そしてこの禁令は余り遵守されずその後も弘仁6年(815年)・貞観3年(861)と繰り返しの発令にもかかわらずなし崩し的に法は破られていったようです。現地現場では相変わらず不法な馬取引がなされていたのです。陸奥の馬に関する記述の初見は続日本記養老2年(718)『出羽并渡嶋蝦夷87人来たり。馬千疋を貢す。即ち位禄を授く』とあり陸奥の馬、殊に糠部の馬の評判は頗る高かったからなのです。糠部産の馬は狄馬ブランドで武士の垂涎の的でした。
綿麻呂に次いで糠部の重要人物は安倍富忠あである。彼は金屋(上北郡)・仁土呂志(糠部?)・宇曽利(下北郡)(つまり青森県の東半分)の首領だがこの男歴史上たった一度だけその名が出てくる謎の人物だがその果たした役割は極めて大きいのである。陸奥話記によると前9年の役で苦戦していた頼義は三陸気仙郡の同じ俘囚の郡司金為時に依頼して富忠の説得に当たらせその買収に成功した。あの奥六郡の長安倍頼良(頼時)は彼の寝返りに驚き2000の兵を引きつれを再説得に向かったが、富忠は説得に応じず頼良は富忠軍の流れ矢に当たり重症を負い鳥海柵迄引き返して死亡したのだ。その後安倍貞任・藤原経清との奮闘はあったが結局奥六郡安倍氏崩壊のきっかけを作った人物が富忠なのです。陸奥守の任期が切れたる源頼義に代わって次期後任に決まっていた藤原良綱はあの頼義の苦労を見て辞退してしまい已む無く頼義が再任されたのを見れば安倍頼時一族の強さが分かるでしょう。1057年(天喜5年)その頼時を討った富忠だが然しその後の足取りはいっさい不明なのである。あの同じ出羽の俘囚の清原氏が従5位下鎮守府将軍の破格の昇進を果たしたのとは好対照的である。これほどの大功を揚げながら何故彼は格別の恩賞も無く、そして歴史に記載される事も無く姿を消してしまったのだろうか?想像だが彼の奥の郡糖部が律令支配とは無縁の山北・山奥の地で気候・風土・生産・社会の様式が律令社会の導入にも程遠い全くの無価値の化外の地と民だったからだろう。彼等はそれを望み中央政府からの干渉と律令を嫌い恩賞や出世より安穏な蝦夷の生活を望む無欲なリーダーでそっとして置いて欲しかったのではないだろうか。 そして「1189年(文治5年)9月19日頼朝公奥州に泰衡を御退治として、東国に発向し玉う。此時光行公御先陣に有て阿津樫山国見峠所々に戦功を立玉ふに依りて、頼朝公御感浅からず、糠部郡を光行に給る。」(奥南旧指録)と有る様に甲斐源氏の流れを汲む加賀美次郎遠光の三男光行は甲斐国巨摩郡南部郷(現山梨県南部町)在住で |
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1190年〜1219年の間に糠部三戸に入り南部氏の祖となったのです。元寇3年(1333)本流源義家の流れを汲む新田義貞の北条氏鎌倉攻めでは甲斐源氏の南部時長・師行・政長の三兄弟も参戦している。現在南部と言えば南部鉄・南部風鈴・南部駒・南部せんべいなどで知られ盛岡のイメージが強いのです。若い頃には岩手北部にあって何故南部なのだろうかと不思議に思っいたものです。この南部氏同士は中々複雑で分かりにくい。実際は三戸南部・根城南部・八戸南部・遠野南部・盛岡南部等の関係が親族間・同族間の不信感や面子がからみで難解なのです。先ず最初に三戸に入ったのが南部氏宗家の南部光行で三戸南部氏となりその子実光がそれに続くのが本家筋です。その後26代信直が同族の二戸の九戸政実の乱を平定後蒲生氏郷や浅井長正等の勧めで山中の三戸から便利な盛岡へ移動し盛岡南部氏となる。一方で実光の弟実長が八戸にはいり4代師行の時南朝陸奥守北畠顕家の国代として糠部に入り築城し「北奥の拠点」「奥塞の根柢」「奥州蕩平の根の城」となるべく顕家は糖部の根本の地となりその発展を願い根城となずけたと言う。以後根城南部となるのです。。根城は奥州に於ける南朝方最高の拠点となり以後5代(師行〜正光まで)にわたり南部の皇勤と歌われたのです。然しその後本領安堵の朱印状を秀吉からもらっていた盛岡南部氏は、南朝の国代として後醍醐天皇から賜った天載の地でプライドある根城南部氏を南部利直が対伊達対策として遠野への国替えを命じた。これにより根城南部氏は領主権を失い輝かしい歴史を終え本家の一家臣に甘んじる事になるのです。例え本家とはいえ天皇から頂いた土地を手放す根城南部の屈辱はさぞ無念であったろう。これが遠野南部氏の始まりである。そしてその後任に糠部に入って八戸城を築城して居城としたのが利直の子直房でその後は八戸南部氏と呼ばれるのである。ザッと云えばこんな具合に南部氏一族はは青森東南部・岩手中北部にその影響力を及ぼしたのです。如何でしょうか。現在でも尚蝦夷の香りがする奥の郡糖部の歴史は実に素朴で魅力的なのです
(平成18年6月3日)(参考 七戸市史・八戸市史・北辺の中世史 名著出版・青森県の歴史 河出書房新社)
奥の郡 其の2
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国宝 合掌土偶 是川縄文館
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