左 会津藩招魂碑は七戸町以外にも三戸町悟真寺と十和田市澄月寺には会津藩士戊辰戦死者招魂碑・三戸町観福寺の日本最古の白虎隊士墓・五戸の三浦家には藩主松平容保公が明治4年下北田名部へ移るまでの1年間仮住まいしてる  斗南藩の名称北斗以南皆帝州から採ってるが 『本州最果ての地もまた大君の領土だ 我々は朝敵でも賊軍でもない 共に北斗七星を仰ぐ帝州の民である』を意図してる 斗南藩はここ糠部地方と下北半島の2か所に分かれていた (参考 北辺に生きる会津藩 会津武家屋敷) 
奥の牧
 其の2B


十和田市の官庁通りは日本の道100選に選ばれてる
上左 太素塚 上右 塚にある渡戸親子の像 左 新渡戸稲造・右 祖父傳・奥 父十次郎
慶応2年傳は自筆の墓石「太素塚」を建てたのここを太素塚と呼ぶ 十和田市東三番町
上左 新渡戸 稲 造墓碑
 太曽塚 新渡戸 傳 墓碑
左 新渡戸 十次郎 墓碑
十和田市の始まりは南部藩士新渡戸 傳(号は太素)でありその息子十次郎・孫の七郎・稲造に始まるのです 十和田市と云うよりも新渡戸市の方が相応しいのです   火山灰地とヤマセによる不毛の三本木原野の開拓に乗り出したのが新渡戸稲造の祖父新渡戸傳(つとう)なのです 開拓で有名なのは明治12年(1879)福島県の国策による安積原野開拓だがが三本木開拓は安政2年(1855)と安積のほぼ25年も前の江戸末期個人の発想に始まるのです 人工河川稲生川の開削です 開拓の3年前に東北遊行した吉田松陰は『田畑はあるがこれも又みな荒野である』と書いている 父のあとを継いだ十次郎も三本木原野の町割を京都の町を模して12町四方を碁盤の目の都市計画をたてたのです 今の官庁通り(長さ1.1km幅36m)はその一部なのです
右上 會津藩士20名の招魂碑
      
上北郡七戸町青岩寺

青岩寺の飢餓供養塔と日本廻国供養塔
     
同青岩寺