我がことは 奥の郡の えびすかけ とにもかくにも ひきちがへつつ                    新千載和歌集 民部卿為家卿
陸奥の えびすの身より いだす血の ことうちなれや あはぬ恋かな                         袖中抄 藤原 顕昭
長月の 月のあり明の けしきをば 奥のえびすも あはれとやみん                   久安百首 上西内院兵衛

南部信直公の碑    南部氏菩提寺三光寺

南部信直公の妻の碑 信直公碑の隣
 歌に詠まれた奥の郡とはどの辺りを指すのかは定かでない。岩手北部のあの奥六郡の事では?と云う八戸市職員のメールもあるが不承知との事。勿論陸奥の奥にある郡である事は間違いないので、古代歴史の空白の地で奥六郡の北部中山峠の一戸から八戸辺りの所謂糠部辺りではなかろうかとしてみたのです。八戸市史には『糠部は公式にも非公式にも建部と云うかたちで古代国家の中に編入されたとは考えられず全く化外の地として北海道南部よりも取り残された地域である』と書いている。糖部は同じ青森でも津軽が655年(斉明天皇元年)に大和政権の新都難波長柄豊崎宮で「柵養の蝦夷9人・津刈の蝦夷6人に冠各二階授ける」と日本書紀に登場するのが初見だが、糖部については811年(弘人2年)坂上田村麻呂の後任文屋綿麻呂の青森侵攻の際の都母(つぼ)(現坪・天間林村)の記述がその初見なのである。凡そ160年の遅れでそれだけ不要不急の地だったのです。律令制下では陸奥の北限は盛岡市位までで爾薩体以北青森一帯は927年(延長5年)まで延喜式の行政郡制に編入されず記載すらない化外の地だったのです。つまりどうでもよい土地だったので歴史的記述も乏しいのだがその中でも重要な3人の人物がいるのです。一人は田村麻呂に隠れて目立たないが3代目征夷大将軍文屋綿麻呂、二人目は出羽俘囚の長清原武則に隠れて目立たない俘囚の長安倍富忠、そして3人目が頼朝の論功行賞で糠部へ入府した新羅三郎義光の後裔甲斐源氏の南部光行以下とその一族である。最北の賊地と言われる糖部だが桓武天皇792年(延暦11年)には夷俘爾散南公波蘇と宇漢米公隠賀が第一等位を賜ったとの記述もあるが、積極的根拠がないがその呼び名は前者はニサタイ、後者はヌカノブとこの辺りの地名と極めて似通っているのが興味を引く。然し基本的には「遠く奥地に賊を伐ち遂にその種族を全く絶滅す」との詔旨のもと蝦夷征伐はその後も長く継続された。  その第一人者が弘仁2年(811)綿麻呂の蝦夷討伐です。先ず官軍の降夷の吉弥候部留岐仁左体の蝦夷伊加古を急襲した。伊加古は更に奥地の坪(都母)に退却したという。市史によれば綿麻呂北進の際の軍粮補給の為の兵站基地で爾薩体から糠部都母まで第一基地から第九基地まで凡そ20km間隔で国道4号線(陸羽街道)沿いに建設された柵の名残が「戸」であると記されている。その距離は一日で往復できる凡そ20km前後であるという。今は無き四戸は三戸と五戸が30kmなのでその中間(凡そ15km)にあった事は間違いない。二戸市にある金田一城はもとは四戸城と言われている。四戸氏の始まりは初代南部藩主南部光行の四男南部(四戸)宗朝が二戸郡四戸郷を賜わる事に始まり南部領の南の守りや九戸氏の守りの為に四戸城を築城したという。  兵站基地が守兵駐屯地となり宿駅となり戦後は残留希望の兵が現地開拓民となり各「戸」に定住して後に村落となった名残と云う。つまり一戸から七戸が点在する現4号国道は糠部内陸を縦断する当時の軍用道路である。綿麻呂は帰路は糠部の海岸線や北上山中閉伊郡の蝦夷を掃討して徳丹城へ帰ったのではないか。そこに設置された柵が八戸・九戸である。このユニークな糠部の九かの戸の制度は自然発生的地名ではなく、人工的に中央政府によって名づけられたものに他ならないでしょう。例えば人工的に造られた京都や札幌の通りにつけられたの名前と同じなのだ。戸については諸説があり定説は無いようです。勿論南部氏が設けた「南部九牧」で有名な牧場の柵戸(きのへ)名らしいとも云うのです。戸については1248年(寛元4年)北条時頼下文に「五戸」が初見だが1184年(寿永3年)の宇治川の合戦の先陣争1着となった佐々木四郎高綱生呟が「七戸立」、2着の梶原源太影の摺墨が「三戸立」であることが源平盛衰記にあり、吾妻鑑には白河院が源頼朝に下した院宣の中に「御馬20疋進ぜらるる事」の文中には「戸立」の文言もみえる。又平治物語には藤原信綱の馬は「六部一の馬」とあり六戸立(六戸産だった(戸は部とも書いた)。綿麻呂の遠征は弘仁2年(811)と弘仁4年(813)の2回だが 天間林村坪にある有名な日本中央ニッポンチュウオウではなくヒノモトマナカ)の壷碑はその時のものだろうが俗に言う田村麻呂が弓矢の筈で彫ったものではなく綿麻呂が彫ったものかもしれない。綿麻呂遠征(811年〜814年以降凡そ250年間糠部(県東南部)は全く歴史から消えたように史書からその記述がなくなるのです。初期の賊首吉弥侯部止彼須可牟多知の乱(813年)以降は蝦夷と駐屯兵は緊張しながらも共存をさぐり交易(馬と生活・生産必需品との交換)をもって平和な時代だったのかも知れない。然し延暦6年(787)類聚3代格太政官符では陸奥蝦夷との馬の売買が禁止されたがその後も売買・交換を禁止する太政官符を3回も出している。つまり禁令のおふれを出しても出しても現地の役人や兵士は糠部の駿馬を購入していたのです。禁止の訳は『王臣及び国司等が争って蝦夷馬及び俘奴婢を買いあさる獣にも等しい輩が利潤を貪り良民をかどわかし・・・そればかりでなく無知の百姓は法を恐れず、蝦夷の馬を買うのに綿や甲冑鉄など、国の大切な貨物を支払っている。その支払った綿は蝦夷の衣服となり、冑鉄は敵の農具となっている。よく考えてみると、その害たるや真に甚だしいから今日以降、蝦夷との交易を厳禁する・・・・』と。
  
           奥の郡
(糠部)