村豊彦氏
ご案内頂いた中村氏は高間木と云い私は先入観から高牧と認識していたので最初はどうも訛りのせいかと思っていたが間木は牧の事でそういえば三沢市にある古牧は昔は古間木(ふるまき)と云われていたので高間木高牧であることに納得した 尾駁の牧とは高牧の事なのである 更に相野の牧・有度の牧などは境目がなく兎に角下北半島一帯が牧だらけだったのであるようだ 秋田には菅江真澄の路としていたるところに彼の標柱が立ってるが残念ながら彼の足跡を記す標柱はないとのこと

  
尾駮の牧
青森県上北郡六ヶ所村と言えば日本原燃梶@核燃料リサイクルの商業利用を目的に設立された日本の国策会社を知らない人はいないだろう。 つまり全国から出る使用済み核燃料を受け入れ再処理してウランとプルトニュウムと高レベル放射性廃棄物を分離する所なのだが我々には難しい。5万分の1の地図を開いて見ると鷹架沼 尾駮沼がある。よく見るとその周りには『ウラン濃縮工場 低レベル放射性廃棄物埋設センター 再処理工場 再処理事務所 高レベル放射性廃棄物貯蓄センター むつ小川原国家石油備蓄基地』等未来のエネンルギーの基地が点々とある。所が古代宇曽利と呼ばれた六ヶ所村尾駮もやはり馬力と言うエネルギーの供給基地だったのを知る人は殆どいない。当時は基地ではなく『牧』と呼ばれていたのだ。古来陸奥は良駿を産出していたが殊に尾駮は上の様に都では多くの歌に詠まれた馬産地だったのだ。中世南部藩には700余牧があったが、南部九牧としてその名を留めたのは北野の牧(岩手県九戸郡大野)相内の牧(青森県三戸郡平良崎)木崎の牧(青森県三沢市)三崎の牧(岩手県九戸郡野田村)住谷の牧(青森県三戸郡名久井)大間の牧(青森県下北郡大間村)奥戸の牧(青森県下北郡大間村)蟻渡の牧(青森県上北郡野辺地 含尾駮の牧)又重の牧(岩手県三戸郡戸来村)である。その中でも尾駮の牧は七戸産馬畜産組合の中で最も古く開け、最も早く都の王宮人にも聞こえ歌名所の称を得たのだ。 その初見は951年(天暦五年)後撰和歌集とされている。七戸町から頂いた資料では『今尾駮の地に就いて尋ぬるに高牧と云ふて上古の牧跡なりと云伝ふる所あり。又出戸村に連なりて築造の跡ありとも伝ふ。是は確実ならざるも古来名馬産出の地にして東六ヶ所村と唱えしは尾駮村・高尾村(現鷹架)鞍打村(現倉内)等は皆相連接せる地にしてその名も又馬に由緒あるなり』とある。地図を見るとまさかりの柄の丁度中間の下の部分に沼があり、陸奥湾側に野辺地町有戸がある。その間を県道180号が茫漠とした丘陵を横切る。その有戸と尾駮の間辺りが尾駮の牧ではなかったろうか。気候的にも地形的にも今日でも農業には不向きな下北半島には馬以外には考えられないでしょう。然し尾駮に、宇曽利に、南部に、陸奥に何故駿馬が生まれたのかは定かでない。間宮海峡 樺太 宗谷海峡 北海道 そして津軽海峡を通って遥か昔に大陸から移動して来たのかもしれないね。所でこの尾駮の牧が宮城県石巻にもあるのです。これと同じく奥の海が陸奥湾と石巻の万石浦にあるように。(平成18年5月18日)
(参考 大日本地名辞書 吉田東伍・南部の誉柏葉城の馬 七戸町・菅江真澄遊覧記 平凡社)