奥の牧と云う固有名詞があったわけではないでしょう。糖部にある牧の総称ではないでしょうか。陸奥 ことに南部(岩手) 糠部(青森)は馬産地として古来歴史上有名な馬を排出しているのはご承知の通りだ。牧は云うまでもなく牧場(まきば) 牧場(ぼくじょう)の事であり、宮沢賢治の花巻 や古牧温泉の古牧(近くに古間木なる地名在り)などもその名残ではなかろうか。ここに載せた奥の牧 荒野の牧 館野の牧が何処なのか不勉強の誹りは免れないが、青森で13年間電力会社勤務の八巻氏(中学時代の同期 彼もまた芭蕉の足跡を辿っている)は七戸辺りではないか。あの辺り一帯は至る所が牧場だからというのだ。岩手北部から青森県の東半分は古来糠部と呼ばれていて「糠部の駿馬」として広くそのブランドは坂東武士の間では垂涎の的だったのだ。そして皆さんも不思議に思う地名の一戸から九戸の四門九戸(しかどくかのぶ)の呼称も、中世地頭南部氏の馬牧の組織にかかわる制度から出たものだという説すらる。北辺の中世史 戸の町の起源を探るに詳しく載っており大変興味深いのです。又文屋綿麻呂が糠部・都母村まで蝦夷を征服した折その兵站基地として順番に名前を付けたもの とも謂はれ諸説賑やかである。確かに低い丘陵地帯が続く所謂南部と下北は今も馬にはうってつけの環境である事は間違いな。所で歴史上有名といへばあの源平盛衰記にある木曽義仲と頼朝・義経との源氏同士の合戦”宇治川の先陣争い”であろう。1184年政略家頼朝をして「日本一の大天狗野郎」とあきれさせたあの後白河法皇は平家を追い出す為に義仲を利用し、今度は義仲を追い出す為に頼朝を利用した宇治川の合戦の先陣争いである(その後頼朝を牽制するために義経を利用するのだがそれにより頼朝・義経の確執は決定的となる)。頼朝所有の名馬池月・摺墨を所望した範頼・義経には与えず、佐々木四郎高綱と梶原源太景季に与えた。高綱の乗った馬が生咬(いけづき)で此処七戸立(蟻渡野牧) 2着となった景季の乗った磨墨(するすみ)は三戸立(住谷野牧)だったのは有名な話である。先陣争いに勝ったのは高綱である。又平治物語に平泉の基衡が後白河法皇に「六戸一の黒」という名馬を送ったし、他に義経が乗って”ひよどり越えの坂落とし”で有名な太夫黒 又平敦盛との一騎打ちで有名な熊谷次郎直実の権太栗毛(一戸立) その子小次郎の西桜(三戸立) 和田義盛の白波・源三位頼政の嫡男仲綱の木下丸(南部九牧の一つ木崎牧)等枚挙に暇がないのである。その後南部氏は所謂南部九牧の他更に田鎖野 妙野 広野 立崎野の計13牧を開いたと言う。 |
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全国の中での南部馬の地位は南部700余牧・仙台98牧・二本松7牧・秋田47牧・津軽30牧・会津11牧・三春67牧・守山12牧・最上20牧・庄内2牧・米沢32牧 とあり南部を除き他の牧数は572牧であり南部だけで他国合計の1・4倍程あるのです。 然もその価格も他の牧に比べ割高だったのです。
国 陸奥 出羽 畿内 常陸 越後 大宰府管内
上馬 600 500 250 500 400 400
中馬 500 400 200 400 350 300
下馬 300 300 150 350 300 200
当時馬一頭の稲束の数なのです。こうして見ると蝦夷にとって極めて有利な商売に見えるが、純朴・愚朴の蝦夷にとっては大和の民の狡猾な悪知恵の敵ではなかったのです。安く買い叩かれた値に従うほかなく困窮は相変わらずだったと言う。此れと似たような事は近世・明治中期迄続いたのです 鰊・昆布を蝦夷(エゾ)より仕入れる際の数を数える時に一つ・二つと数える前に「始め」と数えはじめ、九つ・十で終わるのでなく「終わり」で数え終わるのです。つまり「十二束」の鰊・昆布を仕入れて蝦夷(エゾ) に支払うのは「十束」分しか支払わなかったのです。このように陸奥・北海道は古代の馬から近代の鰊・昆布に至る迄長年にわたる討伐と搾取の歴史だったのです。亦馬肝煎と云う者がいて各村内の牛馬の監督しそのその飼育や移動には厳格な監視があったのです。主なものに
一 七戸地方上等の産馬は地方内に限り売買を許すと雖も他地方への売却を禁ず
一 他地方の産馬は七戸地方へ一切入るるを禁ず
一 七戸地方の産馬は五戸地方を除き他は一切買い入れを禁ず
一 五戸地方の産馬は七戸を除くの外売却を許す
一 三戸・田名部・野辺地三地方の産馬は上中を問わず互いに売買を許すと雖もこれを他国に売却を禁ず
一 下等の馬は七戸・五戸を除くの外地方の内外を問わず之を売却を許す
等とあり馬種混合の弊害を防ぎ糖部七戸の良馬の増殖・繁殖を促したのです。今で言う一村一品の先駆けみたいなものです。今七戸は八戸・青森の中間として新幹線の停車駅に決定した。愈々馬離れの時代がきたかも知れない。(平成18年6月12日)(七戸文化村資料・柏葉城の誉 七戸市・七戸市史・古代語の東北学 歴史春秋社・北辺の中世史 名著出版・菅江真澄遊覧記2 兜ス凡社)
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三戸城 三戸郡三戸町梅内
三戸城は永禄年間(1558〜1570)の24代南部晴政公の築城だが建久2年(1191)初代南部光行公入部の際の防衛上の拠点ともいう 26代南部信直公は領地が岩手北部に広がり領内の中心でなくなった三戸から慶長2年(1597)盛岡へ移り三戸城は御古城と呼ばれた
奥の牧 其の2
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