東路の 奥の牧なる 荒駒も なつくるものは 春の若草                 拾玉集巻二 滋鎮 
陸奥の 牧の荒駒 みのほとに のりゐるものは 心なりけり          夫木和歌集 民部卿為家
奥の牧の 野とりの駒の かたなつけ ともすれば又 あるる君かな 新撰和歌六帖  民部卿為家
荒野の牧
陸奥の 荒野の牧の 駒だにも とればとられて なれゆくものを  千五百番歌合  藤原 俊成 
館野の牧
名に高き 館野の牧も 宮城野の 木の下見るに いかがまさらん    曾丹集  曾禰 好忠
陸奥の 秋田の山は 秋霧の 館野の駒も 近つきぬらし                曾丹集  曾禰 好忠 
はるばると 舘野の牧に ひく駒の  なづまずこえぬ 逢坂の関    夫木和歌集  正二位季経卿
きりかくれ 舘野の牧に ひく駒の 音つづくなり せたの長橋     夫木和歌集  野宮左大臣 
右 馬歴神社  青森県三戸郡三戸町川守田
流石馬産地だけあり三戸町には馬歴神社がある ほころびが目立ち現代では余り参詣する人はなさそうだが、ここに唐馬の碑写真右)なる日本では外国馬の資料としては最古の碑がある 享保10年(1725)八代将軍吉宗にオランダ人が献上したペルシャ(春砂)馬南部藩に下賜されたのです 藩ではこれを住谷野の牧に放牧して馬匹の改良を図ったが9歳で亡くなってしまった 人々は三つ葉の松を墓印として馬の神としてあがめた 寛保3年(1743)元野馬別当の石井玉葉が追善の為の碑を建立した この碑は日本産馬史上極めて貴重な碑だそうだ 

弘仁2年弘仁4年の文屋綿麿呂の糠部遠征の記述以降前9年の役(永承6年)までの250年間青森糠部地方は一切日本の歴史上の記述はなく空白の時代を迎える。元来岩手県北部・糠部・宇曾利地方は律令支配が及ばず、従って建部がなされなかったのはこの地が積雪寒冷地で弥生式水稲栽培が不可能で、無理してまで支配下に置く価値もない地域と中央政府が考えていたためである。その中で中央政府が最も恐れたのが狄馬と中央政府備品の綿や鎧・甲冑・鉄との物々交換でいくら禁止しても守られなかったようで、三度の禁止令はその事実を伝えていて興味深い。@延暦6年(787)正月21日太政官符[応ニ陸奥按察使、王臣・百姓、夷俘ト交換ヲ禁断スヘキ事]・A弘仁6年(815)3月20日太政官符[馬ヲ出スヲ禁断スルノ事]・B貞観3年3月25日太政官符[応ニ馬ヲ出スヲ禁断スヘキノ事]。政府は目の届かぬ遠くのお役人が狄馬と蝦夷を奴隷として買い漁っていて、獣みたいな輩が利益を貪り良民をかどわかし他人の馬を盗み売る者が日増しに増え規律が乱れる事を嘆いている。無知な百姓は法を恐れず大事な国の貨物で支払いその害たるや実に甚だしいから今後蝦夷との交易を禁止するという御触れだ。中世の南部氏は更に馬産に力を注ぎ南部九牧と呼ばれる牧場を設置した。北野牧(岩手県九戸郡大野)・三崎牧(九戸郡野田)・相内牧(青森県三戸郡良崎)・住谷野牧(三戸郡名久井)・又重牧(三戸郡戸米・倉石・五戸等)・木崎牧(上北郡三沢・百石)・蟻戸牧(上北郡野辺地)・大間牧(下北郡大間)奥戸牧(同)である。近年でもダービー優勝馬を多数輩出する等まさに有史以来の馬産地なのです(参考 七戸市史・東北不思議探訪 無明出版社 青森県の歴史散歩 山川出版社・)
右  馬の神様 花松神社  青森県上北郡七戸町花松林ノ根
慶長2年(1597)の創建と云うが糠部地方には昔からがあったので古くから馬頭観音信仰が盛んで近郷近在から多くの馬主が着飾った馬を引き連れて参詣に訪れ絵馬を買い求めて奉納したり買い求めた絵馬を神前で神職に御祈祷してもらい馬小屋の神棚に納めて其の繁栄を願ったという 今馬の姿は見えない 

                         奥の牧